草莽隊日記

混濁の世を憂いて一言

イデオロギーを振りかざす暴力と日本の保守は無縁だ!

2016年12月20日 | 思想家

あくまでも翻訳ではあっても、ミッシェル・フーコーを読むことは、新鮮な驚きに浸ることである。彼のような思想家が登場したことで、未来への楽観的な進歩史観は否定された。時間の流れが全てを解決するという考えは、完膚なきまでに粉砕されたのである。人間という言葉にしても、あくまでも近代の産物でしかなかったのだ▼数年ほど前にブックオフでフーコーの『性の歴史Ⅱ 快楽の活用』(田村淑訳)を買い求めた。全てを読破したわけではないが、その序文に心動かされた「自分のものの見方を変えるために、自分が知っている事柄の地平を変えるために、そしていくらか距離を置こうと努めるために行なう」「旅は事物を若返らせ、そして自己との関係を熟成させるものだ」▼フーコーの研究者ではなくても、その断片的な言葉に感動するのではないだろうか。自己を絶対化しないのである。だからこそ「いったい何が自分自身の思索のなかで変わりうるか、それを探求するのはその言説の当然の権利なのである。《試み》それは真理の働きのなかでの自己自身の変化をめざす試練、という意味でなければならず、意思疎通を目ざして他者をあまりにも単純化したやり方で占有する、という意味で理解してはならなのだ」と書いていた▼日本のポストモダンの思想家は、誰一人としてフーコーのような厳しさを己に課していない。それと比べると日本の保守はまともである。他者に対してイデオロギーを振り回すことは、他者暴力であることを熟知しているからだ。

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