古代日本の歴史を謎解き

日本の古代史の謎に挑戦します。

筑紫、豊国、肥国の関係(その3 関門海峡、周防灘の海流)

2017-06-25 15:38:08 | 歴史
筑紫、豊国、肥国の関係(その2 大陸との航路)の続きになりますが
関門海峡は、潮の満ち引きに応じて海流が大きく変わる事で有名です。
月の公転で海面が滿汐、引潮になります。
約6時間に潮の流れの向きが変わります。
関門海峡の一番狭い部分では、最大9.4ノットの潮流です。
みち潮時は西流れ、ひき潮時には東流れとなり、1日4回約6時間ごとに向きを変えます。
周防灘も同様ですが、潮流はさほど早くありませんが、やはり2~3ノットです。
狭い部分で、佐田岬沖でが、更に速い潮流が発生します。
当時の船が手漕ぎで、2~3ノットですので、この潮流をりようすれば、通常の2倍以上の速さが出るわけです。
航海は明るい昼に行われて、夜は危険ですが、昼間でも潮流の向きが一度は変わりますので
現在灘側から周防灘を超えるチャンスは、一日一度で、半日で目的地の港に入る必要があります。
もし、平均5ノット(時速9km位)で6時間進めば、約50kmが一日の航海距離です。
北九州市の関門海峡に近い港で引き潮(東流れ)を待つ、一気に関門海峡を東に抜けて、周防(山口)或いは国東半島の港へ停泊
翌日の引き潮(東流れ)にのって、大分へ、或いは佐田岬を超えて、宮崎へ渡る事になります。
西へ進んで、関門海峡を通る場合も同じでしょう。
奴国からは、豊国まで二泊三日、肥国まで、三泊四日、或いは四泊五日かかります。
関門海峡を渡るのは、潮流が止まった時に一気にわたります。
そこそこ大きな分であれば、玄界灘の沖合で対馬海流をりようしますので、小舟を使った場合の話です。

この関門海峡、周防灘が有効に機能するようになったのが、いつの時代だったのか。
古事記では、何と あの神功皇后が関門海峡を作った事になっています。
関門海峡は太古の昔からありますので、神功皇后の時代にヤマト朝廷が支配権を握ったという程度だと思います。


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