古代日本の歴史を謎解き

日本の古代史の謎に挑戦します。

邪馬台国の発展

2016-11-27 13:42:58 | 歴史
180年、卑弥呼は周囲の国々の協力を得て祈祷を目的とする邪馬台国を作ります。
最初は、主となる祭殿を建てて卑弥呼が中で暮らします。
周囲には、卑弥呼の面倒をみる女性たちの建物があったでしょう。
祭殿の下に広場があり、時々、諸国の王を集めて祈祷を行います。
その際に、食べ物などは貢がれます。

邪馬台国は、すぐに大きくなります。
祭りの広場から見えないところに、食べ物を蓄える倉庫
蚕、機織、酒造り、祭事の道具作りの建物などが建てられます。
周囲には、中が見えないように高い壁が作られたでしょう。
周囲の国々から若い女性が集められて、機織や酒造りを行います。
王を集めての祈祷は、大きなお祭りとなります。

諸国から王が集まります。
会議を行い、卑弥呼に祈祷や占いの内容を決めます。
卑弥呼に使える男性にその結果を伝えます。
卑弥呼が祈祷を行い、その結果を男性へ、その男性から諸国の王へ発表されます。
祝宴の時間になります。豪華な食事が器に盛られ、若い女性が接待します。
中央では、若い女性たちが踊り続けます。
朝日が昇ると卑弥呼から織物が配られて終宴となります。
例えるなら、竜宮城でのおもてなしです。

卑弥呼への貢物は徐々に増えていき、土地も建物も増えていきます。
中で働く女性陣も増えていきます。
織物が邪馬台国の産業となります。
倉庫には、貢物や自分たちが作った織物でいっぱいになります。
国王を接待した女性たちからは、諸国の情報も入ります。
大陸の状況も入手したでしょう。
接待で国王に気にいられると女性は国王の元へ嫁いだでしょう。

機織など工房ではリーダーとなる女性が地位を固めます。
卑弥呼も既に二代目に交代しているはずです。
情報がありますので、占いの確率も向上しています。
自給自足のために周囲で農耕も始めます。
諸国と異なるのは。男性が住んでいない」です。
残念ながら 吉野ケ里<>邪馬台国 となります。
しかし、吉野ケ里の祈祷は、卑弥呼の祈祷に非常に似ています。
邪馬台国の女性が吉野ケ里へ嫁入りしたのではないでしょうか。
卑弥呼は吉野ケ里の王に、邪馬台国を真似した国造り、祭り事を教えて
吉野ケ里は、それに従います。

倭国に平和な時代が訪れると、武力に余力が出来ます。
卑弥呼は、その武力を朝鮮半島へ向かわせる様に指示を出します。
この事で、国内紛争が無くなり、朝鮮半島から鉄、青銅が輸入されるようになるわけです。

220年(邪馬台国が出来てから40年後)
大陸で 後漢 が滅びて、三国時代(魏蜀呉)の時代となります。
朝鮮半島南部は、倭国の支配下にありました。
特に、出雲国は隠岐の島経由で直接、朝鮮の鉄を輸入して、鉄製品の製造工場(たたら)と
なり成長します。

238年 魏が勇勢となり、朝鮮半島へ進出します。
倭国は卑弥呼を代表として、貢物を魏の初代武帝王を贈り「親魏倭王」金印を貰います。
更に出雲国へは倭国同盟に加わる様に(国譲り)迫ります。
邪馬台国では、これを機会に次代の卑弥呼への権限移譲が進んだと思います。
先代の卑弥呼は死後のことを考え、近畿に移住し自分の墓を作り始めます。
これが、箸墓の前方後円墳となります。

248年 卑弥呼の死 と記載されていますが、実際は
近畿に労働と財力を移住した為、邪馬台国で祈祷の儀式が品祖になり、破たんした年です。
倭の諸国は、男王を代表者としますが、諸国の納得を得ることが出来ず
再度、邪馬台国の巫女であった 台与(13歳)を王とする事で意見がまとまり
九州に、第二の邪馬台国造りを始めます。




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