さすらい人の独り言

山登り、日々の独り言。
「新潟からの山旅」別館
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さすらいの風景 チェスキー・クルムロフ その1

2011年10月31日 | 海外旅行
旅行5日目、ウィーンを離れて、チェスキー・クルムロフに向かいました。

朝の気温は低く、霧が立ち込めていました。チェスキー・クルムロフに向う途中、車窓から巨大なメルクの修道院が見えました。18世紀に改築されて、オーストリア・バロック建築の至宝とも言われています。1770年にマリー・アントワネットがフランスのルイ16世のもとに途中、この修道院で1泊しています。



緩やかに起伏する丘陵地帯を進んでいきます。小さな村の中心には、教会の塔が立っています。



牛が放たれた牧場も広がっています。



オーストリアからチェコに入りますが、国境の通関は、無人で開放状態でした。



ウィーンからは、4時間半ほどでチェスキー・クルムロフに到着しました。お城の塔が見えて、チェスキー・クルムロフに到着したことが判りました。



バスは街の北側に停車し、そこから街中に向かいました。

丘の上に渡された「城の橋」の下をくぐります。



アーチをくぐると川べりに出て、チェスキー・クルムロフの眺めが広がりました。ガイドは、「後で自由行動になるのでとりあえず中央広場まで行きましょう」と促しましたが、風景に足が止まってしまいました。



チェスキー・クルムロフ城の眺め。

チェスキー・クルムロフは、ヴルタヴァ川(モルダウ川)の河畔に広がる小さな街です。クルムロフは「川の湾曲部の湿地帯」を意味し、チェスキーは、チェコ語で「ボヘミアの」という意味です。



世界で最も美しい街とも称賛されるチェスキー・クルムロフですが、複雑な歴史を持っています。

チェスキー・クルムロフは、13世紀に、ヴルタヴァ川を利用した交易の要所として、街と城が造られました。その後、支配者は次々に変わりましたが、16世紀に繁栄は頂点に達し、ルネサンス都市の形がととのいました。その後、支配者が変わるにつれて、近代化から取り残されていくことになります。

この街には、神聖ローマ帝国の時代からドイツ系住民とチェコ系住民が住んでいましたが、第一大戦後にオーストリア・ハンガリー帝国が終わると、チェコスロヴァキア領になります。ドイツ系住民の不満が高まるのに乗じたナチス・ドイツによって、チェスキー・クルムロフを含むボヘミアのドイツ語圏地域はドイツ領になってしまいます。第二次大戦におけるドイツの敗北によって、チェスキー・クルムロフは、独立を回復したチェコスロバキアに復帰しますが、それに伴い、街のほとんどを占めていたドイツ系住民は、市民権と私有財産を剥奪、没収され、故郷から追放されてしまいます。住民がいなくなったチェスキー・クルムロフの街は無人状態になり、共産党政府の方針によって放置された城の荒廃も進みます。

チェスキー・クルムロフの歴史的景観の際評価が行われたのは1989年のビロード革命以降のことで、建造物の修復が急速に進められ、町はかつての美しさを取り戻しました。1992年にはユネスコの世界遺産にも登録された。現在は中欧を代表する観光地になっています。



古い街並みの中を歩いていきます。



街の中心になるスヴォルノスティ広場に到着しました。



広場は美しい建物に囲まれています。



小路の奥に城の塔が見えています。



広場には、1716年にペストの終焉を願って建てられたマリア像があります。



広場に面した建物は三階建てに統一されているようですが、屋根の形がそれぞれ違っています。



自由行動の前に、まずは昼食になりました。

スープ。



当然、ビールもたのみました。



鱒のグリル。

この街の名物のようです。



デザートとしてカットフルーツ

美味しく頂きました。

さて、腹ごしらえをしたところで、自由時間です。
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