さすらい人の独り言

山登り、日々の独り言。
「新潟からの山旅」別館
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さすらいの風景 ビービー・カ・マクバラ

2017年12月22日 | 海外旅行
アウランガーバード石窟寺院の見学を終えて、先ほど前を通り過ぎたビービー・カ・マクバラに戻ってきました。

ビービー・カ・マクバラとは、「婦人の墓」という意味で、ムガル帝国第6代皇帝アウラングゼーブ帝の第一妃ディルラース・バー・ベーグムの陵墓です。1679年に息子のアーザム・シャーによって建築されました。第5代皇帝シャー・ジャハーンの建てたタージ・マハルと似た構造を持っていため、ミニ・タージ・マハルとして親しまれています。その一方で、タージ・マハールとは違って、大理石は一部でしか使われておらず、ほとんどがセメントを使っているため、「貧乏人のタージ」と、不名誉な名前ももらっています。



ビービー・カ・マクバラの正門。観光客は数人しかいませんでした。



正門のアーチの先にビービー・カ・マクバラが見えてきました。





ドームの周囲にミナレット風の4本の塔を配した姿は、タージ・マハルとそっくりですが、サイズはかなり小さくなっています。また、ドームに向かって噴水を設けた水路が続いているのも同じですが、庭は狭くなっています。やはり、ミニ・タージ・マハルといった印象です。



噴水は停まっていましたが、水面にドームが写りこんでいました。





よくみると、左の塔の下には建物が設けられて、完全な左右対称性が崩れています。タージ・マハルでは、迎賓館とモスクが左右に建てられていました。



ドームの下までやってきて見上げても、巨大といった感じはありませんでした。



ドームの周囲に立っている塔。



ドーム本体にも塔が付属していました。





建物には、イスラム建築に見られるアーチ型の入口が設けられていました。



タージ・マハルでは、大理石をはめ込んで模様を作っていましたが、ビービー・カ・マクバラではセメントで造られています。



ただ、装飾の模様は細かく、これはこれで手が込んでいます。





イスラム教に従って、植物をモチーフとした模様が施されています。







ドーム内には、ムガル帝国第6代皇帝アウラングゼーブ帝の第一妃ディルラース・バー・ベーグムの墓が置かれていました。



お墓は、初詣のさい銭箱のごとく、お札で埋め尽くされていました。インドあるいはイスラム教でこのような習慣があるのでしょうか、他では見たことがありません。



ドームの天井。



ドームの前のテラスから正門を振り返ったところ。こじんまりした敷地です。

ビービー・カ・マクバラは、タージ・マハルさえ考えなければ美しい建物と称賛することができますが、比べてしまうとやはり「貧乏人のタージ」という名前が浮かんできてしまいます。

タージ・マハルについては、以下をどうぞ。
 その1
 その2
 その3

ビービー・カ・マクバラを建てたアーザム・シャーのことを調べると、ムガール帝国の闇が浮かび上がってきます。

タージ・マハルは、ムガル帝国第5代皇帝シャー・ジャハーンによって亡くなった愛妃ムムターズ・マハルの墓廟ために建設されました。シャー・ジャハーンは、ムガル帝国の最安定期を演出しましたが、ムムターズ・マハルの死後、側室を増やし、多数の家臣の妻と関係を持つようになり、生活は乱れました。このような暗君の生活を20年も続けた後に重病となり、その回復が見込まれないと判った時、その4人の息子が激しい跡目争いを行うことになりました。

シャー・ジャハーンは、長男ダーラー・シコーを溺愛し、後継者としていました。ダーラー・シコーは、教養に優れ、曾祖父アクバルの宗教的融和を受け継いだリバラル思想の持主でした。このため、イスラームに傾倒していた三男のアウラングゼーブは、激しく対立しました。

シャー・ジャハーンが重病となると、皇位継承戦争が勃発しました。その結果、アウラングゼーブは勝者になり、父親のシャー・ジャハーンを幽閉し、ダーラー・シコーを捕らえて処刑してしまいました。次男シャー・シュジャーは、敗戦後の亡命先で陰謀をはかって死亡。四男ムラード・バフシュはアウラングゼーブと共に戦いましたが、裏切られて幽閉後に処刑されました。

兄弟三人を亡き者にしてムガル帝国の第6代皇帝になったアウラングゼーブは、その後49年の長きに渡って治世を続けることになりました。アウラングゼーブは、領土拡大をはかりますが、北西方面ではかつて敗北したサファヴィー朝がいるため、デカン方面に帝国の領土拡大を目指しました。デカンでは、ヒンドゥー教徒の弾圧を起こしたことから、当時台頭してきたマラーターのシヴァージーとの争いが続くようになりました。シヴァージーの死亡後に跡を継いだ息子のサンバージーと戦うため、アウラングゼーブはデカンへの長期遠征を行い、アウランガーバードを陣頭指揮をふるうための滞在地としました。デカンから南インドまで及ぶムガール帝国の最大の版図を得ましたが、その反面、統治の中心がデカンになったことによって、諸地方の反乱が起こるようになり、財政は悪化してしまいました。

アウラングゼーブは、1707年にアウランガーバードにて死亡。その遺体はアウランガーバード近郊フルダーバードにあるスーフィー聖者ザイヌル・ハクの墓廟のそばに埋葬されました。その墓は、過去の皇帝たちの墓と違い、イスラーム教スンナ派の教えに従った屋根のない白大理石の質素なものになりました。

アウラングゼーブは、最初の妃であるサファヴィー朝の流れをくむディルラース・バーヌー・ベーグムの息子のアーザムを後継者として育てました。アーザムは三男でしたが、兄の二人の母親はヒンドゥー教徒の領主の娘でした。アーザムは各地の太守にも任命され、ベラール、マールワー、ベンガルの地を任されて後継者としての地位を確立していきました。ビービー・カ・マクバラは、このアーザムによって建設されました。

老帝アウラングゼーブの死亡後直ちに、アーザムは自ら帝位を宣言してアーザム・シャーを名乗りますが、地方にいた次男のムアッザムと五男のカーム・バフシュもまたそれぞれ帝位を宣して、皇位継承戦争が勃発しました。ムアッザムとの戦いに敗北してアーザムは死亡。ムアッザムは、カーム・バフシュも戦いによって殺害し、バハードゥル・シャー1世としてムガル帝国の第7代君主になりました。二代続けて、皇帝によって指名されていた後継者は、兄弟によって殺害されて、帝位は移ってしまいました。

ムガル帝国における流血の後継者争いの後に残されたのが、タージ・マハルとビービー・カ・マクバラであると考えると、この二つは美しさの裏に悲しみを秘めているように思えてしまいます。



ビービー・カ・マクバラの見学後は、ボパールへ移動することになりました。アウランガーバードの街中を走っていると、城門跡が現れました。アウランガーバードは、昔は城塞都市として四方に門を構えていたようで、これはデリー門のように思われます。



また、現代のインドでは、ヒンドゥー教とイスラム教の間で肩身の狭い仏教ですが、トーラナ(塔門)を備えた建物を見かけ、これは、どうやら仏教寺院のようです。翌日訪問するサーンチー遺跡では、このトーラナを時間をかけて見学することになります。
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