古代日本の歴史を謎解き

日本の古代史の謎に挑戦します。

吉野ケ里遺跡(卑弥呼は吉野ケ里の祈祷師)

2016-10-12 17:53:53 | 歴史
倭の大乱を納める為に選ばれた女王 卑弥呼
伊都国、奴国など倭国の強国にはそれぞれの神がいて、祀り事もそれぞれだったと思います。
それらの国から祈祷師を選ぶでしょうか。
国連の議長が、アフリカや韓国などから選ばれるように第三国の小国から選んだ方が問題が少ないと思いませんか。
吉野ケ里での祈祷は、農耕に関する気候など祈祷したと思われます。
強国では、戦いの神や先祖の神々があったりしたでしょう。
特定の神を持たない太陽神の祈祷はそれぞれの国の事情を超えてまとまるに値したと思います。
しかし、環濠内部で祈祷を行うわけにはいきません。
九州北部のどこかに祈祷の建物を造り、そこで祈祷した、或いは卑弥呼に祈祷を指導して
新しい祈祷術が生まれたのではないでしょうか。

卑弥呼に死後に男王が立ち、再度、争いの時代になります。
その時期に吉野ケ里の内壕の人々が姿を消します。
卑弥呼が健在の間は、吉野ケ里も安全でしたが、卑弥呼死後、吉野ケ里は非常に危ない立場になります。
国を捨てる覚悟をしたのではないでしょか。
しかし、その前に一つやらなければならない事があります。
卑弥呼の葬式です。
卑弥呼の墓は、吉野ケ里なのです。
吉野ケ里から人々が消えると同時に古墳が出来ます。吉野ケ里は墓場集落になるわけです。
魏志倭人伝で紹介される卑弥呼の墓は
直径100mで100人が殉職したとなります。
吉野ケ里の古墳では、少し小さいでね。しかし
しかし、100mではなく、100歩です。
100歩なら30~50mで十分です。
まして、殉職(生きたまま土に埋められる)となると、普通の文化人には出来ません。
かなり信仰に深く覚悟がいります。
意外と、卑弥呼死後、吉野ケ里でも死人が多数出た。
卑弥呼を甕棺に入れて墓に入れると同時にほかの遺体も埋めて埋葬した。
残った墓の形を見ると卑弥呼を頂点に多数の甕棺を埋めた後が列となって見えた。
と云う事ではないでしょうか。
卑弥呼の墓も魏の役人が見たわけではありません。単なる聞き情報です。
親魏倭王の金印を送る程の仲であれば、葬儀にも出席してほしかったですね。
葬儀に魏の役人が出席していれば魏志倭人伝の内容もかなり変わっていたはずです。

おまけに 天孫降臨の神話があります。
アマテラスの孫、ニニギが機織など技士と共に
高天原を後にして、高千穂の地に降り立ち、日向の地で暮らします。

仮定として、アマテラス=卑弥呼、高天原=卑弥呼の宮殿 だとします
九州北部から、五つの部族と共に国を離れ、高千穂を通り、太平洋側の日向に移動
したという事になります。

卑弥呼の死後、男王が立ち、新しい国造りが始まりますが、争い事が発生
吉野ケ里の一族が卑弥呼の遺体を引き取り、吉野ケ里の墓群に埋葬
卑弥呼の遺品や稲の種をもって、吉野ケ里を捨てます。
一族は、同じ考えての人々と共に南へ進み、熊本から阿蘇山ふもとへ
高千穂へ登り、川を下ると日向の地にたどり着いた。

環濠内で生活していた1000人程の大移動で、環濠外の人々は別の土地へ
移動したでしょう。
新体制中へばれない様に潜り込む、東へ進み大分辺りで豊国に
住み着いたのではないでしょうか。

後に邪馬台国を引き継ぐ女王 台与 がいますが、初代女王 卑弥呼とは全く異なる
国になっていたでしょう。
台与は、確かに当時の人名の様な気がします(豊国もあります)
卑弥呼や卑弥弓呼は、人名(固有名詞)とは思えないのです。
祈祷師の職業役職ではないでしょうか。
初代卑弥呼の死後、この役職も無くなった事でしょう。
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