さすらい人の独り言

山登り、日々の独り言。
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さすらいの風景 マラッカ その1

2017年10月02日 | 海外旅行
5日目は、マラッカへの日帰り観光を行いました。

マラッカは、ムラカともいいますが、首都クアラルンプールの南のマラッカ海峡に面して発展した歴史を持った港湾都市です。1400年にマラッカ王国が誕生して繁栄した後、400年以上の間にポルトガル、オランダ、イギリスとヨーロッパの列強国に支配され、独特の文化が形成されました。ペナン島・ジョージタウンと共に「マラッカ海峡の歴史都市群」として世界遺産に認定されています。

クアラルンプールからは、2時間でマラッカに到着しました。



旧市街地に入ると、セント・ピーター教会が現れました。1710年にポルトガル人が建てた教会です。ステンドグラスが美しいようですが、車窓から眺めただけです。



中心部が近づくと、通りも狭くなってきました。



セント・フランシス・ザビエル教会の前を通過しました。



前庭には、フランシスコ・ザビエルと日本人のヤジロウの像が置かれていました。

バスはスピードも落とさずに前を通過してしまったので、後で見学の時間をもらいました。



オランダ広場でバスを下りました。

多くのトライショーが客待ちをしていました。



オランダ広場は、大勢の観光客で賑わっていました。



マレーシアの各地で、このような観光客用のモニュメントが置かれていました。



オランダ広場、さらにマレーシアを代表するといって良い眺めです。

正面は、1753年にオランダ統治時代に建てられたムラカ・キリスト教会です。



オランダ広場に面して建つスタダイスは、1650年にオランダ総督が住むために建てられ、東南アジアで最古の建築物になっています。現在では歴史博物館と民族博物館として使われています。



1904年に英ビクトリア女王に捧げるために造られ、ビクトリア女王噴水と呼ばれています。



この時計台も、噴水と同じに英ビクトリア女王に捧げるために造られました。



自由時間をもらって、セント・フランシス・ザビエル教会の見学を行いました。

日本でも馴染みのあるザビエルの功績を讃えて1849年に建てられた、ゴシック建築のカトリック教会です。





教会の入口は閉まっていたので、柵の間から中庭をのぞきました。

これらの像は、2007年7月にザビエル生誕500年を記念して、鹿児島市ザビエル上陸顕彰会と鹿児島県マレイシア友好協会が、ザビエルと鹿児島出身のヤジローとの出会いを記念して寄贈したものです。



フランシスコ・デ・ザビエルは、イエズス会の創設メンバーの1人で、ポルトガル王ジョアン3世の依頼でインドのゴアに派遣されました。マラッカをベースに布教活動を行っていたところ、1547年12月に鹿児島出身のヤジロウと出会いました。ヤジロウの案内で1549年に鹿児島に来港し、日本での布教活動を開始しました。ザビエルは、全国での宣教の許可を「日本国王」から得るため京都を訪れて、後奈良天皇および征夷大将軍・足利義輝への拝謁を願いましたがかなわず、山口や豊後での宣教活動に力を注ぐことになりました。ザビエルは、ゴアに一旦戻った後、日本全土での布教のためには日本文化に大きな影響を与えている中国での宣教が不可欠と考えました。そこで中国に向かいましたが、広東省上川島で病死してしまいました。遺骸は、マラッカを経て、ゴアに移送され、ボン・ジェズ教会に安置されました。



ヤジロウは、鹿児島出身で、若い頃に人を殺し、その罪を告白するために彼はザビエルを訪ねたといいます。ザビエルは、ヤジロウから日本の話を聞いたことから、日本での布教を決心したといいます。ザビエルの離日後、ヤジロウは布教活動から離れて海賊の生業に戻り、最後は中国近辺で殺害されたといわれていますが、彼の人生については不明な点が多い状態です。

フランシスコ・デ・ザビエルで話題になることの多い髪型については、この後で別な像を見ることになるので、その際に触れます。
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