徒然幸せ日記

作者が日常の生活で見たこと、感じたこと、感動したこと!を書いています。
特に、「幸せ」とは何かについて考えています。

秋元康氏は本当に凄い人だ!

2017-09-18 09:45:12 | ひと
昨日の夜、NHKのBSプレミアムを見ていたら、たまたま秋元康氏が登場して、渡邉あゆみアナウンサーのインタビューを受けていた。23時~24時20分まであるかなり長い番組だったので、24時頃までしか見ていないのだが、その凄いと感じたところを紹介させていただく。(引用はウィキペディアから。かなり省略しています。私はウィキペディアに少ないながら寄付させていただいています)

1 秋元康氏について


秋元 康(あきもと やすし、1958年5月2日 - )は、日本の作詞家、放送作家、漫画原作者。中央大学文学部中退。
AKB48グループや乃木坂46・欅坂46のプロデューサーで、ほぼ全ての楽曲の作詞をし、番組の企画構成やドラマの脚本なども手掛ける。
東京都目黒区大橋に生まれる。サラリーマン家庭の2人兄弟の長男。
官僚志望で、開成中学を受験するも不合格、高校進学の際には親の勧めもあり中央大学附属高等学校に入学

(感想)開成中学に入学できなかったことが結果的に良かったということみたい。


2 高校2年生から放送作家としてデビュー


高校2年生の時の冬の夜、ニッポン放送『せんだみつおの足かけ二日大進撃!』を聴いていた際に何気なく、せんだみつおを主人公とした『平家物語』のパロディを受験勉強用に用意したノート20枚にわたり書き上げた(当時同番組には「せんみつ深夜劇場」という名作古典文学のパロディのコーナーがあった)。募集されていたわけではなかったが、同級生の薦めを受けそのノートをニッポン放送へ送ったところ、社員の亀渕昭信(のちに社長)と、大橋巨泉事務所の放送作家グループに所属していた奥山侊伸の目に留まった。このような経緯の後、ニッポン放送へ遊びに来るように言われ、出入りするうち奥山の弟子となり同グループに所属した。
中央大学文学部入学後、放送作家として活動を始めた当初は放送作家をアルバイトと考えていたが、当時のサラリーマンの4倍近い収入を放送作家業によって得ていた。しかし、本人はそれを「あぶく銭」だとしていた。「思えば、道草から始まった人生」と自身は回想している。

(感想)高校2年生から、才能を発揮してとんでもない収入を得ていたとは驚き。ウィキペディアでは本人が「あぶく銭」だとしていたになっているが、インタビューでは、秋元氏の父が「大学は中退しないで卒業して、ちゃんとした仕事につかないといけない。今成功しているのは長くは続かない。あぶく銭だ」と言っていたらしい。

3 作詞家へ

その後、放送作家業に物足りなさを感じていたこと、放送作家という職業の将来性に不安を感じていたところ、亀渕からPMP(後のフジパシフィックミュージック)の朝妻一郎を紹介され、それを機に作詞を手掛けるようになる。
アーティストに初めて提供した作品は、Alfeeのシングルレコード「通り雨」(1981年10月21日発売)のB面「言葉にしたくない天気」である。これ以降、作詞家としても活動開始。1982年の稲垣潤一「ドラマティック・レイン」、1983年には長渕剛「GOOD-BYE青春」で作詞家としての知名度を得る。

(感想)稲垣潤一の「ドラマチック・レイン」は先に曲があり、稲垣氏の声を活かし聞いた人に映像イメージが沸くようにとの思いで、作詞されたそうだ。ぴったりはまっているところが凄いなあ。

『ザ・ベストテン』、『オールナイトフジ』、『夕やけニャンニャン』の構成を担当して高視聴率を挙げる一方、さまざまなジャンルの楽曲の作詞を手掛ける。小泉今日子「なんてったってアイドル」、とんねるず「雨の西麻布」などの曲をヒットさせる。

1985年からは女性アイドルグループ「おニャン子クラブ」の楽曲を手掛けメンバーを次々とソロデビューさせ、その際に全楽曲の作詞・プロデュースを担当した。ただし、後に総合プロデューサーとして関わるAKB48とは異なり、「おニャン子クラブ」は『夕やけニャンニャン』という番組が最初にありきで、秋元自身は、おニャン子クラブについては共同作業であるとし、自分は仕掛け人ではないと説明している。
また、国生さゆりは「構成作家の秋元さんはスタッフの一員、いい意味で他のスタッフと同列だった」と述べている。1986年のオリコンウィークリーチャート52週のうち36週でおニャン子クラブ関係の楽曲が1位を獲得。1987年には長者番付の「その他」部門で16位(納税額1億61万円)となる。
1988年、おニャン子クラブのメンバーだった高井麻巳子と結婚。
同時に渡米してニューヨークに1年半ほど滞在した。帰国後、美空ひばりの遺作となった「川の流れのように」の作詞を担当。これによって作詞家としての地位を不動のものにした。

感想)1980年代から今のAKBに通じる路線で活躍されていたことを知る。また、美空ひばりさんの最後の曲になった「川の流れのように」を作詞し、ほめられたことで、作詞家としての自信がつき、職業は?と聞かれたら「作詞家」と名乗るようにしているということが印象的だった。

4 1990年代は充電期間

(感想)この時期、小室哲哉らのダンスミユージック全盛期となり、少し影が薄くなるが、それは、次の時代を見据えての充電期間だったようだ。歌詞がサウンドの一部になってしまうのではなく、もっと大事になることを予感していた。


5 AKB48の展開

2005年、東京・秋葉原で女性アイドルグループ「AKB48」を立ち上げ、総合プロデューサーに就任。
専用劇場で毎日公演を行う「会いに行けるアイドル」を標榜した。
当時の秋葉原は、社会現象を巻き起こしていた書籍・ドラマ・映画『電車男』において描かれた「美少女アニメ・ゲーム」「メイド喫茶」「リュックサックを背負ったオタク男性」のイメージで認識されていたため、AKB48も「アキバの萌えアイドル」といった地下アイドル的な位置付けであったが、10thシングル「大声ダイヤモンド」以降徐々に一般の人気を上げ、2010年以降はシングルCDにおいて100万枚を超える売り上げを記録するようになった。
2010年初頭、インタビューで秋元は「将来は国内7大都市に劇場を建て、選抜メンバーでJAPAN48を作りたい」と語り、実際に国内外に多数の姉妹ユニットを設立している(名古屋・栄のSKE48、大阪・難波のNMB48、福岡・博多のHKT48、インドネシア・ジャカルタのJKT48、中国・上海のSNH48、タイ・バンコクのBNK48。国内7大都市ではないが、2015年には新潟にNGT48、2017年には瀬戸内7県にSTU48が設立された。また、2012年には中華民国・台北にTPE48を立ち上げようとしたが、2016年現在実現していない)。
2013年、田原総一朗との対談の中で、将来的にはAKB48のプロデュースから退くことを示唆している。

(感想)AKBは高校野球の選手のようなものだったとのこと。その選手が甲子園(東京ドーム)めがけて練習する。観客はその過程を応援する。そして甲子園が終わったら、もっと大きなプロへの挑戦ということになる。(それが、センターとかの順位かな?)そうそう、AKBは東京乾電池とかのような舞台が好きな秋元氏が生み出した産物らしい。

以下は参考のために

◎ 人物
身長166.7cm。2001年3月に第1子(長女)をもうけている。

◎ 作詞家
作詞する際、通常タイトルは作詞を終えた後に付けるスタイルを採っている。例外として、美空ひばり「川の流れのように」はタイトルを先に決めて詞を書いた。AKB48や乃木坂46では、およそ1,000曲の中から楽曲を選び、アレンジが完成した段階から作詞を始める。
自身の作成した歌詞を「詩」ではなく「詞」と考えており、誰の口からその言葉が発せられるのかを念頭に作詞しているため、多少違和感があっても、耳に残るような歌詞や声のニュアンスを重視する。

(感想)とにかく、「聞き手に映像がイメージできるものがヒットする」という信念があるようだ。

作詞家として、シングルの総売上が、2013年2月27日付ランキングまでの通算で計506作品約6859万1000枚に達し、それまで1位(約6831万9000枚)だった阿久悠を抜き、作詞家歴代1位となった。うちAKB48が約3割にあたる約1998万7000枚を占めている。
作詞家として、100曲を超える作品がチャート1位となっており、作詞家歴代1位(チャート1位シングルを参照)。
AKB48とその姉妹グループ(派生ユニット)、乃木坂46とその関連グループ関連の殆どの楽曲の作詞を手掛けている。
作詞家として、これまで4000曲以上を世に送り出してきた。AKB48関連だけで700曲を超える(2012年2月現在、ステージ公演曲やシングルCD・アルバムなどを含む)。
作詞家として、最初にミリオンセラーを出した曲はとんねるずの「ガラガラヘビがやってくる」である。これを皮切りに、稲垣潤一の「クリスマスキャロルの頃には」、藤谷美和子・大内義昭の「愛が生まれた日」、乃木坂46の「サヨナラの意味」、「インフルエンサー」、「逃げ水」を作詞した。
最もヒットしたシングルはAKB48の「真夏のSounds good !」と「GIVE ME FIVE!」で、2011年に達成したミリオンセラーのベスト5「フライングゲット」、「Everyday、カチューシャ」、「風は吹いている」、「上からマリコ」、「桜の木になろう」の売り上げを超えるヒットとなった(2012年6月4日付のミリオンセラー、オリコン調べによる)。AKB48の3枚目のアルバム『ここにいたこと』もミリオンセラーの認定を受けた(総売り上げ:約125万6000枚 2012年2月1日現在)。

とんねるず、稲垣潤一、崎谷健次郎、石川優子、少女隊等に20曲以上提供する等、さまざまな歌手に詞を提供しメッセージソングやパロディソングのみならず、美空ひばりの「川の流れのように」のようなシリアスな楽曲も手掛けている。また月光恵亮プロデュース楽曲、真矢、猿岩石の楽曲とアニメソングの作詞を担当する際に「高井麻巳子は良妻」を捩った高井 良斉(たかい りょうさい)のペンネームを用いた。ただし、アニメ『機動戦士ガンダムΖΖ』、『蒼き流星SPTレイズナー』の主題歌、『ケロロ軍曹』関連の楽曲の作詞では、秋元康の名を使っている。
同い年で音楽プロデューサーとして同業者である小室哲哉とも親交が深く、やしきたかじんの「その時の空」で初の共作で楽曲提供した。
新潟県のテレビ局、新潟テレビ21のかつてのテーマソング「いとしのキャサリン」の作詞も手がけた。2014年現在までに作詞した作品では唯一の放送局のテーマソングである。
2011年度・2012年度のJASRAC賞で2年連続金・銀・銅賞の三賞を独占した。JASRAC賞での三賞独占は他に小室哲哉(1995年度)が達成しているのみで、2年連続は秋元が唯一となる。

◎プロデュース業、エピソードなどは直接ウィキペディアをご覧下さい。

全体の感想)
とにかく、「ほとんど寝ないでも過ごせる。前までは3日間徹夜しても大丈夫だった」というタフな所がまず凄い。
そして、放送作家や作詞家として成功しても、ニューヨークへ渡ってもう一度自分を見つめ直したりする謙虚な所が素晴らしい。「自分も大衆の一人」として、自分を大衆の上に見るのではなく、自分が面白いと思える企画をどんどん考えるとのこと。
1990年代にブームが変わっても、次の時代のブームを作る創造力。
今や100くらいの事業を並行して進めておられることの器の大きさに敬服する。


でも、そろそろ、AKB路線も飽きられそうなので、次の企画を考えてみられてはどうですか?
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