四季・めぐりめぐりて

齢を重ねるに従い「年々歳々花相似たり 歳々年々人同じからず」の言葉が重みを増しています

『戦国を生き抜いた姫たち』

2017年01月20日 | シンポジウム等


埼玉県立嵐山史跡の博物館で開催中の企画展「戦国を生きた武蔵の国衆たち」に関連したロビー展示『戦国を生き抜いた姫たち』が、
1月17日(火)から2月19日(日)まで同館ロビーで始まりましたので行ってきました。




埼玉県にゆかりのある戦国時代の女性、甲斐姫・大福御前・小松姫・陽雲院・長林院・見性院の6名がパネルで紹介されています。




挨拶文








【甲斐姫】  行田市の忍城主成田氏永の娘








【大福御前】  鉢形城主北条氏邦の正室






【小松姫】   真田信之(信幸)の正室 






【陽雲院】   武田信玄の室






【長林院】   岩槻城主太田氏資の室(北条氏康の娘)


<



【見性院】   武田信玄の娘・穴山梅雪の正室




小説に書かれた姫たち




書 籍


上記6名のうち、忍城では「忍城おもてなし甲冑隊」に現代の甲斐姫が居ります。大福御前の墓(寄居町・正龍寺)、小松姫の墓(鴻巣市・勝願寺に分骨)は訪れていますが、
他3名に関係する地は未だ訪ねたことがありませんので機会を見て訪ねてみたいと考えています。

訪館日:2017年(平成29年)1月20日(金)
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石垣山城跡

2017年01月19日 | 城郭・城跡


小田原市には何度か行ったことがあります。目的は「小田原城」でした。無論、この「石垣山城跡(一夜城)」の存在は知っていますが未だ訪城の経験はありません。
機会があれば行ってみたいものです。出来れば秀吉と家康が並んで行った関東の〇〇しょんの相手がいればよいのですが、行けるかさえわからないのに無理な相談でしょう。

小田原城と言えば、先週金曜日に聴講してきた「戦国時代を生き抜いた武蔵の国衆たち」の講演会会場で、昨年刊行された「史跡小田原城跡御用米曲輪 発掘調査概要報告書」を
販売していて、購入した方も多かったようですが、自身にとっては高価でしたので手が出ませんでした。この御用米曲輪跡は、小田原城内臨時駐車場として使われていたことがあり、
自身も1度だけですが利用したことがあります。
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萩日吉神社流鏑馬祭り Ⅲ 

2017年01月18日 | まつり・イベント


1月15日(日)に執り行われた萩日吉神社流鏑馬祭りの夕まとうを見学してきました。
拙い写真ばかりではありますが、多少なりとも歴史あるこの流鏑馬の雰囲気を感じ取っていただければ幸いです。




夕まとうは午後3時ころの開始予定。萩日吉神社への参拝を終えて馬場に着いたのが午後2時を少し過ぎたころでした。
疾走してくる神馬を正面から捉えることのできる馬場末には大きなレンズをつけた多くのカメラマンが並んでいます。
馬場に並行する見学席も既に埋め尽くされています。俗に言うところの「いい場所」の確保どころではありません。どうにか僅かの空間を探して
陣取りをしました。隣にいた方さえ2時間も前から待っているとのこと。ベストポジションを確保した方たちは何時間前から待っているのでしょうか。




馬場元(始点)の後ろの方にも見物客が集まり始めました。この馬場元で四方固めが行われ、何十本と言う数の矢が射られます。その矢を拾う目的でこの場所を選ぶ人たちが多いのです。




午後3時を少し回ったころ各々神官に先導された大河郷・明覚郷の一行が馬場末から入ってきました。逆算すると、予定通り午後3時ころに陣場を出立したことになります。




神官のすぐ後を、各郷2名の方が馬場に清めの塩を撒いて進みます。




更にその後を、矢取りっ子と介添え人(弓持ち)、的持ち、各苗の方が続きます。矢取りっ子は、木曽義仲家臣であったとされる明覚郷3苗、大河郷4苗の後裔一族の中から条件にあったものが
務めるようですが、少子化の現在においては条件通りの子供がなかなかいないようですので条件を緩和しているかも知れません。これは、毛呂山町の出雲伊波比神社の流鏑馬の乗子にも言われることです。
これは明覚郷の矢取りっ子と介添え人(弓持ち)




こちらは大河郷の矢取りっ子  上の明覚郷の矢取りっ子は白い矢羽の矢を1本手に持っていますが、大河郷の矢取りっ子は、五色の矢羽の矢の束を背負っています。
2枚に割った大河郷の的、3枚に割った明覚郷の的。そして、矢の違いと言った具合に、同じように見えても両郷には違いがあります。更に、この後に紹介しますが的を射るやり方も
異なります。この流鏑馬は行事的にはひとつの流鏑馬祭りですが、同一日時、場所において大河郷と明覚郷がそれぞれ流鏑馬を奉納しているというのが正直なところです。




明覚郷の神馬と乗子




大河郷の神馬と乗子




夕まとう用の射矢を肩に載せている方は家臣後裔で、これは大河郷の人たちです。




このように隊列を組んで馬場元(出発点)に向かいます




馬場元付近は既に沢山の見物客で埋まっています




馬場元に着くと「ヒキメ」が行われます。各郷の一の的に矢を「コン・コン・コン」と3回当てます。




「ヒキメ」のあとは「四方固め」です  中央・東西南北に数十本の矢を射ります。
この落ちてくる矢を拾うとその1年家族が幸福になると言われます。そんなことから矢を拾おうという方がこの付近に多く集まります。




それこそ四方八方に矢を射りますが、時には強く引いて遠くへ、時には軽く引いて目の前の見物客にと・・・
この四方固めに費やす時間の方が、神馬が馬場を疾走し騎射する時間よりもはるかに長いので、四方固めがメインのようでさえあります。




ブレブレの写真で申し訳ありません。
四方固めが終えると、両郷の矢取りっ子と介添え人(弓持ち)が馬場末に向かって全力で走って行きます。




両郷の矢取りっ子と介添え人(弓持ち)が馬場末に着き、定位置に立つと馬場元に合図が送られます。




合図を受けて一の馬が1回目の騎射で疾走します。
ヒキメ・四方固めの際には着ていた陣羽織は脱いでいます。
今年の一の馬は大河郷 二の馬が明覚郷  一の馬・二の馬は開催ごとに入れ替わります。
大河郷の1回目の騎射は一の的を射るのみです。そして、2回目は二の的、3回目は3の的を射ります。対して二の馬の明覚郷は、3回とも3つの的を射ります。
これは、一の馬・二の馬が入れ替わっても大河郷は1回ごとに一つの的を、明覚郷各回とも3つの的を射るということに変わりはありません。




一の的を射りましたので、あとはこのまま馬場末まで走り抜けます。
この後を、今年の二の馬である明覚郷の馬が3本の矢を持ち、一の的・二の的・三の的と順次射りながら馬場末まで走りますが、的間の距離が短いため、次の矢をつがえる間もなく
矢を投げていくことが屡々です。残念ながらこの時(明覚郷1回目の騎射)の写真を撮り損なっていますので、いくつの的に当てたかまでは分りません。




馬場末まで走り終えると乗り子(騎手)は弓を介添え人に預けて馬場元に神馬を走らせます。
この写真はでは、馬場の途中で止まっています。実は、先に矢取りっ子と介添え人(弓持ち)が馬場元に走って戻った後に神馬が馬場元に走っていくところを、
神馬が先に走ってしまったため途中で止まり、馬場末に戻るために振り返っている姿です。
(これはあくまでも私見でありますが、今年の乗り子は今までに見たことがありませんので、萩日吉神社流鏑馬は今回が初めてようでした。そんなことから
要領を熟知するまでに至っていなかったためにちょっとした間違いをやってしまったと考えられます。失礼があったらごめんなさい)




神馬が馬場末に戻ってきたところで、矢取りっ子と介添え人(弓持ち)が馬場元に向かって全力で走ります。




矢取りっ子と介添え人が馬場元に着いてから改めて2頭の神馬は馬場元に走って戻りました。
弓は介添え人(弓持ち)に預けましたので持っていません。




2回目に騎射の前に再び四方固めです。やはり数十本の矢を射りました。




「こっちに撃って!!」などと声が聞こえてきます。矢を拾わんとあたらこちらで構えています。




さすがに自身のいるところまでは飛んでは来ませんでしたが・・・




2回目に騎射に向けて再び矢取りっ子と介添え人が馬場末に全力で走ります。




1回目同様に先に一の馬の大河郷の神馬が走ります。矢は1本で二の的を射ります。




続いて二の馬の明覚郷の神馬が走ります。1回目の騎射同様に3枚の的を射ります。




再び矢取りっ子と介添え人が馬場元に走って戻ります




その後を神馬が馬場元に走って戻ります。1回目の時のような間違いはありません。




馬場元では3回目の四方固めが行われています

この後の模様(矢取りっ子と介添え人)については前回前々回同様ですので省略します。




3回目の騎射 一の馬大河郷の乗り子は矢をたがえて




二の馬明覚郷の乗り子は、1本は弓にたがえ、1本は手に持ち、1本は口に咥えて




3回目の騎手を終えて馬場元まで戻ってきます




4回目は軍扇を持って左右上下に振りながらの疾走です  大河郷の神馬と乗り子
弓は使いませんので、矢取りっ子と介添え人は馬場元に残ったままです




続いて二の馬明覚郷の神馬と乗り子




軍扇を咥えて馬場元に戻ってきます




5回目(最後)は、鞭を持っての「ノッパライ」(乗り払いの意)
馬場末から馬場元へは戻りません




ノッパライが終えると馬場元にいた後裔の方々や矢取りっ子と介添え人、関係者は馬場を歩いて馬場末まで行き、そのまま神馬と共にそれぞれの郷に帰って行きます




沢山の人が集まって来ています




明覚郷の的 当番家の名が入っていますが、この的は当番家で保管されるのでしょう。




弓取りっ子も神馬に乗って大河郷まで帰ります。往路もこのように乗り子と一緒に神馬に乗ってきた筈です。

前回の3年前は落馬と言うアクシデントがあったようですが今年は何の事故もなく無事に流鏑馬を奉納できました。3年後の流鏑馬も楽しみにしましょう。

文中の説明の中で誤りの個所があるかも知れませんが、もしありましても素人の精一杯の説明ですのでご寛大にお願いします

見学日:2017年(平成29年)1月15日(日)
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萩日吉神社流鏑馬祭り Ⅱ

2017年01月17日 | 神社仏閣


1月15日(日)に執り行われた「萩日吉神社流鏑馬祭り」に際し、大河郷の当番家である加藤家から出陣していく一行を途中まで(ほんのさわり程度)ついて行っただけで帰宅してしまいました。
午後には降った雪も融けており、天候もどうにか持ちそうでしたので、急遽、流鏑馬の「夕まとう」を見学して来ようと、神馬ならぬ超高級な愛車に乗って萩日吉神社へと向かった次第でです。




駐車場に愛車を乗り入れてから歩いて萩日吉神社参道に向かいましたが、この時、既に午後1時半を過ぎていました。「夕まとう」は午後3時からの予定ですから、
既に馬場は少しでも良い場所をと陣取りが行われていることは想像するまでもないことです。遅ればせながらも少しでも早く馬場に行ってと考えたいところですがそこは我慢して。
それに、神社主宰ではないものの神社に奉納され、例大祭の行事のひとつとなっている流鏑馬ですので、流鏑馬のみを楽しみ神社の参拝はしないといったような礼を欠くことはできません。




大河郷の陣場です。朝まとうを終えて夕まとうまでの休憩中です。神馬も同様です。




陣場に立ててある夕まとう用の的  的は2枚に割り麻糸で繋いであります。この萩日吉神社の流鏑馬の的は、
矢を的中させて割って落とすいうものではありません。当たっても的は落ちないように作られています。




こちらは明覚郷の陣場  大河郷の陣場と道を挟んで向き合うように設けられています。




明覚郷の的は3枚に割ってあり、やはり麻ひもで繋げてあります。




両陣場を見ましたので萩日吉神社に向かいます




鳥居のすぐ後ろ右側に、「鎮守 萩日吉神社」とある木製の社号標が建っています。




ちょっと見落としてしまう場所 鳥居後ろ左側には、「萩日吉神社」と刻まれただけの石柱の社号標が建っています。




鳥居を潜った右側に萩日吉神社の御由緒の看板があります




児持杉




児持杉の説明板




児持杉の説明板の隣には 「萩日吉神社の由来」の説明板  文面を転記しておきます(漢数字は算数字に変えます)

萩日吉神社の由来
 「平の山王様」「萩の山王様」と親しまれるこの萩日吉神社は、社伝によると欽明天皇6年(544)12月に蘇我稲目により創建されたと伝えられます。当初は、萩明神と称されましたが、
平安時代初期に慈光寺一山鎮護のため、近江国(現滋賀県)比叡山麓にある坂本の日吉大社を勧請合祀して、萩日吉山王宮に改称したといわれています。源頼朝は文治5年(1189)6月、
奥州の藤原泰衛追討に際し、慈光寺に戦勝祈願しその宿願成就の後、慈光寺へ田畑1200町歩を寄進しましたが、同時に当社へも御台北条政子の名により田畑1町7畝を寄進しています。
以降社殿の造営が行われて別格の社となり、元禄10年(1696)以降は牧野家の崇敬が厚く、「風土記稿」には「山王社 村の鎮守なり」と記されています。
明治元年(1868)の神仏分離令により、現在の神社名「萩日吉神社」となりました。
 当社の本殿は、村内神社の中では最大規模であり、堂々とした荘厳な建物です。そのほか境内には境内社の八坂神社や神楽殿などがありますが、これらの建物を包み込むように広がる社叢は、
平成5年3月に県指定天然記念物に指定されています。神社入口には御神木の児持杉もあり、この杉に祈願すれば子供が授かるといわれ、近郷近在の人々より厚く信仰されています。
また、当社の使いである猿にちなみ、戦前まで流鏑馬祭りの日に「納め猿」という木彫りの猿像を神社の参道で売っていましたが、この納め猿とともに渡す縫い針も病気の治癒に効能ありと
言われていました。現在、1月の例大祭の日に本殿いおいて「納め猿」のみが有償で求められます。
平成17年3月           都幾川村教育委員




イロハ48石階段を登ります




イロハ48石階段を登り切ると一旦平場になりますがその先に二の鳥居があり、また階段です。
平場の左手には平忠魂社などがあります。




木製のだいぶ古い鳥居のようです  扁額の文字が読めなくなっています




二の鳥居の階段を登り切ると、また平場があり手水舎があります ここで手と口を清めて更に3番目の階段を登ります




漸く拝殿前に到着です




鈴を鳴らし、お賽銭を入れて(お賽銭は投げるものではありません) 2礼2拍1礼  と基本にのっとって




次から次と参拝者が・・・




許可を頂き拝殿内を外から




境内に建てられている「萩日吉神社の祭り」の説明板  こちらも文面を転記しておきます

萩日吉神社の祭り
萩日吉神社ではこれまで、1月15日、16日に例大祭、4月26日に春季大祭、10月17日に秋季大祭の行事が行われてきました。
1月の例大祭には、流鏑馬祭りと神楽が奉納されます。流鏑馬は馬を馳せながら弓で的を射る行事で、中世武士の間で盛んに行われましたが、
県内では現在毛呂山町出雲伊波比神社と当社の2ゕ所のみとなり、その貴重さが認められて平成17年3月に県指定無形民俗文化財に認定されました。
当社の流鏑馬は、天福元年(1233)に木曾義仲の家臣七苗によって奉納されたことが始まりと伝えられています。その七苗とは、明覚郷の荻窪、馬場、
市川氏、大河郷(現小川町)の横川、加藤、伊藤、小林氏です。現在は、三年に一度の1月第3日曜日、それぞれの郷から流鏑馬が奉納されています。
神楽は、昭和52年に県指定無形民俗文化財に指定されました。1月例大祭には小神楽が、4月29日の春季大祭には太々神楽が神楽殿で舞われ、
その厳かな調が神社の森に木霊します。境内社の八坂神社の祭礼は、7月15日に近い日曜日に行われます。神輿の渡御があり、氏子各組より担ぎ番、
行事、世話方が選ばれ行事を執り行います。この祭礼のとき、西平・宿地区では屋台囃子が奏でられます。また、西平・上サ地区氏子の行事として、
10月17日に近い日曜日に、ささら獅子舞が奉納されます。屋台囃子もささら獅子舞も、それぞれ村指定無形民俗文化財に指定されています。
平成17年3月            都幾川村教育委員会




神楽殿  行った時には残念ながら神楽の舞はありませんでした




境内社  これ以外にも数社あるようです
この境内社前にはテントが張られ、甘酒をふるまってくれていましたので、自身もいただきましが、寒い中、温まる1杯でした。




境内上から下を見るとこんな感じです





イロハ48石階段です 下から見た写真では緩やかに見えますが、実はこんなに急な階段なのです

登ってきたこの石段を下り、流鏑馬の行われる馬場へと向かいましたが、「夕まとう」の様子は別に投稿します。

参拝日:2017年(平成29年)1月15日(日)
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萩日吉神社流鏑馬祭り

2017年01月16日 | まつり・イベント


3年に1度執り行われる「萩日吉神社流鏑馬祭り」が、1月の第3日曜日である昨1月15日(日)行われましたので、
大河郷の当番家である加藤家から出陣して、ときがわ町西平の萩日吉神社に向かう一行を途中まで追ってみました。
上の写真は、加藤家から出陣する間際の神馬と乗子です。実は、出陣の模様を見るため加藤氏宅にお邪魔することと写真撮影の許可は
人を介して事前にとってありました。そんなことから、出陣前の儀式の写真も撮らせていただきましたが、いくら撮影許可済であり、
皆さんに解放された出陣模様ではありますが、一般家庭のプライベートや個人情報に触れることですのでこの1枚にしました。




加藤家を出陣した一行は県道11号線に出て東秩父村方向に進み、葉損回役員Y氏宅角で「ヒキメ」を。今回のコースは、木曽義仲の家臣の後裔とされる大河郷4苗のうち、
当番家を除く3苗のお宅の前を通りませんので、ここから他の後裔宅方向に「ヒキメ」を行いました。
ヒキメとは、飾りのついた的に弓の矢を「コン・コン・コン」と3(2?)回当てる儀式です。




Y家角を左折して槻川方向に向かい、突き当たったところで再び、他の後裔宅方向、氏神方向に「ヒキメ」




更に左折して川沿いをほんの少し進んだところの「日吉山王宮」前にて「ヒキメ」
社の周囲には沢山お木があったのですが、最近になって伐採されて現在家屋を建築中になっています。文句言える筋合いのものではありませんが、雰囲気が変わってちょっと・・・




日吉山王宮から今度は橋を渡って、日吉山王宮の川向うに。




日吉山王宮の川向うの堤で「ヒキメ」と「四方固め」を行います。
「四方固め」とは、中央と東西南北の四方に矢を放つことで、この矢を手に入れるとその家族が1年間幸福になれるということで競って拾いあいます。




対岸の日吉山王宮前には矢を拾おうといっぱい人が集まっています。川の中に落ちた矢を拾うために長靴を履いている方がいるのはいつものことです。




乗子の後は4苗や保存会役員の方が日吉山王宮に向かって何本もの矢を放ちます。
これが終えますと、松郷峠越をしてときがわ町西平の萩日吉神社に向かいますが、この途中においても数か所で「ヒキメ」、「四方固め」を行いながら向うわけです。
本当は一緒について行きたかったのですが、歩いてついて行くだけの体力もありませんでしたし、白いものも舞い始めましたので、松郷峠に向かう一行を見送って帰路方向に・・・
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マンホールサミット埼玉2017

2017年01月15日 | シンポジウム等


1月14日(日)、川越市のウェスタ川越において、「マンホールサミット埼玉2017 今日から君もマンホーラー」が開催されましたので行ってきました。

マンホール蓋の展示、マンホーラーによるリレートークやグッズ販売等多彩な企画でした。マンホールの蓋を楽しむことmは無論のこと、下水道についての理解を
深めていただこうということでもありました。参加者には、マンホールカードや缶バッジなどのプレゼントもありました。開場前から会場に行っていた方(自身もそうですが)、
マンホールカード(埼玉県広域下水道8種)を頂ける条件のリレートークの最終時間に訪れた方など様々でした。マンホーラーというと何かマニアックな気がしますが、
20年も前からマンホール写真を撮っているという大阪から来たという女性などマンホールファンが多いのには驚きました。近隣だけでなく県外から訪れた方が相当いたようです。
たかがマンホールの蓋と言ってしまえばそれまでですが、知れば知るほどマンホールだからと言うわけでありませんが奥が深い・・・




屋外の模様ですが、写真右側がマンホール展示場所  左側と手前がグルメの出店テント




県内50市町と埼玉県広域下水道8種のマンホール蓋が展示されていました。展示品のためカラーマンホールが大半ですが、実際にこうしたカラーマンホールが
設置されているのはごくわずかですから探すのは大変です。しかし、マニアの方は、どんなところにカラーマンホールを設置するかを推理できるようです。




皆さん一生懸命に写真を撮っていました。写真も撮り方があるようです。本来は展示品ではなく、実際に各市町に足で運んで撮るのが価値あるのかもしれませんが。




展示されていたマンホール蓋全部を紹介できればよいのでしょうが無理な相談ですので、代表して地元川越市のものを。




肉を焼いているこの鉄板 実はマンホールの蓋です。どこのかって、大阪市のもので、大阪城がデザインされています。




ウェスタ川越大ホールでは、午前中は埼玉県流域下水道50周年特別企画として、チアダンスや書道パフォーマンスなどが行われたようです。
階段を上がっ所に貼られた看板 高校書道部の方の手によるものと推測します。




通路・ロビーでは、下水道の碑作品コンクールの入選作品や・・・




埼玉の下水道フォトコンテストの写真展示。その他各種展示がありました。




姫路城をデザインしたマンホール蓋も展示されていました。




グッズも色々。Tシャツを始め、クッション、缶バッジ・・・




コースター、キーホルダー・・・煎餅もありましたし、その他諸々




午後はリレートーク
司会は、須藤櫻子さん(2016ミス日本「水の天使」) 栗原秀人さん(GKP企画運営委員会 副委員長)




マンホールGO!  でみずあきらさん(マンホールGO!管理人)




国際放送局の現場から世界へ発信! ほか  山本ミッシュエールさん(NHK国際放送局アナウンサー)




下水道って何だか楽しい!   若狭公一さん(埼玉県下水道局)




マンホール蓋を発掘せよ!   白浜公平さん(駅からマンホール管理人)
* この前にもう1名女性の方のトークがありました




続・アニメに登場するマンホール蓋   傭兵鉄子さん(マンホール蓋&腐食金属愛好家)




マンホールカードを極める! 山田秀人さん(GKP企画運営委員会 副委員長)

このトークが始まったころから、空いていた席が埋め尽くされました。理由は冒頭で書いた通りです。

なお、上記トークタイトルは一部省略してあります。




お帰りは、(左から)ウマニャンコちゃん、クマムシくん、さいたまっち、コバトンが見送ってくれました。ありがとう。
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講演会「戦国時代を生き抜いた武蔵の国衆たち」 

2017年01月14日 | シンポジウム等


1月13日(金)、国立女性教育会館 講堂を会場として、埼玉県立嵐山史跡の博物館主催による講演会「戦国時代を生き抜いた武蔵の国衆たち」が開講されましたので受講してきました。

この企画展関連講演会は、嵐山史跡の博物館において、昨年11月1日(火)から本年2月19日(日)まで開催の企画展「戦国を生き抜いた武将たち」の関連講演会で、昨年、受講応募してあったものです。
企画展については既に初日の昨年11月1日(火)に見学済みです(但し、その後の展示品入れ替え後は未見学です)。




会場である女性教育会館 講堂に入っていく受講者の皆さん




開講前の会場内 開講時刻が近づくにつれて席が埋まって行きます




講師 梅沢太久夫氏 (元埼玉県立歴史資料館館長)
歴史資料館とは嵐山史跡の博物館の前名で、梅沢太久夫氏はその歴史資料館の開館に尽力なされた方だそうです。




今回の資料です。武蔵の国衆と言っても数多くいますが、その中で松山城に関係の深い上田氏。太田氏を中心に講演をなされてくれました。
上田氏と言えば、自身も何度も行っている東秩父村の浄蓮寺と深い関係があり墓もありますが、そのことについても触れてくれました。




講演会終了後に嵐山史跡の博物館に立ち寄り購入してきた企画展「戦国を生き抜いた武将たち」の図録 (左)
講演会会場で販売していた講師梅沢太久夫氏の著書の中から購入してきた「関東争奪戦史 松山城合戦」 (右)




今回の講演会とは直接関係はありませんが、講師梅沢太久夫氏が元埼玉県立歴史資料館館長と言うことから、参考に歴史資料館当時のしおりを掲載しておきます。
歴史資料館が開館したのは1976年(昭和51年)ですが、このしおりは1982年(昭和57年)6月の訪館時にいただいたもの。現在の嵐山史跡の博物館となったのは2006年(平成18年)4月1日から。




現在嵐山史跡の博物館は「中世の歴史」に特化していますが、当時は、「考古」と「民俗」が主体でした。




女性教育会の庭には既に紅梅が咲いていました

聴講日:2017年(平成29年)1月13日(金)
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鳥よ鳥よ鳥たちよ

2017年01月13日 | 花・鳥・風景


鳥を撮るのに適したような大きなレンズは持ち合わせていません。また、三脚を持って散歩に出るわけでもありません。散歩道で見かける小鳥を散歩に持って出かける安いカメラと普通のレンズで撮るだけです。
思いっきりトレミングしてもこの程度です。鳥専カメラマンではありませんし、散歩の記録に撮っているだけですから・・・




どうにか鳥の判別が出来れば良しとしましょう。「シジュウカラ」のようです。名前が分らず帰宅後調べた結果ですが、多分あっているでしょう。




上の写真とほぼ同じですが・・・




こちらは「ツグミ」のようです。やはり帰宅後調べたのですが。




出来れば色々な角度から撮れればよいのですが、ちょっと近付いただけ逃げてしまいますので。




スズメはそれこそ逃げるのが早いうえに、枝や笹の陰に隠れてしまいますので・・・

以上3種類の小鳥は、川辺の散歩道10メートル範囲くらいに全部いました。

散策・撮影日:2017年(平成29年)1月12日(木)
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道の駅 和紙の里ひがしちちぶ Ⅱ

2017年01月12日 | 道の駅


「東秩父村和紙の里」が、昨年10月30日に埼玉県20番目の道の駅【和紙の里ひがしちちぶ】として登録されてから2ヶ月強。
登録以降も何度か訪れていますが、昨1月11日に新年初の訪問をしてきました。数年ぶりに展望台から全景を撮ってみました。




一応関東では7日で松が明けましたが、女正月・小正月まではあと数日あります。そんなことからではないでしょうが、繭玉飾りが飾られていました。
近郊で繭玉飾りを見られるのはここくらいになってしまったかも知れません。それとも今でも一部の農家ではやっているかも知れませんが。




昔見た繭玉飾りは紅白だけだったような気がしますが、記憶違いでしょうか。




農産物直売所の出入り口にも。でもこの日は定休日。




そういえば道の駅記念切符なんてものがあるのを見たことがありましたが、すっかり忘れていました。
「和紙の里ひがしちちぶ」での記念切符についてもここに来て初めて知りました。




折角ですから「記念」にと購入。マニアがいるんですね。4日目にして既に半数以上が捌けてしまったようで発行番号は???でした。
道の駅スタンプは、オープンの日にまだ出来ておりませんでしたので、数日してから行って押印してきたものですが、あわよくば
最初の押印かと思ったのですが、そんなに甘くはなかったようで、この時は既に何人も押印に来たあとだったようでした。何につけてもマニアは情報が早い。

訪駅日:2017年(平成29年)1月11日(水)
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「おんな城主直虎」を巡って

2017年01月11日 | エトセトラ


今朝の新聞記事です。おんな城主直虎を巡ってはまだまだ不明の点が多いようですので推移を見守るしかありませんね。

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