古代日本の歴史を謎解き

日本の古代史の謎に挑戦します。

吉野ケ里の古墳が卑弥呼の墓

2016-10-12 20:40:15 | 歴史
いやいや、卑弥呼の墓は箸墓古墳でしょう。
箸墓古墳
・大和盆地東南部の三輪山山麓にある奈良県纏向(まきむく)遺跡の古墳群にある。
・全長約280メートルの日本で最初の巨大な前方後円墳
・纏向遺跡は、ちょうど唐古・鍵遺跡と入れ代わるように出現します。
・紀元180年ごろに突如として姿を現し、紀元340年ごろ、急速に衰退する。
・日本書紀では百襲姫(モモソヒメ)の墓とされています。
・百襲姫(モモソヒメ)は、大和朝廷の初代崇神天皇のそばに仕える巫女

日本書紀の事です。神功皇后の時の様に、卑弥呼を百襲姫として登場させるくらいはしたでしょう。

しかし、まだ解せません。
箸墓古墳は広大で盛り土で作られたようです。
これだけの墓を造るには何年もかかったでしょう。
他にも古墳が多数ある事から、周囲に住んでいた一族は年中
古墳つくりを行っていた事になります。
卑弥呼の親魏倭王の金印を貰った時点で、古墳の準備が始まったのでしょうか。
魏志倭人伝では、卑弥呼の死後、男王が立ち国が乱れたことになります。
つまり、卑弥呼の死後の準備が出来ていなかった事の様です。
これだけの権力を持ち、死後の準備もしていた卑弥呼
死後の男王は誰だったのでしょうか。
もし、卑弥呼が後継者を指名した後に死んだのあれば、次期の男王で乱れなかったと思います。
政権中も天敵 狗奴国の卑弥弓呼 の対応に苦労しています。
この様な大規模工事を行うくらいなら南方防衛に人を割くべきだったでしょう。

しかし、この時点で九州朝廷をしのぐ、一大勢力が近畿にもありました。
日本書紀の神話では、近畿の歴史は神武東征以後になります。
天皇家は近畿在住の勢力を無視しています。出雲の勢力はきちんと取り込んでいます。
出雲の勢力は天皇家に服従した勢力でしたが、近畿の最大一族は最後まで反抗したのでは
ないでしょうか。古墳が既にあったので勝手に採用した可能性もあります。
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