四季・めぐりめぐりて

齢を重ねるに従い「年々歳々花相似たり 歳々年々人同じからず」の言葉が重みを増しています

野本氏館跡(無量寿寺)

2017年02月20日 | 城館・城跡


東松山市下野本662に所在する「野本氏館跡」を訪ねてきました。以下は現場に設置の説明板から

東松山市指定文化財  野本館跡  (昭和49年7月10日指定)

野本基員を初代とする野本一族の館跡です。野本氏は系図から平安時代の公卿藤原基経(836~891・堀川大臣)の家の警護をしていた片田基親の子息基員が武蔵国野本に
移り住んで野本左衛門と名のったのが、野本氏の始まりと言われています。基員は源頼朝の信任の厚かった武士で、鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」にも登場する人物です。
館は現在、無量寿寺の境内地となっており、本堂の北側で土塁と堀がわずかに確認できるだけとなっていますが、実際は二重の堀と土塁を廻した構造の館となっています。
外側の土塁と堀は当初からのものでなく、後世の増築によるものと考えられています。江戸時代の武蔵国の様子を書いた「新編武蔵風土記稿」の無量寿寺の項には
「寺領の外境内一万四千坪、境の廻り四方に堤を築き、堀の跡残れり」とあり、同書の「将軍塚の図」には土塁や堀の様子が描かれています。
館が造られた時期については、基員が貞永元年(1232)に亡くなっていること、また無量寿寺に残されている建長6年(1254)銘の銅鐘の拓本により、
当時無量寿寺が野本寺といわれていたことなどから、遅くても13世紀の初め頃には館が造られていたと考えられています。

平成17年3月        東松山市教育委員会




「市指定史跡 野本館跡」の標柱




山 門(四脚門)




山門脇に設置されている「野本館跡」説明板




山門に掲げられている山号「利仁山」の扁額




本 堂
この写真では分らないと思いますが、大棟と唐破風の屋根瓦には「三つ葉葵」紋が使われています。当寺とどういう関係があるのでしょうか?




寺号「無量寿寺」の扁額




本堂北側にわずかに残る土塁




同 上




土塁周囲の更地は最近まで竹林だったようです  建物は野本小学校


散策日:2017年(平成29年)2月17日(金)
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本田氏館跡

2017年02月19日 | 城館・城跡


深谷市(旧・川本町)本田5032に所在する「本田氏館跡」を訪ねてきました。
館跡と言っても本田氏館には現在も後裔の方が住まわれており、今も「お屋敷」と呼ばれているようです。いくら旧跡とはいえ、私有地を勝手にと言うわけにもいきません。
散策の許可を頂きにお伺いしたところ、快く承諾してくれて、蔵の脇から入れますよとご親切に教えていただきました。

本田氏館については、屋敷前に設けられている説明板で代用させていただきます(詳しくは述べろと言われても述べられませんし)

写真右下の道路縁石にある絵は「畠山重忠公」です。縁石の所々に何種かのこうした絵がはめられていますが、ここに「畠山重忠公」を持ってきたのは決して偶然ではないでしょう。




畠山重忠が産まれたとされる場所、また重忠の墓とされる場所である「畠山館跡」(現在は畠山重忠公史跡公園)は、ここからほど近い(旧・川本町)畠山にあります。




旧・川本地内の史跡跡等にはこうしたカルタが立っています。




本田家現在の屋敷裏の雑木林です。ここが郭跡でしょう  〇印の所に氏神様と碑が建っています




碑には「本田次郎近常遺跡地」と刻まれています




はっきりとはいていませんが空堀跡のようです




やはりはっきりとはしていませんが、空堀と土塁のようです

時間をかけて散策すればはっきりした遺構を写真に収めることが出来たかもしれませんが、現在も生活が息づいている場所ですので長居はできません。
館跡を確認出来たという事実だけで十分です。

散策日2017年(平成29年)2月6日(月)
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水野氏陣屋跡(昌国寺)

2017年02月18日 | 城館・城跡


埼玉県大里郡寄居町赤浜915に所在する「水野氏陣屋跡」を訪ねてきました。

水野氏陣屋跡と言われる場所は一帯は、現在、曹洞宗の寺院「昌国寺」境内となっています。昌国寺の開基である水野長勝は尾張出身で、織田信長に仕えていましたが、
天正10年(1582)の本能寺の変後は北条氏邦の家臣となり、鉢形城内(笹曲輪か?)に屋敷を与えられるとともに、赤浜にも居館を構えたとされます。
天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原征伐により北条氏が滅ぶと、長勝も禄を失いました。長勝は、小田原征伐後に関東八州の領主として江戸に入府した徳川家康と
従兄弟関係(母親同士が姉妹)にあったことから、翌年の天正19年(1591)旗本として登用され、赤浜(寄居町)に629石、能増(小川町)に170石を知行され
ました。赤浜に陣屋を構え、陣屋内に水野家の菩提寺である昌国寺を開基したとされます。二代目である長勝の子忠貞は、正保4年(1647)、伏見奉行に任じられると
ともに1500石加増となり、すべての知行が大和国に移りました。これにより陣屋は廃されたようですが、昌国寺は、その後も水野家の菩提寺と存続しました。

この水野氏陣屋跡四周には今なお空堀や土塁が良好な状態で遺るとのことでしたので訪ねた次第ですが、呼び方については、水野石見守陣屋・水野長勝陣屋・赤浜陣屋等あるようです。

          


陣屋跡の南側を走る県道81号線沿いに、「曹洞宗 赤龍山昌国寺」の立派な寺号標が建っています。




先ずは周囲をめぐる土塁・空堀を攻めてみます
ここは陣屋跡南側の西方部の土塁・空堀




上の土塁・空堀を陣屋跡内西方から東方に見てます




向きを逆にして東方から西方に  奥に見えるのが西側の土塁




西側の土塁上  左に墓地があります  右が境内




西側土塁の切れたところ(墓地との往来口・陣屋時代の虎口?)から墓地側に出て境内を




西側の土塁を虎口あたりから北方に




土塁北西隅




土塁上から再び境内を




北側土塁と空堀




空堀は朽ちた竹その他諸々で埋まっており、堀底まで行って帰ってくるのは大変でした




北側土塁を外から




東側の土塁




東側の土塁・空堀を外から  人車の通行があるためか整備されています




堀底と土塁  ちょっとした高さがあります




南側東端の土塁と空堀




南側東端の土塁上に自生する高野槙の大木




町指定天然記念物高野槙の説明板




本 堂
ちょっと見ただけでは集会場くらいにしか見えませんが、れっきとした本堂です
かつては大きな本堂があったようですが火災で焼失してしまったとのことです

現在この寺には住職がおりません。住職の住まいと思われる家屋も空き家になっています。(写真なし)
住職を必要とするときは嵐山町の某お寺に連絡するようです(詳しくは分りませんが)
境内等が比較的綺麗に整備されているのは檀家さんたちが頑張ってやってくれているのでしょう。




鐘 楼
この写真では分りませんが、鐘撞棒は木を切ったままの状態のものが使われており、綺麗に丸く加工されたものではありません。




取りあえず土塁・空堀を一周しましたので、次は水野一族の墓をと・・・
この標識は、昌国寺に来た時、最初に目に入れておりましたから、土塁や空堀を見終えたらこの矢印の指す方向に行けばよいと考えていました。
ですから、西側の土塁の外側にある墓地を見ても、まさかそこに水野一族の墓もあるとは思いもしませんでしたからスルーしたわけです。なんたって矢印とは逆方向の場所ですので。

この矢印の指す方向は東側の土塁方向です。そこで東側の土塁内側も見てみたのですがそれらしいものは見当たりません。一般の墓所が土塁の外側にあったように、
水野一族の墓所も外なのかもしれないと、土塁の外に出てみましたが、やはりそれらしいものは見当たりません。

こうなったら人に訊くしかないと県道を歩き、何軒目かのお宅の庭先に、買い物から帰ってきたばかりと思しき女の人の姿を見ましたので、声をおかけして事情を話したところ、
家の中にいた主人を呼んでくれ、そのご主人は紙に書いて説明するでなく、一緒に行ってくれると案内をしてくれました。なんと親切なことか。そこはなんと・・・




そうです。まさかとも考えにも及ばなかった西側の土塁の外にある墓地に水野一族の墓所もあったのです。
あの木立と土塁に囲まれた中にです・・・




一般の墓(?)の間に建っていた「水野家一族の墓所」の案内・説明板




池の東側(前)にある開基水野石見守新右衛門長勝、同夫人、母、嫡男の墓所




もう少し広く撮りたかったのですが、これ以上下がると池に落ちますので
左から  長勝夫人(五輪塔)  長勝(家形)  長勝母(宝篋印塔)  嫡男(五輪塔)

それぞれの墓の前に戒名と略歴(側面)が書かれた鉄柱が建っていますが錆びていて戒名以外はほとんど読めません




水野石見守新右衛門長勝の墓




二代から七代及び夫人の墓は、この土塁で囲まれた墓所に




広すぎて全体を一枚に収めることは不可能です




中央の宝篋印塔が二代忠貞の墓




二代忠貞  俗称水野十郎左衛門  18歳で大阪夏の陣に加わり戦功を上げ知行7500石取の大身の旗本となる

同じ水野十郎左衛門ということで幡随院長兵衛を殺害したとされる旗本奴の水野十郎左衛門成之(~1664没)と勘違いしている方もいるとのことですが、
こちらは水野十郎左衛門忠貞 (~1670没)、成之とは遠縁のようですが全くの別人のようです。(自身はこの件については全く無知でしたが)




個々の墓について紹介できればよいのですが無理ですので雰囲気だけで・・・




向き合うように反対側にもこうして墓があります

北条氏邦の家臣についっては全く知りませんでしたし、これだけの土塁・空堀が<遺っているこんな場所があることは行くまで知りませんでした。
散策するにあたっては一応皆さんの記事や写真を参考に見て行くのですが、いざ現地に行ってみると写真で見たようなわけには行かず、
いつも迷ったり目的物を見落としたりしてしまいます。今回は目的物が見つからずご近所の方のお世話になりました。
せめて案内標識の矢印は正しい方向に向けておいてほしいものです。素直で正直者の自身ですから信じてしまい疑うことを知りませんので(笑)
墓所に関する説明板はありましたが、できれば陣屋跡に関する説明もあればもっとよかったかなとわがままを言っています。

散策日:2017年(平成29年)2月6日(月)
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越生梅林

2017年02月17日 | 花・鳥・風景


今年も「越生梅林梅まつり」が、今週末の18日(土)から始まります。そんなことから様子を見に行ってきました。既に駐車場の看板は設置されていましたし、各種標識も用意され準備万端。
梅園脇の道から咲き具合だけを確かめる予定でしたが、ほぼ満開状態であったことから園内を少しばかし散策してみました。他にも多くの方が様子見がてら散策していました。






























散策日:2017年(平成29年)2月16日(木)

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梅と福寿草

2017年02月16日 | 花・鳥・風景














いつもの散歩道をしばらくぶりに歩いて来ました。毎年観ている梅の木がほころんでいました。前回観た時はほんの少しだけ芽を出していた福寿草も咲いていました。
紅梅はもう少しと言ったところでしょう。

散策日:2017年(平成29年)2月15日(水)
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増田氏館跡(野原の文殊寺)

2017年02月15日 | 城館・城跡


熊谷市(旧・江南町)野原623に所在する「増田氏館跡」を訪ねてきました。
小川町にある高見城(四ツ山城)の城主であった増田氏の館跡と言われます。とは言え、「野原の文殊さま」として知られる曹洞宗の寺院である五台山文殊寺のことです。
日本三体文殊のひとつとして有名なことは昔から知っていましたが、訪ねたのは今回が初めてとなりました。それも館跡を主眼としてではありましたが。




仁王門(山門)
館跡の遺構が目当てとは言え、当然、普通にお詣りすることはいつものことです。




「熊谷市指定有形文化財 文殊寺仁王門」 の標柱   「曹洞宗 五台山文殊寺」 の寺号標




仁王門(山門)




仁王門の扁額  何と読むのかわかりません(恥)




仁王像 




仁王像




文殊寺の説明板
自身にはこれ以上の知識はありませんので・・・



仁王門から本堂へ向かう参道




鐘楼門が見えます




六地蔵尊




鐘楼門
残念ながら銅鐘のある二階へは階段に鎖が張られていますので上がれません




手水舎




本 堂




同じく本堂を斜めから
絵馬の数が凄いです  学問の神様天満宮同様に合格祈願に来られる方が沢山います




「文殊尊」の扁額
堂内には沢山の折り鶴が奉納されています
少しでも知恵を頂きたくお詣りをしましたが、果たして・・・




文殊尊の石碑




本題に入るべくまずは本堂裏の林を散策




芭蕉翁塚




本堂裏を含め大変広い境内です




境内を抜けて西側の道に出ました  土塁です




空 堀
西側には空堀跡が200m強続いています




空堀を南方向から北方向に  右側が境内です




上の写真同様に空堀を南方向から北方向に




西側道路から南側道路に出たところで土塁と空堀を




境内北側の空堀を西方向から東方向に  左側(北側)には立正大学があります




同じく北側の空堀を空堀を東方向から西方向に




同 上




内郭の空堀  栗の若干北方にあったものです




内郭の空堀  鍵の手(?)になっています




境内に咲く紅梅



紅梅と鐘楼門




文殊寺を南西方向から

増田氏館跡と言われる場所は深谷市にもあり、ここ野原に移る前の居館のようです。これも機会を見て・・・

散策日:2017年(平成29年)2月2日(木)・6日(月)
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内ケ島氏館跡

2017年02月14日 | 城館・城跡


深谷市内ケ島644に所在する「内ケ島氏館跡」を訪ねてきました。
内ヶ島氏館跡の永光寺は内ヶ島五郎の開基と言われています。




永光寺山門  朱塗りの門は、一瞬、神社かと思ってしまいます(自身だけか?)
塀の内側に外に向けて、「内ケ島氏館跡と栄光寺」の案内板が設けられています。




これがその案内板です  判読可能と思いますので内容は転記しません(早い話がいつもの手抜きです)




山門を入ったところに、「深谷市指定文化財 内ケ島氏館跡」の標柱
側面に 昭和33年11月3日指定 深谷市教育委員会 とあります




本 堂




境 内   境内の中に「内ケ島自治会館」が建っています


案内板を見ての通り現在は遺構は残っていないようですし、この日は大変な強風でしたから、案内板と標柱を確認して散策終了。

散策日:2017年(平成29年)2月2日(木)
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北根代官所跡

2017年02月13日 | 城館・城跡


深谷市(旧・花園町)北根260に所在する「旧北根代官所」を訪ねてきました。同所には現在も郷代官を務めた子孫の方が居住しており、門の前までと周囲を見学させていただきました。
北根代官所は、武蔵や上野などに所領が分散する旗本・日根野氏(1500石)が、所領のひとつである北根村(現在の深谷市〔旧・花園町]北根)に設けた代官所で、
北根村の名主であった宇野氏が郷代官を務めました。建物は延享4年(1747)に建てられたと伝わり、敷地周囲に一部に堀・土塁が残っています。




門も昔からのものでしょうか




門前に設置されている「旧北根代官所」の説明・案内板




当時役宅として使われていた旧北根代官所建物




敷地北側の土塁




北方から旧北根代官所の遠景




門前の説明・案内板から間取り図を

散策日:2017年(平成29年)1月31日(火)
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上之村神社・大雷神社

2017年02月12日 | 神社仏閣


熊谷市上之16に鎮座する「上之村神社・大雷神社」を訪ねてきました。
上之村神社が本社で、大雷神社が摂社とのことですが、上之村神社は800年程前に創建され、室町時代に成田氏(忍城主成田家時)によって再建されたとのことです。
このように成田氏に関係する神社であるとともに、この神社には珍しいものがあるとのことから訪れてみた次第です。




神社入口です。
参道両側に社号標が建っています。右側のものが見ての通り新しいもので、上之村神社・大雷神社と並記されています。
左のものは写真では分りませんが、上之村神社・大雷神社と並記された上に旧社格である「郷社」の文字が刻まれています。
一応、セメントで埋めて消した格好にはなっておりますがはっきりと読めます。まあ、どこの神社でも同じようなものですから。




石橋の手前に建っている標柱です




今では珍しい木製の鳥居




鳥居の扁額にも上之村神社・大雷神社が並記されています




上之村神社鳥居の説明板

この鳥居は、上之村神社正面にあって・・・と記されています
笠木や控柱の上にいた屋根を設けるなど耐久性にも十分考慮・・・とありますので、もう一度、別角度から鳥居の姿を




確かに屋根付きです




手水舎




上之村神社・大雷神社御由緒



上の写真のままでは見辛い(判読しにくい)ので、転記ではなく画像の拡大で、まず前半分を




同じく後半部分を




拝 殿




拝殿に架かる扁額にも仲良く上之村神社・大雷神社を並記




拝殿内には沢山の絵の額が掲げられています
奥に見えるのが本殿




本殿は玉垣に囲まれておりますので、扉の格子の間や玉垣の間から覗いて見ました




奥に見えるのが本社上之村神社の本殿




横を向いて建てられている摂社大雷神社の本殿
鳥居は、上之村神社正面にあって・・・と説明板に書かれていたのはこういうことだったのですね。大雷神社本殿は鳥居に対して横を向いているわけですから




境内末社




上之村神社・大雷神社を訪ねた理由のメインはこれでした




社前の堤です
  



左側が神社側




右側が道路

散策日;2017年(平成29年)2月2日(木)
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「松山城を歩く」

2017年02月11日 | 城館・城跡


埼玉県立嵐山史跡の博物館主催 文化財めぐり 小田原北条氏の城を歩く2 「松山城を歩く」が、2月10日(金)催行されましたので参加してきました。

自身の城歩きと言えばいつも単独でしかありませんので、城好きの仲間や専門家と一緒に歩ける機会があればと願っていた所ですが、初めて願いが叶いました。
松山城跡はこれまでに2度攻城しておりましたから、今回は、遺構の確認よりも皆さんの知識を少しでも吸収できればと、視点を変えての城歩きでしたので、
遺構の写真はほとんど撮っておりません。なお、遺構の写真については前回攻城時のブログ記事松山城跡にクリックでリンクできます。
全行程の写真を掲載できればよいのですが、今回は上記理由から何枚も撮っておりませんの行程の一部のみです。




集合場所の東松山駅東口  参加者が集まっています




松山城跡に向けて出発です。駅前の通りを真っ直ぐ進むのが松山城跡への一番の近道なのですが、
駅前の通りは駅が出来てからの道であり戦国時代はなかったとのことで、当時の本宿通り(現・本町)に迂回してとなりました。




本宿通りの一角にある、松山城主上田氏ゆかりの寺である日蓮宗の妙賢寺(松本町)に立ち寄り、上田氏一族の墓と言われる2基の宝篋印塔を見学




上田氏一族の墓と言われる2基の宝篋印




松山城跡




吉見百穴の敷地内にある「吉見町埋蔵文化財センター」において、吉見町教育委員会職員の方から松山城跡等についての解説を頂きました
その後、昼食と吉見百穴の自由見学でしたが、自身は2月ほど前に見学したばかりなので今回はスルー




岩室観音堂
松山城とは関係ない観音堂ですので簡単な見学のみ




根古屋虎口から松山城の攻城




惣曲輪、腰曲輪を経て(伝)搦手口  この真下に岩室観音堂があります




本曲輪




本曲輪から二ノ曲輪へ




二ノ曲輪




三ノ曲輪




三ノ曲輪から曲輪四へ
他にも数か所を見て回りましたが写真がありませんので・・・




松山城の城歩きを終えて東松山駅に戻る途中で上田朝友建立青石塔婆(板碑)を見学

あまりの省略しぎの散策記となりました。嵐山史跡の博物館主催の文化財めぐりにはこれまでも何度か応募していますが、応募者多くいつも選に漏れていましたので今回が初参加でした。
今後も興味ある所には応募していくつもりですが、いつも定員の5倍以上の応募数ですから・・・

散策日:2017年(平成29年)2月10日(金)
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