いかりや爆氏の毒独日記

最近の世相、政治経済について「あれっ?と思うこと」を庶民の目線から述べていきたい。

権力の交代とは・・・・、

2014-08-11 16:21:17 | 日記

木綿:

権力の交代、

ロシア革命なんちうのが成功したのを見ちまったのがいけなかったのか、隣国中国の王朝交代の実例を見て、わが国でもそれが可能と思い込んだせいなのか、わが国にもダイナミックな権力の交代が可能だと信じ、夢見ている人たちは少なからずいらっしゃるようです。まぁ、ロマンはありますな。でも政治は常に現実派のもののようです。

 ロシア革命のように、一朝プロレタリアを標榜する革命家たちが権力を掌握したり、王侯将いずくんぞ種あらんやとばかり、どこの馬の骨とも知れなかった盗賊上がりの親分が皇帝に就いたりする中国とは違って、こと、わが国に関する限り、権力の移行は、時の権力層の下部機構が上部機構を無力化したり、のっとったりして掌握してきたというのが史実ではないでしょうか。

明治維新は公武合体派としてそれまで幕府を支えてきた雄藩薩摩の裏切りがなければああはうまくいかなかったことでしょう

その徳川政権の祖徳川家康は豊臣政権の五大老筆頭、豊臣秀吉は織田家の重臣、織田信長は足利義昭を奉じて上洛に成功し、足利尊氏の妻は北条氏で彼の裏切りがなければ建武の新政など夢のまた夢。

遡っても源氏・平氏・藤原氏など時の政権を支えていた勢力がとってかわったもので、それまで全く権力に縁のなかった勢力が権力を握ったなどという例をみません。

近くは薩長土肥の藩閥政治の中の権力闘争の中から政党政治が生まれ、戦後の政権交代も自民党の中枢だった小沢一郎の動きがなければおきなかったことでしょう。

で、次の総選挙。わが国の歴史に鑑み、まことに可能性は低くとも、清和会が二つに割れない限り、政権交代はないとワタクシはみております。

いかりや:

権力の交代、

あまりにも割り切った見方ですが、木綿さんのご意見に脱帽です・・・反論のしようがありません(苦笑)。
民主主義の世の中になっても、人間のやることには変わり映えがしないつーことでしょうか。

トッペイ:

安倍の天国は国民には地獄、


いろいろな意見があるでしょうが、安倍の天下が続けば税金は青天井、中国と戦争するかもしれません。
野党が弱いのは確かですが、安倍がそれほど支持されてるなら滋賀で負けなかっただろし、福島、沖縄でも候補に苦労しないでしょう。

集団的自衛権にしろ、来年には消費増税を控え自民を支持する国民がそれほどいるでしょうか。
彼らは何ひとつ国民のためになることはしていないのですから。

加茂長:

清和会、

自民党の清和会ってどういう意味なんや?

ウィキペディアで調べてみたがな。その昔中国の為政者が「政清人和(清廉な政治でおのずから人民を穏やかにした)」って誉められた故事に基づく名前らしい。

ということは清和会の人は、わてらの生活を穏やかにしてくれるために頑張ってくれてるんやな~ そう言えば集団的自衛権で日本が戦争に巻き込まれるのを防いでくれてるやんか。

阿呆かいな。おんどれだけみたいに考える人が多いさかいに、安倍内閣の支持率が落ちんのやな。

外国に出掛けて鉄砲ぶっぱなしたら、戦争に巻き込まれる危険が増えるに決まっとるやんか。

ニュース見とったら、鉄砲ぶっぱなしてええとは言うとらん。ホルムズ海峡に出掛けて掃海(機雷を除去)するくらいは許されるという話やんか。

戦争しとる国が海にバラまいた機雷を除去したら、日本はその国の敵になってしまうんや。鉄砲ぶっぱなすのと同じくらいに思われるんやでえ。それだけやない、消費増税やら秘密保護法やら好き勝手やっとるさかいに、人の心が荒れてとんでもない凶悪事件も増えとるんやで。

そうか、清和会はつぶれた方がええんやな。

おんどれだけが気づいても遅いで。木綿はんが、清和会が分裂せん限り、次の総選挙で政権交代はないやろて言ってなさるし、いかりやはんも仕方ないな~って苦笑いなさってるやんか。

分かった!わてが間違うてた。諦めたらおしまいやさかいに、清和会をつぶすために気張ってみるわ。

せいぜい頑張ってみよか。トッペイはんもそれを願うとるのとちゃうやろか。

いかりや:

2009年9月、戦後政治史上初の本格的な政権交代が実現したかにみえた、だが1年ももたなかった。しかも木綿氏流に言えば、それも根っこは同じ自民党、言わば枝分かれ、もしくは暖簾わけ程度の意味しかなかったというところでしょうか

今年は戦後69年目、多少の紆余曲折はあったものの、自民党を基軸とする体制は変っていない。自民党を基軸とする戦後レジームが変わらないことの背景には、戦後占領体制そのものがいまだに日本を呪縛し続けているからだと思う

従って本格的な政権交代とは、アメリカ支配からの自主、独立がない限り、戦後レジームからの脱却もあり得ないと思う

しかも、日本の政治は表面には見えないけれど、基本的に官僚が牛耳っている体制である。従って本格的な政権交代とは、官僚支配を打破(破壊)するものでなければならない。

そういう意味では、2009年9月の政権交代は、当時の鳩山首相は意識していなかったもしれないけれど、少なくとも小沢氏及び官僚トップ連中はそれを充分意識していたはずである・・・だからこそ、一連の小沢裁判を最高裁は危機感を感じて、自らの恥辱もかえりみず、検察審査会における架空議決をでっちあげた(最高裁は完全犯罪を目論んだつもり、だが、そんなにうまくはいかなかった、市井の人「志岐武彦氏」がそれを阻止した)。

蛇足:

司法の独立は近代国家を最も象徴する大原則であるが、日本はいまだ近代国家ですらない後進国、一連の小沢裁判に関与した最高裁の犯罪は、何もなかったかのごとく、このまま無視されたまま見過ごされようとしている・・・マスゴミもこの問題には、なぜかアンタッチャブル。

 

木綿:

天網恢恢

荒縄で首を絞めにゆくとその痛さに動物は激しく抵抗する。だから親鳥が育むように柔らかい真綿のような手触りのものを使って締めればいい、そうすれば相手は気持ちよく眠るようにして逆らわないということに気付くだけの知性が人類にはありました。

一部の賢い人たちは、まてよ、愚かな人たちなど動物も同然、これは使えるとばかり、それを統治手法に導入したのでしょう。人民を支配するのに武力を用いるなど下の下、または最後の手段、日頃は法でもって縛るのを上策、真綿のような法をもって人民を統治すべしと。

 こういうことに気付いた人たちの社会は不思議なことに安定し、人口も増えたので、賢い人はその支配者となり、その一族は政府のお役人となりました。

その秘術に気付かぬ動物レベルの知力の人たちは、哀れ「庶民」として、その生涯どころか彼らは子々孫々まで絞られる定めの社会ができあがりました。凡そ五千年ほど前のことらしいです。

 その五千年の間、まれに「オレたちうまく騙されてねえか?」と気付いた庶民も出ましたが、その99%は虐殺・誅殺され、運も味方して運よく勝った1%は、気付いてないヤツを救う価値なしと、やはり同じ手法で庶民を統治しました。

 「天網恢恢、疎にして漏らさず」を「天が悪人を捕えるために張りめぐらせた網の目は粗いが、悪いことを犯した人は一人も漏らさず取り逃さない。天道は厳正であり、悪いことをすれば必ず報いがある。」なんて理解している人は庶民、またはその末流。

「オレ様たちがお前たちを統治する為に作った法の網は、お前ら全員1人も残さず一網打尽できるほどに大きいが、つくりは疎でな(笑)、運用側のオレタチは引っかからないが、お前らは1人としてこの網から逃れられないんだな、これが」と理解するのがお役人側=賢い人たち。何をもって「悪」とするかの最終判断を彼らは握っているからです。

官僚政治をひっくり返すには、この賢い人たち五千年の知恵=法治主義(といってもご都合法治主義ですが・・・)を破らねばなりませんでしょうが、家畜生活に慣れた大多数の庶民にすれば、それはそれで多大な不安をもたらすことでしょう。

牧場の柵が取り払われ「さぁお前たちは今日から自由だ」といってもせいぜいその柵のあったところから余り離れていない辺りでずっと草をはんでるのが大多数だと思いますよ。

いかりや:

木綿さんの話はむつかしい、

人類五千年の知恵といえるのかどうかわからないけれど、ダーウインの進化論的に言えば、

「狡猾な人間が生き残り、そうでない者は滅んでゆく」、結果として、人類に有害な遺伝子変異が増大していく。
それ故、二千数百年前、老子が「天網恢恢疎にして漏らさず」→「天網恢恢疎にしてダダ漏れ」状態が今の世ということになる。

トッペイ:

極悪人の正体

日本を牛耳っているのは、高級官僚だけではなく、経団連、巨大宗教団体、悪徳政治屋、御用学者、最高裁、そして
何より腐りきった悪党の中のくずマスゴミを忘れてはならないでしょう。

官僚がいくら狡猾でもマスゴミなくしてこの体制を維持できないでしょう

しかしこの連中は所詮パシリであって最終的な決定権は持っていません。
本社よりノルマを課せられた雇われ支店長であり、本丸の極悪人は、ジョセフナイであり、マイケルグリーンであり、

その背後に控える軍産複合体や国際金融資本でこの強欲悪魔が日本人を苦しめているのです。

加茂長:

自由の意味

「さぁお前たちは今日から自由だ」といってもせいぜいその柵のあったところから余り離れていない辺りでずっと草をはんでるのが大多数だと思いますよ。

人間は自由を恐れており、頼れるもの・自分が帰属できる存在を求める性癖があるとする論が以前からありました。

エーリッヒ・フロム(ドイツの社会心理学者)は1941年に『自由からの逃走』で概略以下のように述べています。

「第一次的絆(自然や母)から切り離された個人は、自由であるが孤独であり不安である。そこで安定や安心を求めるため、自由を捨て、外的な絆(民族、国家、体制、多数派)に逃げ込むことになる。このような傾向の最大にして最悪の帰結が、20世紀のナチズムであった」

意味が違うかも知れませんが、不安感に苛まされる人がちょっとした機縁で宗教にのめり込むのも分かるような気がします。

また、ドストエフスキーは『カラマーゾフの兄弟』の中でイエス・キリストに対峙した大審問官に語らせています。

「自由になった人間にとって最も苦しい、しかもたえまのない問題は、少しも早く自分の崇拝すべき人を捜し出すことである・・・お前は人間の力にそぐわないもの(奇跡・自由)を与えようとした」

上記のような見方があろうとも、自由に耐えうる柔軟な精神も存在するはずと考えています。

いかりや:

参照:過去にも本件に関連した日記がありました、

「すべての権威から常に自由であること」と「自由からの逃走」
http://blog.goo.ne.jp/ikariyax/e/0c90a21528decb7e3b45036f095c19b1

 



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3 コメント

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天網恢恢 (木綿)
2014-08-12 10:10:26
荒縄で首を絞めにゆくとその痛さに動物は激しく抵抗する。だから親鳥が育むように柔らかい真綿のような手触りのものを使って締めればいい、そうすれば相手は気持ちよく眠るようにして逆らわないということに気付くだけの知性が人類にはありました。一部の賢い人たちは、まてよ、愚かな人たちなど動物も同然、これは使えるとばかり、それを統治手法に導入したのでしょう。人民を支配するのに武力を用いるなど下の下、または最後の手段、日頃は法でもって縛るのを上策、真綿のような法をもって人民を統治すべしと。

 こういうことに気付いた人たちの社会は不思議なことに安定し、人口も増えたので、賢い人はその支配者となり、その一族は政府のお役人となりました。その秘術に気付かぬ動物レベルの知力の人たちは、哀れ「庶民」として、その生涯どころか彼らは子々孫々まで絞られる定めの社会ができあがりました。凡そ五千年ほど前のことらしいです。

 その五千年の間、まれに「オレたちうまく騙されてねえか?」と気付いた庶民も出ましたが、その99%は虐殺・誅殺され、運も味方して運よく勝った1%は、気付いてないヤツを救う価値なしと、やはり同じ手法で庶民を統治しました。

 「天網恢恢、疎にして漏らさず」を「天が悪人を捕えるために張りめぐらせた網の目は粗いが、悪いことを犯した人は一人も漏らさず取り逃さない。天道は厳正であり、悪いことをすれば必ず報いがある。」なんて理解している人は庶民、またはその末流。

「オレ様たちがお前たちを統治する為に作った法の網は、お前ら全員1人も残さず一網打尽できるほどに大きいが、つくりは疎でな(笑)、運用側のオレタチは引っかからないが、お前らは1人としてこの網から逃れられないんだな、これが」と理解するのがお役人側=賢い人たち。何をもって「悪」とするかの最終判断を彼らは握っているからです。

官僚政治をひっくり返すには、この賢い人たち五千年の知恵=法治主義(といってもご都合法治主義ですが・・・)を破らねばなりませんでしょうが、家畜生活に慣れた大多数の庶民にすれば、それはそれで多大な不安をもたらすことでしょう。牧場の柵が取り払われ「さぁお前たちは今日から自由だ」といってもせりぜいその柵のあったところから余り離れていない辺りでずっと草をはんでるのが大多数だと思いますよ。
極悪人の正体 (トッペイ)
2014-08-12 17:03:50
日本を牛耳っているのは、高級官僚だけではなく、経団連、

巨大宗教団体、悪徳政治屋、御用学者、最高裁、そして

何より腐りきった悪党の中のくずマスゴミを忘れてはならないでしょう。
官僚がいくら狡猾でもマスゴミなくしてこの体制を維持できないでしょう。
しかしこの連中は所詮パシリであって最終的な決定権は持っていません。
本社よりノルマを課せられた雇われ支店長であり、本丸の極悪人は、ジョセフナイであり、マイケルグリーンであり、その背後に控える軍産複合体や国際金融資本でこの
強欲悪魔が日本人を苦しめているのです。
自由の意味 (加茂長)
2014-08-14 07:45:03
>「さぁお前たちは今日から自由だ」といってもせりぜいその柵のあったところから余り離れていない辺りでずっと草をはんでるのが大多数だと思いますよ。

人間は自由を恐れており、頼れるもの・自分が帰属できる存在を求める性癖があるとする論が以前からありました。エーリッヒ・フロム(ドイツの社会心理学者)は1941年に『自由からの逃走』で概略以下のように述べています。

「第一次的絆(自然や母)から切り離された個人は、自由であるが孤独であり不安である。そこで安定や安心を求めるため、自由を捨て、外的な絆(民族、国家、体制、多数派)に逃げ込むことになる。このような傾向の最大にして最悪の帰結が、20世紀のナチズムであった」

意味が違うかも知れませんが、不安感に苛まされる人がちょっとした機縁で宗教にのめり込むのも分かるような気がします。

また、ドストエフスキーは『カラマーゾフの兄弟』の中でイエス・キリストに対峙した大審問官に語らせています。

「自由になった人間にとって最も苦しい、しかもたえまのない問題は、少しも早く自分の崇拝すべき人を捜し出すことである・・・お前は人間の力にそぐわないもの(奇跡・自由)を与えようとした」

上記のような見方があろうとも、自由に耐えうる柔軟な精神も存在するはずと考えています。

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