四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

高取山城跡(埼玉県越生町)

2017年03月01日 | 100名城以外の城館跡


入間郡越生町越生にある高取山城跡を攻城してきました。別名では、高取城 越生要害城 要害山城などもと呼ばれているようです。
城跡の主郭下に建てられている標柱では「高取城跡」としてありますが、この投稿では高取山城跡を使わせていただきます。

【高取山城跡】
越生神社の奥宮がある高取山には、中世の山城跡があります。関東平野を望む標高170mの頂上は平らに削られ、土塁や空堀で画された数段の郭の跡が
残っています。築城者や城主は不明ですが、現在の織物会館(※)付近と推定される越生氏館跡との関係を考えると、有事に備えて館の背後に築かれた
「物見の砦」や「詰めの城」であった可能性があります。『新編武蔵風土記稿』の「今市村」の記事には、「越生四郎左衛門屋敷跡」と紹介されています。
越生四郎左衛門は、『太平記』に登場する、南朝の総大将北畠顕家を討ち取った武将ですが、越生氏一族の誰であるかはわかりません。
(埼玉県立嵐山史跡の博物館発行 『改訂 歩いて廻る「比企の中世・再発見」』 から引用)  ※ 織物会館・・・現在は越生絹会館




上記『改訂 歩いて廻る「比企の中世・再発見」』 【高取山城跡】の項にある図を借用




越生神社のすぐ裏手に登山口があります




高取山 約0.3km  約300mってことですよね  平場ならともかく山道の300mは数kmにさえ感じます




登山口を入ってすぐ二股に分かれます  高取山城跡へは右の階段のある道を登って行きます
左の道は、大高取山ハイキングコースとなっている山道




最初はこんな道が続きます  でも写真で見るより急な道です




この辺りから九十九折の山道となります




九十九折の状態が分りますか?




標柱が見えてきました




色々な方のブログ等を見てみますと、以前は木製(丸太)のものでしたが、最近建て替えられたようです。表示名は「高取城跡」
越生町町制施行百周年記念越生町再発見100ポイントとあり、この高取城跡は6とあります。
標柱の前は狭くて崖っぷちですので、写真を撮るのも大変な思いです。




標柱脇の石段を見上げれば鳥居が




石段を上り切ったところから下を




主郭です  正面の社が越生神社奥の院
関東平野を望む標高170mの頂上と言うことですが、残念ながら木々に遮られ遠景近景何れも視界ゼロ




主郭を北方から




主郭を南方から




主郭南西隅にある土塁
大半の方が「土塁」と書いていますが、祠を祀るために神木の根元に土盛りをしたのではと、またしても素人解釈してみました




主郭から二の郭を見下ろしてみました




二の郭を横(西側)から  左側の高い部分が主郭




やはり二の郭だったと思いますが、歩き回っていましたので確証はありません




帯郭  ここも帯郭とは言い切れませんが・・・




堀切? 空堀? 悩むところです




上の写真の延長上にありますが、やはり、堀切か空堀か分からず悩んでいます(素人なもので)




三の郭?




西の郭?




西の郭先の虎口? ハイキングコースに合流します




下山途中にどうにか視界の開けているところを探して  だいぶ下りたところですので展望は開けてはいませんが




実は、この前日(2月19日)にも、この高取山城跡の攻城を試みたのです。現在、足を痛め整形外科のお世話になってることから
山登り(攻城)予定はなかったのですが、思い付きで急遽、高取山城跡に登ってみたくなり下調べもないまま無謀な挑戦。
このふたつに分かれた登り口のうち、階段のある右のほうは急に見えましたし標識もない、左の道は緩やかそうなうえに
ハイキングコースの立札があったことから、高取山城約0.3km跡へは左の道を行くのだろうと歩き始めたわけです。
と言うことで、ここからの写真は2月19日に撮影したものです。




と言うことで、ひたすらこんな道を歩きました。




しばらく歩いて行くとこんな標識が。大高取山 約2.0km  え! 登山口には、約0.3kmとあったのにまだ2kmもあるの。
山道をそんなに歩けませんので高取山城の攻城を断念して引き返しました。でも、これは大きな勘違いをしていたのです。
高取山までは約0.3km  ここでの約2.0kmというのは大高取山までだったのです。
まあ、楽をしようと考えず階段のある右の道を上っていたら知らず知らずのうちに高取山城跡に到達していたかもしれませんが。

いつもこうした失敗をしているのですから、しっかりと下調べして行けばと分っていながらもそれをせずに同じことの繰り返し。
学習能力のないことに自分自身あきれます。足が完治してから再挑戦すればよいだろうと考えるのが普通の人間。しかし、馬鹿な自身は、
失敗したから逆に何とか攻城したいという思いに駆られ、足を引き摺りながらの再攻城となったわけです。お陰で足の痛みが増しました。

攻城日:2017年(平成29年)2月20日(月)