四季・めぐりめぐりて

齢を重ねるに従い「年々歳々花相似たり 歳々年々人同じからず」の言葉が重みを増しています

畠山重忠公史跡公園

2016年12月08日 | 史跡・名勝


深谷市畠山(旧川本町)にある「畠山重忠公史跡公園」を久方ぶりに訪ねてみました。
ここは、鎌倉時代の関東武者畠山重忠主従の墓があり、畠山氏の館があったとされる所です。




道路からよく見える大きな看板




この看板は嵐山町や吉見町でよく見かける看板と同じものです。重忠は嵐山町とも縁が深いですから・・・それと関係あるかどうかは分りませんが。
と言うよりも、複数の町にあるということは県の教育委員会あたりの設置かも知れませんね。




更に、「畠山重忠公史蹟公園 川本町」の石標も




「埼玉県指定史跡 畠山重忠墓」の説明板 重忠公の来歴が書かれています
 



畠山重忠公之像  一ノ谷合戦での「鵯越の逆落」で、愛馬三日月を背負っている姿ですが、これは後世に作られた話のようです。
しかし、そうした作り話(?)が伝えられるだけの武将であったことは間違いないようです。




同 上




像横に置かれた「重忠公ゆかりの石」  銘文の内容は省略します




重忠公産湯ノ井戸




やはり「伝」の域を出ないようですね




重忠主従の墓がある広場  黒い大きな石碑は「畠山重忠公没後800年 慰霊碑」




重忠主従の墓(五輪塔)は覆屋の中に




ここには新しい(と言っても10数年経っていますが)「畠山重忠の墓」の説明板  内容は、駐車場にある昭和時代のものと変わりありませんが後半だけが違っています。




覆屋の右前方にも石標 「埼玉県指定史跡 畠山重忠公墓 並 館跡」とあります




覆屋の扉は施錠されていますから外から覗き込むしかありません  




扉脇の格子に縛り付けてある畠山重忠墓の見取図と説明文 上下2枚とも中に寄ってしまい、くちゃくちゃになっていましたので広げられるだけ広げて




同 上




格子の隙間




2号塔 3号塔 4号塔




5号塔 6号棟




畠山庄司重能(重忠の父)の墓 これも「伝」




畠山庄司重能の墓説明板




重忠公戦死後、100年忌に当たって供養のために建立されたと伝えられる板石塔婆 やはり「伝」
 



上記の説明板




重忠主従の墓の覆屋の扉に施された畠山氏の家紋「五三の桐紋」


最近、史跡を中心に散策をしていますが、そのほとんどが「墓」に行きつきます。別に墓を選んでいるわけではないのですが、史跡と言う性質上仕方ないですね。
まあ ボチボチと・・・洒落たつもりはありません

散策日:2016(平成28)年12月4日(日)
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農林公園の紅葉

2016年12月07日 | 花・鳥・風景


特に意味はありません。先日の日曜日、道の駅おかべからの帰り道でちょっとだけ寄ってみた埼玉県農業公園(深谷市・旧川本町)の
駐車場付近の紅葉が綺麗だったものですから、ただシャッターを押してきただけです。
























ここへどんぐりを拾いに行ったのは何年前になるだろうか!!


散策日:散策と言うほどではありませんが  2016(平成28)年12月4日(日)

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中宿古代倉庫群跡

2016年12月06日 | 史跡・名勝


深谷市岡地内にある「道の駅 おかべ」と道路を挟んだ西側にある中宿歴史公園内の「埼玉県指定史跡 中宿古代倉庫群跡」を歩いて来ました。
中宿古代倉庫群跡は、このあたりが「榛澤郡」と呼ばれていた頃の古代の役所である「官衙」(かんが・かんがい)の一部ではないかと推定されるとのこと。

難しいことは分りませんので、詳細については下記に掲載の写真の説明(案内)板を参照ください。

官衙跡とされるところでは、以前、茨城県つくば市にある「国指定 平沢官衙遺跡」(←クリックで投稿記事にリンク)を訪れたことがあります。




中宿歴史公園のサイン(石標)




中宿歴史公園案内図(板)




中宿古代倉庫群跡説明板




説明文部分を拡大表示  ただし、数値を修正してある個所が判読不能のため下記に
① 掘立柱建造物物跡16棟
② 竪穴住居跡13軒
③ 1号建物跡で床面積56.7㎡をはかり




写真、図の部分を拡大表示




東方から中宿古代倉庫群跡の全景(ほぼ?)を




若干近付いて




西方から全景を




1号建物前に設置されている説明板




2号建物 (古代復元倉庫 板倉造り)  正面




2号建物 (古代復元倉庫 板倉造り)  正面と左側面




2号建物 (古代復元倉庫 板倉造り)  左側面と背面





2号建物 (古代復元倉庫 板倉造り)  床下
礎石を使わない掘立柱




2号建物跡復元設計図




1号建物 (古代復元倉庫 校倉造り)  正面




1号建物 (古代復元倉庫 校倉造り)  正面と左側面




1号建物 (古代復元倉庫 校倉造り)  右側面と背面




1号建物 (古代復元倉庫 校倉造り)  床下
礎石の上に柱が立っている




2号建物跡復元設計図




中宿歴史公園内の原始蓮池




原始蓮の説明板
もともとこの地にあった蓮ではなく、他所から頂いて植栽し、古代の再現にと・・・



残念ながらこの時季では蓮の花を見ることは出来ません

散策日:2016(平成28)年12月4日(日)
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道の駅 おかべ

2016年12月05日 | 道の駅


深谷市岡の国道17号沿いにある「道の駅 おかべ」は、埼玉県で5番目の道の駅として1996(平成8)年4月16日に登録されました。
そんな「道の駅 おかべ」で、「深谷ねぎグランプリ」なるイベントがありましたので、2日目の12月4日(日)に少しだけの時間でしたが行ってきました。










曇り空のうえ寒い日でしたが、休日プラスイベントと言うことで沢山の方が訪れていました。駐車場はいっぱいで、迷惑千万な駐車車両も数多く見受けられました。




イベントのポスター  




普段にない安価で人気のうどん 列ができていました




こちらは「ねぎ焼きフライ」 ここも列ができていました




「ふっかちゃん」と「ミルク082」  082・・・おやじ




道の駅と言うことでお決まりなってしまった道の駅スタンプです。

左  合併以前の岡部町時代のもの  道の駅登録が平成8年4月16日で、岡部町が深谷市、川本町、花園町と合併し、新しい深谷市となったのが平成18年1月1日のことですから、この間のスタンプとなります。
中央  合併により深谷市になってからのもの デザインは変わらず埼玉県大里郡岡部町から埼玉県深谷市とかわっただけ  これを押印してきたのは合併の翌年である平成19年2月の記録が残っています。
右  12月4日に押印してきたもの  インクが薄く印影がはっきりしませんが「葱」をデザインにしています 中央のデザインのものから今回の右のものまで9年以上の間がありますが、この間に違うデザインのものがあったかどうかは未確認です。
 旧の深谷市には道の駅はありませんが、合併した3町にそれぞれ道の駅があったことから新・深谷市にはいっぺんに道の駅が3っつも存在することになったわけでして。

散策日:2016(平成28)年12月4日(日)

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水城公園散策

2016年12月04日 | 花・鳥・風景


忍城の堀や沼を利用し、昭和39年(1964)に開設されたのが、忍城址の近くにある「水城公園」。忍城址には複数回行っているものの、水城公園に行ったことは
ありませんでした。今回、忍城址を訪ねたついでに水城公園まで足を伸ばしてみました。公園全体を歩いて来たわけでなく、散策と呼ぶには
大袈裟かもしれませんが、青空の下、池を一周してきました。池のほとりには釣り糸を垂れる人が大勢。鴨も大勢泳いでいました。


































忍城址と水城公園の中間くらいの所にある「行田市バスターミナル観光案内所」です。その名の通りバスターミナル内にある観光案内所で、今年4月2日にオープンしたばかりとの
ことですが、パンフレットを頂きに寄らせてもらいました。すると、案内カウンターになんとあの「国宝金錯銘鉄剣」が無造作に立てかけてあるではありませんか。
カウンターのお姉さんに撮影してもよいかおそるおそるお訊きしたところ、「どうぞどうぞ」と、「ここでよいでしょうか?」などとテーブルの上を片づけたりしてくれ、大変親切な応対をしていただきました。




これがその「国宝金錯銘鉄剣」。無論、本物ではありません。持たせてまらいましたが「軽い」、これは鉄剣(鉄製)ではありませんでした。素材は何なのでしょう?
聞くところによると、市役所の方がお作りになられたようです。見事です。器用ですね。写真にしたら本物そのもの。

散策日:2016(平成28)年12月2日(金)
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忍城址を歩く

2016年12月03日 | 城郭・城跡


忍城址

忍城は室町時代の文明年間の初期(15世紀後半)に成田氏により築城され、戦国時代の終わりに秀吉の関東平定に際して石田三成らにより水攻めをうけ開城しました。
家康の関東入国で家康の4男松平忠吉が入城。やがて「知恵伊豆」と称される松平伊豆守信綱が城主となります。島原の乱鎮圧の功績により信綱が川越城に移り、
老中阿部豊後守忠秋が入城。文政6年(1823)桑名城より(奥平)松平氏が移り、明治を迎えました。明治6年忍城は取り壊されましたが、
現在阿部氏が築いた三階櫓を模して櫓が再建され周囲は忍城址公園として整備されています。
(行田市立博物館パンフレットから「忍城址」の項を引用転載)

忍城跡前は何度も通っているので、つい最近、散策したような感じでいましたが、実に4年半ぶりの散策でした。
平日でしたので「忍城おもてなし甲冑隊」の皆さんにお会いすることはできませんでしたが・・・

敢えて説明するまでもないようですので、今回は写真のみを載せておきます。








一見 昔からの門のようですが近世のもの






天守にも見える模擬御三階櫓 内部は博物館




































本丸土塁




本投稿で、御三階櫓の写真を多用しましたが、模擬(復興)とはいえ御三階櫓は行田市のシンボルのひとつ。そんなことからマンホールのデザインにも使われています。実は私、
マンホールの写真を撮るのも一つの楽しみにしております(頃合いを見計らってそれらの写真を投稿しよう考えていて、それまではそんなマニアックな楽しみは隠しておこうとしたのですが)
今回の散策でもマンホールを探しながらの散策で、御三階櫓のマンホールを見つけました。
右の新デザインのものは最近のものでまだ綺麗でした。旧デザインとの違いは2ヵ所ほどありますね。




新デザインのマンホールを見つけただけでも万々歳なのに、なんと郷土博物館の前でマンホールカードを希望者に配布しているのを発見し頂いてきました。
それがこの写真ですが、まさかマンホールカードとは。でも、最近はマンホールが人気とかのようで・・・


散策日:2016(平成28)年12月2日(金)
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ユネスコ無形文化遺産登録

2016年12月02日 | エトセトラ


「山・鉾・屋台」の祭りがユネスコ無形文化遺産に登録されたました。該当の市町はさぞお喜びのこと思いますが、33件を一括りにしてとは。
この写真図面のタイトル「ユネスコ無形遺産に・・・」でなく、「ユネスコ無形文化遺産に・・・」と、文化の文字を入れて正しい標記してほしかったな。

※ 画像は2016年(平成28年)12月2日(金)の 讀賣新聞から
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勝願寺 -小松姫の墓-

2016年12月01日 | 神社仏閣


NHKの大河ドラマ「真田丸」も間もなく終えようとしていますが、主人公真田信繁(幸村)の
義姉(信繁の兄信之の室)稲姫こと小松姫の墓が鴻巣市本町地内の「勝願寺」にあるとのことで訪ねてみました。

勝願寺は、山号を天照山、院号を良忠院と称し、文永年中鴻巣市登戸(現真言宗勝願寺)に創建したと伝えられるようです。本来は浄土宗の寺院であったものが、
いつしか真言宗の寺院となってしまったことから、天正年間に僧惣誉清巌が浄土宗の名跡を残すため当地で浄土宗勝願寺として
中興しました。それが今回訪問した鴻巣市本町地内にある「勝願寺」です。寺領30石の御朱印状を拝領した他、
松平秀康から結城から越前へ移封する際に、結城で使用していた御殿を拝領しています。また多くの大名家の菩提寺となっていた他、
関東十八檀林の一つとして数多くの末寺を擁していました。清巌上人は当寺を隠居後、岩槻に隠居寺浄国寺を創建しています。

鴻巣への鷹狩りの際に勝願寺を訪れた徳川家康は、中興二世円誉不残上人に深く感銘を受けて帰依し、三つ葉葵紋使用を許可しました。

現在の建物は、総門以外は明治15年の大火で焼失したため再建とのことです。




「檀林 勝願寺」と刻まれている石柱と総門
檀林(だんりん)とは、仏教寺院における僧侶の養成機関、仏教宗派の学問所




総門には「栴檀林」(せんだんりん)の文字の扁額が掲げられています。




参 道
小松姫の幟が何本も立てられています  ここだけでなく市内のいたるところに立っているようですが、大河ドラマ真田丸の文字もありますので真田丸が
終えたらどうするのでしょうか?まあ余計なお世話ですし、大河ドラマの文字があろうとなかろうと小松姫ゆかりの地であることには変わりないわけですから・・・




風があってうまい具合には撮れませんでした これが精一杯




参道の途中右側に「秋野家累代の墓」がありますが、中に入ることはできません 外からですと塔頭の頭部分くらいしか見えません。




石戸領とは、現在の埼玉県上尾市北西部から鴻巣市南西部 にかけての地域のようです。北本市石戸地内にある石戸城跡も折を見て・・・




参道の突き当りにあるお堂「龍寿殿というようです」。このお堂にも三つ葉葵紋が多用されています。




仁王門と正対する位置にあるお堂 何というお堂かわ分りませんが廃屋(失礼)に近い状態になっています。




仁王門
明治15年(1882)の大火で焼失し、大正9年(1920)に再建された




仁王門 正面から




仁王門上部に掲げられた山号「天照山」の扁額




この仁王像は秩父・三峰神社から寄贈され移されたものとか




仁王像




仁王像




仁王門裏手から  門の向こうに名前の分からない廃屋に近いお堂が




仁王門あたりからから本堂を  この参道の長さを見ただけでも境内がいかに広いかわかります




近くに寄ってみました




右斜めから




左斜めから




本堂屋根の大棟に光る三つ葉葵紋  瓦の先端にも葵紋が入っています




本堂正面出入り口上部の彫刻 素材は漆喰か何かでしょうか




本堂内に掲げられている院号「良忠院」の扁額




堂内もいいたるところに三つ葉葵紋




老朽化したため取り壊し、新たに建築中の客殿 ほぼ出来上がっています




鐘 楼




本堂手前右側にあるに人形塚  毎年11月14日のお十夜にあわせて法要が営まれる。さすがは人形の町鴻巣




沢山の古い墓石  他にも沢山ありました  古いお寺だけにその数も・・・




芭蕉忌千句塚




これが今回の主目的である小松姫の墓  本堂の左手にあります




小松姫は元和6年(1620)春、病気を患い草津温泉での湯治のため、江戸から草津へ向かう最中にここ武蔵国鴻巣で亡くなった。48歳没。戒名は大蓮院殿英誉皓月大禅定尼
生前に同寺の二世、円誉不残上人(えんよふざん)に帰依した縁から、二女が一周忌の際に分骨した。本廟(ほんびょう)は長野県上田市にある。上野国沼田にある正覚寺にも分骨されている




相関図



真田信重の墓(左) と 小松姫の墓(右)




同 上




真田信重 1万7千石 埴科藩2代藩主 50歳没  




真田信重の室の墓




仙谷秀久の墓




仙谷秀久も鴻巣で亡くなったのですね




埼玉県指定史跡 伊奈忠次 忠治墓




説明板  この伊奈伊奈忠次 忠治も勝願寺には深い縁があるようです




古墳  でも古墳とは認定されていないような記事がありました




鴻巣公園 かつて(勝願寺が檀林として興隆した時代)は学寮が立ち並んでいた場所だったようでが、現在は、市民の憩いの場となっています。

墓地には、伊奈忠次 忠治墓のほか、地元では有名な方の(私は知りませんが)の墓が複数あるようです。

散策日:2016(平成28年11月27日(日)・28日(月)
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丸墓山古墳

2016年11月30日 | 史跡・名勝


1ヶ月前の10月28日(金)放映の、BS-TBS『高島礼子・日本の古都~その絶景に歴史あり』は、「のぼうの城の真実」ということで高島礼子さんが忍城や石田三成が
忍城水攻めの際に陣をはったと言われる丸墓山古墳などを歩きました。この放映を観て、高島さんの登ったあの階段を登ってみたいと心密かに考えてていました。

と言うのも確かな理由でもあるのですが、石田堤を見たなら当然丸墓山古墳にも行かねばならないということになりますので行ってきました。

ここを古墳と言うことで捉えるなら「国指定史跡 埼玉(さきたま)古墳群」であり、公園としてなら「さきたま古墳公園」となりますが、そんな面倒な使い分けはしないことにしましょう。
何せ、今回の目的は古代史の範疇としての古墳を訪ねるのではなく、戦国時代のひとつの痕跡を訪ねるためのものでした。故に、数ある古墳の中で訪ねたのは、丸墓山古墳ただひとつ。
時間の関係で他の古墳を見たり、さきたま史跡の博物館に寄れなかったことの言い訳でもありますが。




この看板の中にある稲荷山古墳と言えば「金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)」が発見されたことで一躍有名になり、埼玉古墳群の名を広めた要因となりました。
さきたま史跡の博物館の文字の右のものがそれですね。

今回は、さきたま史跡の博物館に寄る時間的余裕がなかったことは上で書きましたが、過去には2度訪館しています。と言っても・・・




まだ「埼玉県立さきたま資料館」の名称の時代のことで、40年前、34年前も昔のことですから行ったうちには入らないでしょうが。
昭和51年の訪館時は、鉄剣(金錯銘鉄剣)自体は発見(昭和43年)になっていましたが、金文字は発見になっておらず、まだ話題にもなっていない時でした。
昭和57年の訪館時は、金文字を発見(昭和53年9月)した後で、金錯銘鉄剣も展示されておりましたが、確かレプリカでした。

横道に逸れてしまいましたので本題に戻しましょう。




先の看板から歩いて3~400m  前方の東屋の左の丘状のものが丸墓山古墳




さきたま古墳公園案内図  ただ見るだけで各古墳等の位置関係や何があるかも全く頭に入れず  これでいつも失敗しているにもかかわらず




「史蹟 埼玉村古墳群」の石柱  え! 埼玉村
ここはかつて北足立郡埼玉(さきたま)村であったが、昭和29年(1954)に行田市に編入  埼玉県の地名の発祥地




年季の入った案内板ですね  公園として整備された時の名称が「さきたま風土記の丘」




ここにも石田堤が




ここにも「史蹟 埼玉村古墳群」の石柱  この石柱右側の道路が石田堤跡




見えてきました 丸墓山古墳の上に登る階段が




階段上り口脇の丸墓山古墳の説明板
埼玉古墳群の9基ある阿縣古墳の中で唯一の円墳で日本最大のの円墳 直径105m 高さ約19m 
古墳群の中では一番の高さを誇り、石田三成が陣をはるのに選んだのも当然か




いよいよ上がります 高島礼子さんもここを上がって行ったんですね・・・ (また言ってると言わないで下さい 独り言ですから)




階段の途中から見下ろしてみました  




やはり階段途中から




登り切りました




こう見ると結構高いです




上はこんな具合ですが この古墳が出来たころはこれほど広くはなかったと思いますが
陣を作るのに削って平らに(削平)しませんでしたか? 治部殿




ここから忍城が見えるようです




例の如く説明板を  これなら読めるでしょう




中央あたりに御三階櫓が見えると思いますが
これほどの家がなかったころにはもっとよく見えたでしょうね




稲荷山古墳




将軍山古墳




登ったところと反対側にも階段がありましたのでこちらから降りてみましたが、階段の段数がこちらの方が多いような




こちら側にも丸墓山古墳の説明板が設置されていました  内容は同じですが、場所に合わせて古墳の図面が登って来た時のものとは逆です 
陽があたり影が出来ていない分 こちらの方が見やすいかと重複を覚悟で掲載しました




時計回りに古墳の周囲を半周してみました 丁度横側です (どこが正面か知りませんが)




こう見ると階段は緩やかのように見えますが然に非ず




下(平場)から見た稲荷山古墳




やはり下(平場)から見た将軍山古墳




めざせ世界遺産  大分前から運動をやっているようですが、今のところ国の候補からも外れていたと思います。成れるといいですね。


と、以上、古墳群に行ったにもかかわらず他の古墳は見ずに終えてしまいました。石田堤 石田三成の忍城水攻めの陣跡ときたら次は忍城と言うことになりますが
残念ながらその時間がなく、次の機会にと帰陣の途に・・・

散策日:2016(平成28)年11月28日(月)
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石田堤史跡公園と石田堤

2016年11月29日 | 史跡・名勝


豊臣秀吉による小田原攻めで、石田三成が忍城を水攻めにするにために築いた通称石田堤跡を散策してきました。

先ずは、鴻巣市(旧吹上町区域)にある「石田堤史跡公園」を目指しましたが、方向音痴を特技とすることから例の如く
おいそれとは行きつきませんでした。漸く行きついたと思ったら駐車場が見当たりません。確か大きな駐車場とトイレが
あるはずなのですが、付近を探しても見つからず、仕方なく他の通行に支障を来さないスペースに駐車していざ散策に。




上の看板はすぐ目に付いたのですが、この石碑は帰り間際に気付きました。笹の中に隠れるようにあるものですから。




公園です。高く土盛りがされているところがありますが堤跡ではないようです。周囲は馬防柵を模したコンクリートの囲いになっており、
戦国時代の雰囲気を出しています。




東屋もあります  東屋の不幸に見えるのは上越新幹線の線路




東屋内に貼られたパネル  文字が小さくて読めないと思いますので、訪れた際に確認してください。
本来なら内容をここに転記すべきなのでしょうが、長くなってしまいますのでご勘弁を 以下の看板等についても同様で




上越新幹線の高架下にあるモニュメント




矢盾が並んでいます 敵方の小田原北条の三鱗が 丸に二つ引紋は誰?




榊原康政の書状




豊臣秀吉の朱印状 ①




豊臣秀吉の朱印状 ②




豊臣秀吉の朱印状 ③




米俵を土嚢にしたようです (このレプリカはコンクリート製)




豊臣秀吉による包囲作戦の年表




高松城水攻めのさいの賃金




忍城水攻めの際の人夫の賃金




水攻めのイラスト ①  表面のアクリル板(?)がだいぶ汚れと劣化しているようでちょっと見づらいですね




水攻めのイラスト ②




水攻めのイラスト ③




この櫓の下に入り特定の場所に立つと解説の音声が流れます




石田堤史跡公園の見取図  右上の広い緑がいわゆる公園部分 左下の細長い緑の帯部分が堤跡  説明文は省略




石田堤跡




壁面の線はいたずら書きではありません  堤の地質の断層を表しています  アクリル板の中は実際の堤の断層ですがアクリル板が傷んでいてよく見えません




断層見学施設の説明板  これも現地で確認してください




堤の上に上がれますが見るだけです 柵があり歩けませんから




堤に沿って歩きますとこんな感じです




だいぶ抉れていますがここも堤跡?




ここに駐車場が  高架下の向こう側ばかり探していてここにはここまでは来なかった・・・いつもこんなドジをしています

ここから引き返し次に行田市分にある石田堤を目指します





石田堤史跡公園から忍川に架かる堀切橋を渡ってすぐの所にあるにもかかわらず、なぜかグル~と遠回りをしていました
ここは2回目なので見覚えのある風景です ここは行田市堤根 (初回は、2012年5月27日)





県指定史跡 石田堤 の説明板  すみませんこれも内容は転記しませんので




裏には忍城攻め年表が




堤に沿って歩きます




振り返る格好で




石田堤碑まで来ました




石田堤碑の裏側が公園になっていました どうやら「石田堤歴史の広場」と言うようです
空堀ようのものもあり パネル板が3枚ほど いづれも平成27年3月とありますから1年半前の出来たようです
隣には駐車場も整備されていました




「石田堤と忍城水攻め」についての説明




「埼玉県指令史跡 石田堤」についての説明




行田市指定文化財 石田堤の並木」の説明




相変わらずのドジ続きでしたが、どうにか目標は達成 次に向かいます

散策日:2016(平成28年11月28日(月)
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