さすらい人の独り言

山登り、日々の独り言。
「新潟からの山旅」別館
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さすらいの風景 メキシコ・シティー その4

2017年03月13日 | 海外旅行
第9室 メキシコ湾岸

ここでは、メキシコ古代文明の母ともいわれるオルメカ文明(前1200~前400年)に関する展示が行われています。

オルメカとは「ゴムの国々の人々」という意味で、アステカ人がこの地域の人々をそう呼んでいたことに由来します。実際にどのような人々がオルメカ文明を発展させたかは判っていません。



オルメカ文明を代表する巨大人頭像。4つの遺跡から17個の像が発見されています。



石像は、平均8トン、最大のものは24トンもの重量があります。原料の玄武岩は、100km以上離れた山でとれたもので、どのように運んだのか謎になっています。

残念ながら、この部屋では、この像を見ただけで移動。他の展示物もあったのですがね。ツアーの日程では、アステカ室とマヤ室を1時間で見るだけとなっているので、1時間半ほどかけてめぼしいものを一通り見せてくれたのは感謝ではあります。



第10室 マヤ。ここもみどころの一つです。

マヤ文明は、メキシコ南部・ユカタンからグアテマラ、ベリーズ、ホンジュラス、エルサルバトルにかけて栄えました。最盛期と言われる250~900年を古典期、その前後を先古典期(前1600?~250年)、後古典期(900~16世紀)と呼びます。

最近の発掘で先古典期の開始時がどんどん遡っていっており、オルメカ文明との前後関係が論争になってきています。

マヤでは、多くの国が生まれて統一されたことはありませんでしたが、同じ文化を共有しました。ただ、前2000年頃には一つのマヤ語であったものが、スペイン人がやってきた時には、約30に細分化されてしまっており、部族間の会話は困難になっていました。



入口には、パカル遺跡から発掘された神の頭に装飾をほどこした香炉が置かれていました。



ヤシュチラン遺跡のリンテル(入口の上の開口部に置かれる横石)

「楯ジャガー2世」と「カバル・ショーク王妃」が向かい合い、王妃がジャガーの兜を王に手渡す様子が描かれています。



印象的な顔です。





摩耗が進んで少し判り難いですが、右側の戦士が左に倒れている戦士の頭を持っているように見えます。



マヤ文字が書かれた石碑。

マヤ文字には、日本語の漢字とひらがなと同じく、表音文字と表意文字からなります。



その一部拡大。

一マス分の文字の中の、主要な大きな部分を「主字」と呼び、小さな部分を「接字」と呼びます。

兎と猿がそれぞれの主字でしょうか。





この石碑のマヤ文字は、前のものより単純に見えますが、マヤ文字では複雑な書き方と簡単な書き方があったようです。



マヤ絵文書のレプリカ。


マヤ文字の解読を難しくしている原因に、マヤ絵文書としては、ドレスデン絵文書、パリ絵文書、マドリッド絵文書、グロリア絵文書の僅か四点しか残されていないということがあります。

マヤ文字の解読の功労者であり重大犯罪人として登場するのが、スペイン人統治の初期の1549年に赴任した宣教師ランダです。彼の記した「ユカタン事物記」によってマヤ人の日常生活を知ることができます。その一方、キリスト教布教の情熱から、異教の神への信仰を捨てないマヤ人に対し、異端審問を強行し、拷問やむち打ちを行い、年間150人の死者を出しました。マヤ人の生贄の儀式をどうのこうのとは言えないレベルですね。さらに、マヤ人の絵文書を徹底的に焼き尽くしました。現在残されているドレスデン絵文書やマドリッド絵文書は、コルテスがスペインに持ち帰ったもののようです。

ランダは、このような学問上での重大犯罪人と言えるのですが、その反面、「ランダのアルファベット表」を残したことによって、マヤ文字解読に重要なヒントを与えることになりました。

マヤ文字の解読は、数字はできたものの、他の文字は不可能と判断されて、そのまま放置されていました。

そこに登場するのが、フランス人のブラ・スール神父。彼はメソ・アメリアの絵文書を幾つも再発見して紹介していましたが、1862年にマドリードの王立研究所の図書館で、埋もれていた「ユカタン事物記」を発見し、その中には「ランダのアルファベット表」という対応表が記されていました。これでマヤ文字が解読できると学会は色めきだちましたが、成功した者はおらず、ランダのアルファベット表」はでたらめと判断されることになりました。

「ランダのアルファベット表」の発見から90年後の1952年、ソ連のユーリ・クノローゾフは、ランダのアルファベット表に対応しているマヤ文字はスペイン語のアルファベットの音をそのまま記したものだと気づき、幾つかの文字の解読に成功しました。ランダがHはどう記すのかと尋ねると、マヤ人は「エイチ」と答えるといった具合です。さらに、マヤ人が音節文字を使っていることにも気づきました。音節文字の例を挙げれば、英語ではKAの二文字で現される音が、日本語ではカは一字で現されます。

クノローゾフによって、マヤ文字が表意文字と表音文字が合わさったものであることが解明されたことによって研究は進み、現在のマヤ文字の解読率は80%あるいは50%以下と言われています。



ブラ・スール神父が関係したマヤ文字解読のエピソードをもう一つ紹介しておきましょう。ブラ・スール神父は、ランダのアルファベット表を使って、トロアノ絵文書(マドリッド絵文書の持ち主の名前に由来する呼び名)の解読を試みました。文字の感じから自分に都合の良い字にあてはめたりと、でたらめな翻訳を行いました。その中にアルファベットのMに似た文字を見つけ、これを「ムー」と読みました。ブラ・スール神父は、以前からエジプト人とマヤ人はアトランティスの末裔だという持論を持っていたことから、「ムー」はアトランティスのマヤ語での呼び名だとして、「マヤ人はムー(アトランティスのマヤ語読み)の滅亡を逃れてきた末裔で、大陸崩壊後にはムーの女王モーがエジプトに渡り、女神イシスとしてエジプト文明を作った」と提唱しました。

ブラ・スール神父の考古学上の業績は、最大限に評価されるべきものですが、同時にトンデモ界を代表する「ムー大陸」の生みの親でもあります。考古学とトンデモ界の世界とは、紙一重のところで背中合わせになっているのかもしれません。

トンデモ界の分野として、一般にも知られることになった「マヤ歴における2012年滅亡説」については、チチェン・イツァー遺跡の項で述べることにします。
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