さすらい人の独り言

山登り、日々の独り言。
「新潟からの山旅」別館
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さすらいの風景 成都から九寨溝へ その1

2015年11月02日 | 海外旅行
6時のモーニングコールでしたが、外はまだ薄暗い状態でした。中国は、広大な領土を持っているにもかかわらず、標準時は一つに統一されているため、西に行くほど夜明けが遅いことになります。この明るさからすると、1時間遅れの5時頃といった感じです。

さらに大気汚染もひどく、少し遠くのビルは霞んでいます。

成都の気候については、「蜀犬(しょっけん)日に吠(ほ)ゆ」(略して蜀犬)ということわざがあります。これは、蜀は山地で雨の降ることが多く、太陽の出ている時間は少ないので、日が出ると犬が怪しんでほえるということに由来し、転じて「無知のために、あたりまえのことに疑いを抱く」たとえになっています。

雨も降らないのにどんよりともやっているのは、大気汚染によるものですが、中国人は、これがあたりまえと思っているようです。まさに蜀犬状態といってよいでしょう。



ホテルを出発する時は、道路は空いていましたが、すぐに通勤ラッシュに遭遇するようになりました。車も多いですが、ものすごい数のバイクが走っていました。



成都を離れると、やがて岷江沿いの走行になってトンネルが連続するようになりました。



険しい渓谷沿いの道になりました。



対岸の崖に「5.12ぶんせん特大地震 原国道213線遺址」という看板が現れましたが、これは日本では「四川大地震」と呼ばれる地震の災害跡を示すものです。2008年5月12日にぶんせん県で起きたマグニチュード8.0級の大地震によって、死者は6万9197人、負傷者は37万4176人にのぼり、1万8222人がなおも行方不明となっているといいます。インドプレートとユーラシアプレートのぶつかり合いによって、この地方では、度々大地震が起きています。この地震では、家屋だけでなく、耐震基準の甘さと手抜き工事の横行によって学校の倒壊が起きて、生徒に多大な死者がでてしまいました。

現地ガイドの話によれば、成都ではほとんど被害は出ず、これは成都が盆地の中の砂地の上にあるので、地震の衝撃が和らいだためだと説明していました。地震の際の液状化現象というものを知らないのかなと、この現地ガイドの説明に疑念がわいてきました。帰国後の日本では、マンションが傾いたことから、基礎杭が岩盤まで届いていないケースが続々と現れて大騒ぎになっていますが、日本でもこのありさまでは、中国の建物では基礎杭はきちんと打たれていそうにもありません。願わくば、この旅行中に地震が起きませんようにと祈るばかりでした。



看板のすぐ先の土砂崩れ現場。いかにも崩れそうな崖が広がっています。日本だったら普通のコンクリート吹き付けや落石防止ネットの跡が見られません。地震後の復旧で、対岸に新しく道路が開かれていますが、崖についてはあいかわらず放置のままです。

危ない道だなと思ったところ、心配が現実になってしまいました。成都への戻りの時には、土砂崩れによって大迂回することになり、この道は走ることができませんでした。



地震による被害によって集落全体が移転することになって、道路沿いに新しい建物が続くような所も結構ありました。



この地震の被害地では、壊れた建物と新しい建物が隣り合っていました。



岷江沿いのレストランでは、鯰料理の看板を出したレストランが多く見られました。



比較的大きな町を通過しました。新しい建物ばかりで、古い建物は地震ですべて破壊されてしまったようです。



民族衣装を着た人を見かけました。この地方には、羌族(ちゃんぞく)と呼ばれる少数民族が暮らしています。



一回目のトイレ休憩。長時間のドライブとあって、2時間弱ごとにトイレ休憩となります。このトイレはまだましでしたが、中国奥地では、まだニーハオ・トイレといったものが残っているので、体調管理には注意を払う必要があります。許されるなら青空トイレといったものの方が、まだましです。



険しい渓谷沿いの道が続きます。



塔が立ち並ぶ集落が現れました。これは、羌族(ちゃんぞく)の集落で、見張り塔として建てられたものです。



羌族(ちゃんぞく)は、漢代から続く古い民族です。三国時代には、魏と蜀の国境地帯で勢力を保ち、魏あるいは蜀に時の趨勢によって従いました。唐の時代には、羌族の中のタングート族が西夏を建国しますが、チンギス・ハーンの勃興時に滅ぼされた以降は目立った政治活動は見せることのないまま現在に至っています。

現地ガイドから、蜀の五虎大将軍の一人である馬超は羌族であったと説明を受けましたが、違和感を覚えたので、調べてみると少し違っていました。

馬超の父は馬騰。馬騰は、馬超が曹操に対して反乱を起こしたことによって処刑されたことから良く知られています。この馬騰の父が馬平。馬平は、家が貧しく妻がなかったため、遂に羌の娘を娶り馬騰が生まれました。馬超に羌族の血が入っていることから、漢王朝の支配を受けない民族からの信望が厚かったといいますが、この血統からは羌族とはいえないでしょう。正確な説明をしてほしいものです。三国志については、中国人よりも日本人の方がこだわりが強いようです。



羌族の建物の特徴としては、見張り塔の他に、屋根の四隅に三角形のつの状の飾りを取り付けるという点があげられます。



新しく再建された建物でも、羌族の建物の特徴が再現されていました。



車窓から見かけた羌族の集落。城塞都市といった趣です。

これらは、○○羌塞と呼ばれ、観光の対象になっているようです。予定では、桃坪羌塞を成都への戻りの際に見学することになっていましたが、道路の土砂崩れによる通行止めによって見られずに終わってしまいました。

車窓からいくつもの羌塞を見ることができたので良しとしましょう。バス移動であったから見ることのできた風景です。



丘の上に建つ羌族の見張り塔。



おそらく羌族の女性。



茂県を過ぎたところで、昼食になりました。この国際飯店は、黄龍見学後に泊まることになります。

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