日本山城遺産 伝えて残して歴史を繋げる 三重を中心に徹底訪城 時々ノーマルカーダート 最後にセルフコラボレーション

崩れゆく山城を探索。一方ノーマルカーダートでチャンンピオンを目指す。最後にペン画でコラボ。はたして答えは何処にあるのか。

川俣谷の戦い

2017-06-17 21:03:30 | 古里の歴史

峯城遠景

 

かばただにのたたかい

 三重県松阪市飯南町から櫛田川を遡り飯高町に行きつくと川俣という地区がある。

 昔は櫛田川の上流部分のこのあたりを川俣谷(かばただに)と言った。

 そして、天正4年(1577)春の出来事であった。

 その前の年兄や親族を謀殺された弟北畠具親は織田信長の伊勢侵攻に奮い立った。

 北畠氏の恩顧諸氏のうち三瀬谷、初瀬街道筋、小倭はいち早く織田軍に挑むが

多勢に無勢ことごとく攻め落とされていった。

 最後に残ったのは川俣の谷深く籠った鳥屋尾氏、家城氏、峯氏、波多瀬氏、野呂氏、

滝野氏(注6)の諸将であった。

 北畠軍は森城(注1)に具親を迎え一同心を固く結び意気益々高まった。

 織田信雄軍は日置大膳以下、滝川、柘植、長野、本田、木造、秋山、沢、津川らが大軍を

率いて川俣の谷へ攻め寄せた。

 波多瀬城の波多瀬三郎、六呂木、山副(注7)は捉えられ櫛田川で磔にされた。

 日置大膳の弟・治部太夫は北畠軍の前方拠点である赤桶城(注2)、九曲城(注3)に夜襲を

掛けた。

 城を守る赤桶善四郎、粟野半六郎、田引家清らは良く戦ったが持ちこたえられず敗北した。

 次に多羅木峯城の峯筑後守時長(注4)と弟乙栗栖平八郎(乙栗子砦)(注8)も善戦したが力尽き自害した。

 大軍の信雄軍に川俣谷の各城は(注5)支えきれなくなり落ちて行った。

 家城主水祐之清は具親を脱出させるべく間道を伊賀へ向かわせた。主水祐はしんがりに立ち

追手を防いだが如何せん力尽き討ち果てた。

 具親は一先ず追手を逃れ安芸の毛利氏を頼って落ちのびた。

 森城が落ちるとともに信雄軍は最後に残った五箇篠山城の阿保、野呂一族を殲滅し、ついに北畠氏再興の夢ははかなく潰えてしまった。

 

 注1 森城 森城から蓮川を遡り山腹にある青田城が同時に落とされたと考えられる。

 注2、3 赤穂城 =閼伽桶城(閼伽桶善四郎)、九曲城(粟野半六郎)に加えて

   田引城(田引家清)も同時に落とされたと考えられる。

 注4 多羅木峯城 峯城と共に波瀬城も同時に落とされたと考えられる。現在は太良木

 注5 各城 富永館福本城を指していると考えられる。

 注6 滝野氏 現在の下滝野城主を指していると考えられる。

 注7 六呂木氏(六呂木城)、山副氏(霧館)の主と考えられる。

 注8 乙栗栖(古い表示) 乙栗子(新しい表示)

地図;https://www.google.co.jp/maps/@34.4154628,136.1618666,26801m/data=!3m1!1e3!4m2!6m1!1s1b9GNkmeDX4-9hNZxTF1K1sldMUw

 

 

伊勢新聞社刊 三重国盗り物語をベースに記述した。

上記に出現しない他の城を列記する。

 ・七日市城(角谷城)

 ・谷野城

 ・栃川城(和田丸城)

 ・滝野城

 ・高城

 ・上の原館

 これらは、川俣谷の戦いで関係する城ではないのかもしれない。別途、検証を必要とする。

 

 

 

 

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