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日本語は論理的である

学校文法では、「文は主語と述語によって成り立つ」と教わる・・・という文には主語がない。こういう場合、学校では「生徒は」という主語が「省略されている」と教わるが、この基準で日本語の日常会話を分析すると、90%以上の文で主語は「省略」されている。世界の他の言語をみても同じで、主語が不可欠なのはインド=ヨーロッパ語族の一部に限られる。主語・述語モデルにもとづく生成文法も、「普遍文法」どころか「ヨーロッパ語文法」でしかない。

このように英語をモデルとして「日本語は主語がないので論理的ではない」という学校文法に対する批判も古くからあり、時枝文法や三上章など、「日本語の論理は英語とは違う」とする議論も多い。本書は、学校文法や生成文法を否定する点ではこうした理論と同じだが、「日本語特殊論」も批判し、日本語と英語は同じ論理の変種だと論じる。著者の理論的根拠とする認知言語学は第2章に要約されているが、くわしいことは著者の前著を読んだほうがいいだろう。

認知言語学では、意味から独立した統語論を否定し、文をメタファーの関係としてとらえる。ここでもっとも基本的なのは、外的な世界を概念化する過程であり、文法はその概念=メタファーの関係をあらわす形式にすぎない。そうした形式のルールは記号論理学として完成されており、そこには主語という概念は存在しない。たとえば「犬が走る」という文はf(x)のような関数(述語)として表現され、その複合が命題になる。多くの文は複数の述語の複合した命題であり、その論理的な関係は集合の包含関係に置き換えられる。

日本語の「象は鼻が長い」といった文が表現しているのは主体と客体の関係ではなく、象という全体集合の中に鼻という部分集合があるという包含関係だから、命題論理に近い。英語は、文の要素としての述語論理の構造に近い。両者は別の論理ではなく、同じ論理の異なる面である。出来事が「なる」ことを誰かが「する」ことだと考えるのはきわめて特殊な発想で、たとえば「雷がこわい」という文を"The thunder scares me"というように無生物を主語にする文は不自然である。主語=主体を特権的な概念とする欧米語の文法は、自己完結的な個人という西欧近代のフィクションを反映しているのだ。こうした「主体」の概念に対する批判は、ニーチェからフーコーに至る哲学者のテーマだったが、それが脳科学で検証できるようになったことは画期的だ。

20世紀の社会科学の主流は、生成文法や新古典派経済学のようなメカニカルな方法論だったが、その限界生産性はゼロに近づいた。21世紀の主流は「認知論的転回」になるのではないか。だからといって、それは新古典派が無意味だということを意味するわけではない。かつて人工知能の挫折によって人間の知的活動がアルゴリズムに帰着できないことが否定的に証明されたように、今回の金融危機で金融工学の限界が明らかになったことが、メタファー(アニマル・スピリッツ)にもとづく行動経済学を生み出し始めている。科学は理論と実証によって進歩するのではなく、このようにパラダイム(メタファー)とそれに対応する科学者集団の闘いによって変化していくのである。
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先生と呼ばれるほどの馬鹿でなし

私は大学で教えているので、学生に「先生」と呼ばれるのはかまわないが、それ以外の人に先生と呼ばれるのは違和感がある。これは誰でも同じらしく、RIETIでは「先生は禁止」というルールをつくった。東大には「自分が教わった教師以外は先生と呼んではならない」という「根岸ルール」があるそうだ。

特に不愉快なのは、官僚が日常会話にもすべて「先生」をつけることだ。これは政治家と同じで、言外に「お前は祭り上げておくが、決めるのはこっちだ」という軽蔑のニュアンスを感じる。このごろは外人も「先生」をつけるようになった。日本の事情にくわしくなると、政治家とか教師とか弁護士とか医者とか、社会から馬鹿にされつつ形式的に尊敬されている職業につける敬称であることを理解するらしい。

企業の中では「課長」「部長」というように肩書きで呼ぶのが日本のマナーだが、これも外人がみると奇異に映るようだ。外資系企業では、同僚は(日本語でいうと)呼び捨てで、ほとんどはファーストネームで呼ぶ。日本人には「さん」をつけるが、外人どうしてMr.をつけることは上司でもまずない。ただ中国では「先生」という敬称が「さん」に近い感じで使われているので、日本語は中国圏なのかもしれない。

こういうマナーは意外に重要で、日本でもマスコミは「さん」が多い。朝日新聞は民主主義だから社長も「さん」で呼ぶ――と入社試験のとき教えられた。NHKもそれに近く、ほとんど「さん」だ。出演者にも「先生」はつけないのが原則だ。

こういう問題は、sociolinguisticsという分野で実証的に研究されている。言語が主語と述語でできているなどというのはインド=ヨーロッパ語族の自民族中心主義で、大部分の言語には主語も述語もない代わり敬称や敬語が発達している。その典型が日本語だ。『源氏物語』には主語はないが、敬語によって人間関係は正確にわかる。日本語にyouに相当する代名詞がないのも、同じ共同体に所属している人々の会話なので主語は自明だったからである。相手をいちいち「**さん」と呼ぶのはわずらわしいが、時枝誠記も指摘したように、もともと日本語に主語はないのだ。
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日本語はすでに亡びている

本書はちょっと前にブログ界で話題になったようだが、妻が買って「つまらない」といって投げ出した。私もパラパラと読んでみたが、やはりつまらなかった。論旨が整理されておらず、何がいいたいのかよくわからないのだ。タイトルから日本語が文字どおり使われなくなると主張しているのかと思って読むと、どうもそうではないようだ。要するに、このまま放置すると英語が<普遍語>になり、日本語が<現地語>になって、日本文学が亡びるので守らなければいけないということらしいが、これは認識として間違っている。少なくとも学問やビジネスの世界では、日本語はとっくに現地語でしかない。

著者は「日本文学の衰退」をしきりに憂えるが、私はローカルな文化としての日本語は衰えないと思う。問題はむしろ日本語が発達しすぎ、ほとんどの用がそれで足りるため、すべての文化が国内で閉じていることだ。国際学会に出ると、日本語の発表はもちろん、日本人の発表もほとんどない。無理やり「アジア代表」で招待された日本人も、うつむいて原稿を読むだけ。技術標準を決める会議でもそんな調子で、日本人は参加者は多いが発言しないので、標準化の得意なヨーロッパ人が勝手に決めてしまうそうだ。

この「日本語の壁」を、著者のいうように教育で是正することは困難だと思う。これは日本がアジアでほとんど唯一、植民地化されなかったおかげだからだ。東南アジアへ行くと、子供でも慣れた英語を話すし、学問は英語でしかできない。それは彼らの自国語が現地語の地位を強制されたからで、必ずしもうらやむべきことではない。地政学的にも文化的にも他から隔離されてきた日本人が、TOEFLで214ケ国中197位、アジアでは北朝鮮(これも在日だから日本人と同じ)と並んで最下位になるのは当然なのだ。

ただ現状が危機的だという認識は、私も同感だ。日本語が現地語になることは避けられないが、普遍語ができれば問題はない。ところがほとんどの日本人は、普遍語としての英語もできない。日本語でほとんどの用が足りるというのも、インターネットや科学の最先端ではもう当てはまらない。日本語の本しか読まないビジネスマンは、世界から取り残されているのだが、彼らは取り残されたことさえ気づかない。ところが英語教育を強化しようとすると、「英語より国語のほうが大事だ」などという国粋主義者が出てくる。彼らは国語教育の現状を知っているのだろうか。

日本の国語教育や英語教育をだめにしているのは、著者が守ろうとしている「文学」である。国語の時間に教わるのは小説の解釈ばかりで、自分の意見を発表する訓練はほとんどない。英語の授業では、まともに発音もできない先生が小説を重箱モードで解釈し、1年かかって100ページぐらいの薄い教科書を読む。こんな教育をしていては、大量の英語の文書を読んで表現することは絶対にできない。国語や英語の授業は廃止し、英語はすべて語学学校にアウトソースして、大学入試の語学はTOEFLで代えるべきだ。
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政治と秋刀魚

著者(ジェラルド・カーティス)はRIETIの客員研究員だったので、何度か話したことがある。本書のタイトルからもわかるように日本が好きで、日本語は完璧だった。「中選挙区制はワークしていた。それを壊した日本は、しばらく混沌とした状況が続くだろう」というのが彼の予想だった。たしかに、かつては官僚が政策を立案し、自民党の派閥が利害調整を行ない、「国対政治」で野党の主張も取り入れる非公式の調整メカニズムが、それなりにワークしていた。

しかし、この安定したシステムで甘やかされた万年野党が政策の競争をなくし、利益集団にバラマキを行なう政治が続いてきた。1993年に小沢一郎氏が仕掛けた政治改革の目的は社会党をつぶすことであり、その点では成功したと私は思うが、その後15年も混乱が続いているのは、著者の指摘した通りだ。その根本的な原因は、伝統的な調整メカニズムが崩壊したのに、それに代わるメカニズムができていないことだ。小泉元首相のような「強いリーダー」を求める傾向は強いが、彼は「突然変異」であり、日本では定着しないと著者はみる。

これに対して民主党は、かつての社会党のような「なんでも反対」に回帰しつつあるようにみえる。その結果、国会論議がテレビ向けの「自民党をたたける争点」に集中するsingle issue化が進行している。年金の名寄せとか高齢者の健康保険料の天引きなどという事務手続きの不手際ばかり延々と議論され、肝心の(破綻している)年金制度をどう改革するのかという問題はほったらかしだ。

著者は、1990年代以来の構造改革は中途半端で、もう一度「思考の改革」が必要だというが、それが具体的にどういう改革かは示されていない。彼はアメリカの政治には批判的で、特にブッシュ政権のイラク政策は口をきわめて攻撃していた。よくも悪くも、もう日本の政治にお手本はないのだろう。
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大江健三郎という「嘘の巨塊」

15日の記事のコメント欄で少しふれたが、大江健三郎氏が11月20日の朝日新聞の「定義集」というエッセイで、彼の『沖縄ノート』の記述について弁解している。それについて、今週の『SAPIO』で井沢元彦氏が「拝啓 大江健三郎様」と題して、私とほぼ同じ論旨で大江氏を批判しているので、紹介しておこう。大江氏はこう弁解する:
私は渡嘉敷島の山中に転がった三百二十九の死体、とは書きたくありませんでした。受験生の時、緑色のペンギン・ブックスで英語の勉強をした私は、「死体なき殺人」という種の小説で、他殺死体を指すcorpus delictiという単語を覚えました。もとのラテン語では、corpusが身体、有形物、delictiが罪の、です。私は、そのまま罪の塊という日本語にし、それも巨きい数という意味で、罪の巨塊としました。
つまり「罪の巨塊」とは「死体」のことだというのだ。まず問題は、この解釈がどんな辞書にも出ていない、大江氏の主観的な「思い」にすぎないということだ。「罪の巨塊」という言葉を読んで「死体」のことだと思う人は、彼以外にだれもいないだろう。『沖縄ノート』が出版されてから30年以上たって、しかも訴訟が起こされて2年もたってから初めて、こういう「新解釈」が出てくるのも不自然だ。『沖縄ノート』の原文には
人間としてそれをつぐなうには、あまりも巨きい罪の巨塊のまえで、かれはなんとか正気で生き延びたいとねがう。(強調は引用者)
と書かれているが、この「つぐなう」という他動詞の目的語は何だろうか。これが国語の試験に出たら、「巨きい罪」をつぐなうのが正解とされるだろう。「罪の巨塊」を「かれ」のことだと解釈するのは「文法的にムリです」と大江氏はいうが、赤松大尉が自分の犯した「あまりにも巨きい罪の巨塊のまえで・・・」という表現は文法的にも意味的にも成り立つ。というか、だれもがそう読むだろう。では大江氏のいうとおり「罪の巨塊」=「死体」と置き換えると、この文はどうなるだろうか:
人間としてそれをつぐなうには、あまりも巨きい死体のまえで・・・
これが「文法的にムリ」であることは明らかだろう。「死体をつぐなう」という日本語はないからだ。さらにcorpus delictiは、彼もいうように警察用語で「他殺体」のことだから、この文は正確には「あまりも巨きい他殺体のまえで・・・」ということになる。その殺人犯はだれだろうか。井沢氏は「自殺した人に罪がある」と解釈しているが、これは無理がある。Websterによれば、corpus delictiは"body of the victim of a murder"と他殺の場合に限られるから、犯人は「なんとか正気で生き延びたい」とねがう「かれ」以外にない。つまり大江氏自身の解釈に従えば、彼は(自殺を命じることによって)赤松大尉が住民を殺したと示唆しているのだ。事実、大江氏はこの記述に続いて、「かれ」を屠殺者などと罵倒している。

このように、どう解釈しても「かれ」は赤松大尉以外ではありえない。それが特定の個人をさしたものではなく「日本軍のタテの構造」の意味だという大江氏の言い訳(これも今度初めて出てきた)こそ、文法的にムリである。屠殺者というのは、明らかに個人をさす表現だ。単なる伝聞にもとづいて個人を殺人者呼ばわりし、しかもそれが事実ではないことが判明すると、謝罪もしないでこんな支離滅裂な嘘をつく作家に良心はあるのだろうか。こういうことを続けていると、彼は(大したことのない)文学的功績よりも、この恥ずべき文学的犯罪によって後世に記憶されることになろう。

追記:コメント欄にも書いたが、呉智英氏も指摘するように、「屠殺者」は差別用語である。私は「差別語狩り」は好ましくないと思うが、大江氏はこれを「虐殺者」の意味で使っており、食肉解体業者を犯罪者の比喩にしている。また屠殺の対象になるのは動物だから、渡嘉敷島の住民は動物扱いされているわけだ。大江氏の人権感覚がよくわかる。
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