さすらい人の独り言

山登り、日々の独り言。
「新潟からの山旅」別館
http://iide.hp.infoseek.co.jp/

さすらいの風景 台北 その4

2009年08月24日 | 海外旅行
中生紀念堂

中華民国元首として台湾を治めた蒋介石((台湾では一般に蔣中正と呼ばれています)を記念し、1980年に作られた巨大な建物です。

現在、中華人民共和国を中国の代表としているため、台湾の中華民国は表向きは国交の無い国ですが、台湾製品は、コンピューター製品などで身近な存在になっています。

今回の台湾訪問は、お決まりの観光ツアーでしたが、複雑な台湾の歴史を再認識することになりました。



中生紀念堂は、広大な中生公園の中にあります。この公園の名前は、前政権によって台湾民主公園と改められましたが、再びもとの名前に戻される動きがあるようです。蒋介石の台湾における評価も、いろいろ変わっているようです。



公園の左右には、国家音楽丁と国家戯劇院といった二つの中国風の建物が並んでいます。



中生紀念堂も、近寄ると、その巨大さが実感できます。階段の数は89段で、蒋介石の享年と同数になっています。



内部には、蒋介石の巨大な像が置かれています。



蒋介石の像を見ただけでは大きさが判りませんが、脇に立っている衛兵と比べると、その大きさがうかがえます。



中生紀念堂の天井です。国章がデザインされています。



エレベーターで一階に下りると、蒋介石に関する展示場になっています。

孫文(右)と蒋介石(左)が並んで描かれている絵が正面にかかげられています。

1912年、清朝は、孫文による辛亥革命によって終焉を迎えます。孫文を大統領として、中華民国が南京に樹立されますが、清朝の実力者の袁世凱の独裁が始り、孫文は日本に亡命します。袁世凱の死後、軍閥が割拠するようになり、中国共産党も力をつけて、さらに日本の侵攻によって、中国国内の政局は混とんとした状態になります。蒋介石は、孫文の死去後、南京に首都を置く中華民国の主席になります。日本の敗戦後に、再び中国共産党との間で国共内戦が勃発しますが、蒋介石は敗北して、台北に臨時首都を置き、中華民国総統に就任します。

一方、台湾は、清朝時代には福建省の一地方として重要視されてきませんでしたが、19世紀半ばにヨーロッパ列強諸国の勢力が中国にまで進出してくると、台湾にも影響が及んできたため、1885年に台湾省が誕生します。日清戦争後の下関条約によって、台湾は日本の領土になり、台湾省は設置から約10年という短期間で廃止されてしまいます。台湾は日本の領土として台湾総督府の統治下に置かれます。日本の敗戦に伴い、南京政府の中華民国が、GHQの指示によって日本の武装解除のため台湾に進攻し、中華民国の領土に編入してしまいます。

当初、台湾の民衆は、中国への祖国復帰を喜びますが、大陸から来た国民党政府の官僚や軍人らの腐敗のすさまじさに、すぐに失望します。1947年には、二・二八事件と呼ばれる本省人(台湾人)と外省人との大規模な抗争が生じ、本省人の大虐殺がおきます。さらに、白色テロと呼ばれる恐怖政治が行われ、日本統治下で教育を受けた文化人が投獄、処刑されました。この事件の戒厳令は、40年間続くことになります。

孫文は、中華人民共和国と中華民国の両方から「国父」と呼ばれる存在になっていますが、その後継者の蒋介石は、かならずしも台湾の人々から崇拝の対象にはなっていないようです。



蒋介石と宋美齢の結婚式の写真

孫文の支援者である浙江財閥の創始者宋家に生まれ、三人姉妹の姉は孫文の夫人になりました。アメリカで教育を受けたため、外交面で活躍し、蒋介石を支えました。宋美齢の生涯もはらんだもので、興味深いものがあります。



展示場には、蒋介石の書状などが展示されていました。



なかでも目に引くのは、蒋介石の乗っていたキャデラックです。



蒋介石の執務室を再現したものです。



堅い話が続きましたが、おまけの写真です。前庭の池のほとりに置かれていた鯉餌の自動販売機です。日本にも無い発明品ですね。
ジャンル:
ウェブログ
コメント   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« さすらいの風景 台北 その3 | トップ | さすらいの風景 台北 その5 »
最近の画像もっと見る

コメントを投稿


コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。

あわせて読む