戸木三城;戸木城、宮山城、城山城
城名 |
戸木城(へきじょう) |
住所 |
津市戸木町桃里 |
築城年 |
天文23年(1554) |
築城者 |
木造具政(北畠具教の弟で木造家へ養子)隠居所として築城 - 天正12年(1569)(子)木造長正が戦いの城に増強 |
形式 |
平山城 |
遺構 |
全壊(堀らしき片鱗が一部に残る) |
規模 |
東西160m |
標高 21m 比高11m |
城主 |
木造具政 - 長正 |
歴史 |
信長の侵攻を助けたのは皮肉にも北畠具教の弟であり木造家の当主木造具政だった。具政の謀反の真意は北畠一族の馬揃えにおける自分の順位の不満と、それをもとにした家臣の柘植三郎左衛門尉らがそそのかしたためだった。 |
経緯 |
天文23年(1554)木造家九代、具政が家督を長正に譲り、隠居所として造営し戸木御所と称された。 |
書籍 |
三重中世城館 |
歴史 |
天文23(1554)木造具政が戸木の地を隠居所とする。 |
永禄12(1569)具政・長正父子は、伊勢に侵入してきた織田信長から南伊勢の案内を頼まれて信長に属し、その後、北畠家を継いだ織田信雄に仕えた。 |
天正12(1584)豊臣秀吉と織田信雄+徳川家康の小牧長久手の戦いが始まる。秀吉側の蒲生氏郷軍らと対峙する。 |
戸木城の城主は木造具政の子、木造長正は戦いの城として増強・修復して完成していた。 |
5月、松ヶ島より転戦してきた蒲生氏郷隊は、戸木城ちかくの牧城を攻め落とした。川方城にもせまったが、戸木城より多数の援軍を入れていたために「益なし」としてこの場は引き下がり戸木城の東に陣を張った。 |
5月28日、雨の夜、蒲生隊はひそかに北側より川方城に忍び寄った。城の堀際まで進出してから時の声を上げ堀を乗り越えた。城方はあわてて対応するも蒲生隊の大群に対処できず戸木へと脱出した。 |
敵軍は北には家所帯刀、西には榊原形部少輔、東には蒲生氏郷、南には高野・日置・沢六郎・秋山左近大夫・芳野宮内少輔連合軍が陣を敷いた。 |
城中からはたびたび討って出たり須ケ瀬や八太まで刈田に出かけ大合戦となった。 |
中でも中川庄蔵(注1)は敵将蒲生氏郷とわたり合いその働きは目覚ましかった。(勢陽五鈴遺響) |
ここでの籠城は木造方将兵数百人で約六ヶ月にも及んだと伝えられる。 |
11月15日秀吉と信雄の間で小牧長久手の戦いの和睦が成立した。 |
翌年、長正は城を明け渡し員弁郡田辺城に移り戸木城は一時、現在の津市庄田町に勢力を持っていた中川庄蔵が預かっていたがまもなく廃城となった。 |
現地 |
昭和51年小学校建設にあたり発掘調査が行われた。 |
範囲は南端部で幅7.5m深さ2.8mに及ぶ大きな空堀や平面がコの字形の空堀が発見された。 |
城の南は断崖となり稲代川の水を谷にたたえ、東西を堀切北は沼地で宮山に番所を置く要害であった。 |
感想 |
南に崖面をもつ台状地で小学校建設のために南端部が開発された。ゆえにそれ以外の台状地は開墾はされたが崩されてはいない、と思われる。 |
現在、現地には台状地の下に小学校が建てられ記念碑も小学校の校庭内にあるが実は背後の台状地が本来の戸木城の位置であろう。 |
すると西側のやぶの中にある窪みはやはり西側を防御する堀の一部と思われる。前述の幅7.5m深さ2.8mという大きさも匹敵する。資料には遺構は見られないとあるがこれは戸木城の堀であると考えられ、城の東を走る道路も堀跡とすると東西を大きな堀で守備する堅固な城であったと想像できる。 |
地図 |