いか@ 武相境斜面寓 『看猫録』
Across a Death Valley with my own Distillted Resentment
 



 

宇和島参りから宿泊先の松山に戻る途中に大洲に行った。

愚ブログの標題を『看猫録』という。 もちろんこれは朝鮮儒者・姜沆(カンハン)の『看羊録』からのパクリだ。

朝鮮儒者・姜沆(カンハン)は1597年9月23日に「倭軍」に捕まった。姜沆が捕虜として日本に連行された時の最初の滞在地が大洲。姜沆を虜としたのが藤堂高虎[wiki](伊予州守佐渡)。 大洲は当時藤堂高虎の領地であったのだ。

伊予参りに際し事前にネットで大洲における姜沆関連史跡を探した。確認できたのはこの顕彰碑であった。JR大洲駅からは少し離れた市民会館の敷地にある。大洲城の横。

姜沆が留置されたには大洲城[wiki]。現在の大洲城は今世紀になって再建されたもの。大洲城の往年時の全体模型を見ると、とても大きい[図1]。

ただし、この大きな大洲城は関ヶ原の戦い以降本格的に修繕されたので、1600年4月に伏見で釈放され帰国の途についた姜沆は修繕前の大洲城に留置されとはずである。

でも、姜沆は捕虜生活で日本事情についての情報収取に努め、例えば、城については下記のように朝鮮王に報告している;

[倭では]城を築くのに、必ず独立した山の頂や川、海の浜辺に設け、山頂は平らにしてその四面は削りとり、猿ですら上れないようにしております。その城の基[礎]は広くて上は尖り、四隅には高楼を設け、最も高いのが三層で、[そこに]主将が居ります。軍糧や軍事器材の倉庫はみな楼中に設けてあります。一門に一路を開き、そこを通って出入りします。門内には多くの沙と石を積みます。城外には長い垣をめぐらせ、高さは一丈ばかりで、垣の内側には数歩間隔で砲穴(銃眼)を設けてあります。垣の外には濠をうがち、深さは八、九丈ほどで、川の水を引き、濠の外にまた木柵を設けます。川や海に臨んでいる処では舳艪が連なりあって水戦の訓練をしており、城下の民丁は毎日水戯をしており、精勇の士は城をとり囲むようにして住んでおります。
[以上のようにする]理由を問うたところ、[次のように]申しました。
「独立した山頂は、われわれは俯瞰することができるが、彼ら[敵]は近寄り圧力を加えることがけきないからです。(以下略)」
賊中封疏(賊中からの上奏文)、姜沆、『看羊録』に収録 (Amazon)

関連愚記事群 [看羊録]


図1 大洲城の模型

▼ 復元された大洲城

「独立した山頂は、われわれは俯瞰することができる」

 

 

 

 



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