さすらい人の独り言

山登り、日々の独り言。
「新潟からの山旅」別館
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さすらいの風景 ドゥブロヴニク その1

2014年07月02日 | 海外旅行
ストンでの昼食後、ドブロヴニクの街に到着しました。旅の一番の目的地であるドブロヴニクに、五日目にようやくたどり着いたことになります。

旧市街の北側にあるグルージュ港には、人気のほどがうかがわれるように、大型客船が停泊していました。

船名をみると「MSCプレチオーサ」で、日本の旅行社でもこの船を使った東地中海ツアーを募集しています。クルーズ船にもクラスがあるようですが、この船はカジュアルクラスということで、ツアー料金もヨーロッパ方面の通常のツアー代金とそう変わらないようです。

クルーズ船を見るとそそられますが、後で説明するように大きな問題があります。体力が衰えたら参加してみましょう。



ドブロヴニクの旧市街に到着すると、まず高い城壁が目に飛び込んできました。



街を囲む城壁の途中には、防御のための塔が設けられていました。



ドブロヴニクの旧市街への入り口周辺は渋滞しており、車がなかなか進まない状態でした。



東にあるピレ門に到着しました。ピレ門の前の広場でバスを降りましたが、クルーズ船の団体が幾つもの班に分かれて集まっており、大混雑になっていました。

このピレ門の前の広場が、最後に自由行動になった後の集合場所ということで、覚えておく必要がありました。



橋を渡った先のピレ門から入場しました。

ドゥブロヴニクは、中世にはラグーサ共和国と呼ばれ、海洋貿易によって栄え、アドリア海東側ではヴェネチア共和国と競い合いました。オスマントルコの宗主権を認めるなどの巧みな外交を行い、豊富な富に支えられ15世紀から16世紀にかけて発展しました。ユーゴスラビアからの独立に際して多大な損害を被りましたが現在は修復されて「アドリア海の真珠」と呼ばれて多くの観光客を招き入れています。



城壁の周りには堀が巡らされていました。



ピレ門を通り抜けるとテラスになっていました。



門には、ドゥブロヴニクの守護聖人である聖ヴラホの街の模型を持った像が置かれていました。聖ヴラホは4世紀にトルコの「シヴァス」という町の司教でしたが、316年に殉教しました。ドゥブロヴニクの聖職者の夢に聖ヴラホが出てきて、ヴェネチアの襲撃を伝えてくれたため、事前に備えることができたことから、972年に守護聖人となりました

街の至る所に聖ヴラホの像が置かれており、聖ヴラホ教会も街の中心地に置かれています。



壁に開けられた小部屋に大砲の玉が置かれていまいた。



ピレ門を振り返ったところ。



壁に、1991年のクロアチア独立時における砲撃被害の場所が図示してありました。

1970年代、戦争による破壊から守るためにドゥブロヴニクは非武装化されましたが、1991年のクロアチア独立に伴う紛争でセルビア・モンテネグロ勢力によって7ヶ月間包囲(ドゥブロヴニク包囲)され、砲撃により多大な損害を蒙りました。

ドゥブロヴニクは、1997年にユネスコの世界遺産に登録されていましたが、この紛争によって1991年~1998年には危機遺産に登録されました。紛争後はユネスコのガイドラインによって昔の姿に修復され。2005年に復旧作業が終了しました。



ピレ門から東にメインストリートのプラッツァ通りが延びています。クルーズ船の観光客も混じって大混雑になっており、ちょっとたじろいてしまう状態でした。



プラッツァ通りの開始部の右手には、オノフリアの大噴水があります。

ナポリのオノフリオ・デッラ・カヴァが1438年に造った大噴水です。12km離れた原泉から水を引いています。

噴水の周りの段は、歩き疲れた観光客の休み場になっていました。



オノフリアの大噴水には顔のレリーフが設けられて、水が流れ出ていました。





人の他に動物(ネコでしょうか)の顔のレリーフも置かれていました。



プラッツァ通りの左手には、フランシスコ修道院の建物が広がっています。

フランシスコ修道院は、もとは城壁の外にありましたが、外敵から守るために14世紀に、ピレ門の入り口近くに移されました。



フランシスコ修道院の鐘楼は、旧市街地の各所から望むことができ、良い目印になっています。



フランシスコ修道院の壁に飾られたレリーフ。



フランシスコ修道院の入り口。

フランシスコ修道院内には、1391年に開業したヨーロッパで最も古い薬局があります。



プラッツァ通りのパーファーマー。



プラッツァ通りの両脇の建物は商店になっていました。



プラッツァ通りの両脇には小路が延びており、カフェやレストランが店を開いていました。左手は山に向かっての坂になっていました。





右手は平坦な道になっていました。



帰りの際に、少し人が少なくなったプラッツァ通りを振り返ったものです。

このプラッツァ通りの200mが旧市街の東西の幅となり、ドゥブロヴニクの旧市街はそう大きなものではないことが判ります。
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