さすらい人の独り言

山登り、日々の独り言。
「新潟からの山旅」別館
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さすらいの風景 バガン その5

2012年12月30日 | 海外旅行
バガン王朝の街は城壁で囲まれて、現在ではオールドバガンと呼ばれていますが、そのメインゲートが、タラバー門です。849年に造られ、バガンの遺跡の中でも、最も古いものになっています。



門の入り口の左右には、バガンの守護神の兄妹の精霊マハーギリ・ナッが祀られています。



ミャンマーは、敬謙な仏教国ではありますが、ナッ神信仰や、後で触れますが八曜日に基づく守護神信仰など、土着信仰もみられます。



昔の道路の幅は、象が二台並んで歩ける長さと定められたようです。

現在では、観光客を乗せた馬車が行き交っていました。



オールド・バガンを取り巻く城壁

850年にビンビャー王が即位してバガン王朝がはじまり、仏教文化を広めてビルマ文化の原型が築かれましたが、1287年にモンゴル軍が侵入してバガン王朝は滅びました。モンゴル軍との戦いでは、象軍の活躍によって二度までは撃退したものの、三度目の戦いでは弓の攻撃によって敗北したとのことです。バガンの象軍とモンゴルの騎馬隊の戦いとはどのようなものであったか見てみたいものですね。



オールド・バガンの城壁内に入って、タビィニュ寺院を見学しました。



近くまで寄ってしまうと判りにくいのですが、65mの高さを持ち、バガンで一番高い建物です。1144年、アラウンスィードゥー王によって建てられました。



4層になっていますが、1階のみしか開放されていません。



金箔に覆われた巨大な仏像が鎮座しています。「ダビィニュ」とは全知者をさし、仏陀を意味しています。印は、触地印(そくちいん)です。



回廊に、二体並べて置かれた仏さま。



巨大な仏さま。それぞれ、表情は違っています。



壁には壁画が描かれていたようですが、ほとんど剥離して損なわれてしまっているのは残念です。



ミャンマーの寺院では、このような菊の紋章に似た飾りが良く見られますが、法輪といい仏の教えがあらゆるところに行きわたるさまを車輪に例えたものです。

天皇家の菊紋は、十六花なのに対し、これはニ十四花あります。



再び黄金色に輝く巨大仏。眉の剃りすぎ。

日本人の感覚では、金箔に覆われた仏像は、その光に惑わされて、細部に目が届かなくなってしまうようです。

仏像鑑賞というと、和辻哲郎の「古寺巡礼」や土門拳の写真集「古寺巡礼」に代表されるように、時を経て地肌が現れた枯れた姿をありがたく思う気持ちが刷り込まれているように思います。

最近の著書としては、五木寛之著「百寺巡礼」も仏像鑑賞の参考になりますが、日本人の感覚からは飛躍したところにある海外の仏像鑑賞には、いとうせいこう・みうらじゅん著「見仏記」の方が当てはまるところが多いように思えます。

「見仏記」の中から、ミャンマーの仏像観賞に当てはまるとことがあるので、引用しましょう。「なんで塗りなおさないのかね。これを。変だよ。日本人は。古い感じの方が価値があるって思うんでしょ?だけど、ピッカピカにきれいだったんだよ。もとは。それでみんなすっげえって思ったに決まってるじゃん。なんで、その仏像パワーを復活させないわけ?」「ねえ、どうして錆びてたり、はげてたりするとありがたがるのかね?古けりゃいいってもんじゃないでしょ。仏像は?そういう目的のものじゃないでしょう。」「仏像にわびさびを入れちゃだめでしょう?」

「見仏記」には、海外編もあるのですが、中国やタイの見仏までで、ミャンマーには残念ながら訪れていません。これらの仏像がどのように表現されるか、興味のあるところはあります。

ともあれ、ミャンマーの仏さまには、日本の仏像は忘れて、虚心に返って向かい合う必要があるようです。



バスに戻り、車窓から見えたマヌーハ寺院。

バガン朝のアンーヤターによって囚われたタトゥン国の王マヌーハが、1059年に許されて建てた寺院です。





車窓からは、名も無いパゴダや寺院が次から次に現れました。
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