冷たい風のような火

メモ書きですが、それにしても何で公開の場で書くんでしょうね。

ボスニア・ヘルツェゴビナ

2018-05-19 18:40:39 | 社会
サッカーが好きな人はボスニア・ヘルツェゴビナという国があることは知っているかもしれませんが、多くの日本人にとってはあまりなじみのない国でしょうね。私も実際に訪れたことはありません。ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争やそれに関連するスレブレニツァ虐殺事件サラエボ包囲、人物としてカラジッチムラディッチ、民族を表す言葉としてチェトニクボシュニャクは知っていても、実際に訪れていないと感覚的に分からないことが多いのです。実際に旅行したことのある他の東ヨーロッパ諸国などとは違い、私にとっても本や映画からの情報に基づいた知識に頼っている国です。

で、思い返すと結構多くの映画を見ました。ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争関連、あるいはコソボ紛争関連で。今回はその中から2つご紹介。実は以前に別の作品を1つご紹介していますけどね。最近「サラエヴォの銃声」を見て思うことがあったので。


サラエヴォの銃声

大まかなストーリーはGoogle先生やAmazon先生にお聞きすると簡単に分かるので、ここではちょっと感想めいたことを。物語の中盤で、レポーターと大セルビア主義の男性がやりあうシーンがあったけど、その瞬間に映画に引き込まれました。一般的にPolitically correctなのはレポーターの主張であって、セルビア側は虐殺者として糾弾される側だったのがあの紛争。その歴史観に従うとしても、例えばこれを太平洋戦争の日本に置き換えたとして、多くの日本人はどう思うんでしょうね。当時の世界情勢からすれば中国や東南アジアに戦線を広げていったことは必然であり、そう仕組まれたんだと主張する自称愛国者もいるかもしれないし、そうは言わなくても東京裁判に正義はないと言う人は結構いるような気がするし、日本人だって戦争の被害者だったと思う人は多数派として存在しているような気がする。ボスニア・ヘルツェゴビナは民族的にはスラブ系が大半なんだけど、その中で大雑把に言うと宗教的にイスラム教徒のボシュニャク、正教会派のセルビア人系、カトリック派のクロアチア人系が分かれていて、それぞれ良かれと思って旧ユーゴスラビアから独立すべきとかすべきじゃないとかやり合って、そんな中で不信感から民族浄化合戦になって、終わってみても何が正義だったかは国連やアメリカ・EUあたりから押し付けられた感も残っていて、それぞれの言い分を腹割って言い合ったら今でも絶対的に平行線。そこで直接関係ないからと言って日本人の私が「客観的な」目で評価しようとしても無理~無理~と言うか空しいな感じで、だいたいサラエヴォ包囲は4年も続いて人口の3分の1が死んだとか言われている訳で、もう深く考えずに単に戦争はダメよとかいうレベルで合意できればいいのにくらいにしか感じられなくなっている自分の知性の貧困さに呆れる始末。
そんな複雑さを感じながら見ると深い映画だと思います。そんな複雑さがあるのに、偉いEUさん達はそんな話はともかくヨーロッパを哲学的に論じたり歴史イベントをやることに忙しくて、市井の人は日々の暮らしが経済的にも恋愛的にも家族的にもたいへんで、経営者も銀行もやくざも警察もそれぞれ自分の仕事に忙しくて、そんな中ちょっとした弾みに銃声が響くと背景にあった複雑さに点火して世界大戦になったりするんでしょうね。



サラエボの花

これはかなり前に見た映画。その時は正直言ってそこまで心に残った感じがしなかったのだけど、最近上記の「サラエヴォの銃声」を見て思い出して、今では両方一緒にして心に残った感じになっている。国家って(あるいは民族って)幻想よね。ベネディクト・アンダーソンを持ち出すまでもなく。あえて言えば、国家は制度なんでしょうね。民族の定義はさらにかなり難しい。そういう曖昧なものについて真剣に殺しあったりレイプしたりした結果の悲劇と、それを乗り越える話。そして、悲劇の側面よりもそれを乗り越える方に見る人も本当は焦点を当てるべきなのかもしれないのだけど、私としては悲劇の側面の喜劇性のようなものに気が向いてしまう。ここでも、直接関係ない日本人の私が「客観的に」見ようとしても無理なものが巨大にそびえていて、もう深く考えずに「何でそんなことになってるのよおかしいでしょこれ」とかいうレベルで終わらせたい気がしてしまう自分の根性のなさに呆れる始末。
真面目に見ると悲劇の大きさ(主人公達だけではなくて紛争全体の悲劇を想像するとなおさら)に圧倒されるので、そんな悲劇性と表裏一体のような喜劇性を感じながら見ると深い映画だと思います。そんな喜劇的悲劇の世の中なのに、食べていくための経済的環境についてはレベルの差こそあってもどこの国も似たような苦しさで、学校では子供達はどこの国でも似たような言い合いをしていて、悲劇のトラウマに苦しむ人はどこの国でも似たようなセラピーを受けいて、そんな中ちょっとした弾みに子供の喧嘩が本気モードになったりすると良かれと思ってついた嘘が破綻する時がやって来るんでしょうね。

日本、この70年は平和なんだと思いますよ。いろいろあっても世界レベルで比較すると平和と言わないと罰が当たる。それを認識した上で現実的な安全保障を考えるべきなんだろうけど、日本には日本の複雑さや喜劇的悲劇性があって、市井の人はやっぱり日々の暮らしに忙しくて、そもそもジャーナリストでも英語すらまともに使いこなせる人が少ないから国民全体的に国際感覚がヘロヘロで、そんな中にちょっとした弾みにアメリカの大統領がジコチュー決め込んだりするとにっちもさっちも行かないで国際的な発言力失うことになるんでしょうね。

「メタ倫理学入門 道徳のそもそもを考える」

2018-04-07 12:05:17 | 社会

メタ倫理学入門 道徳のそもそもを考える

この本、とても面白かった。倫理学の教科書なのかな。とても読みやすいけど。
私は経済や経営のど真ん中を勉強してアメリカで学位を取った身であり、キャリア的にも資本主義のど真ん中だと思うけど、アダム・スミス自身が元々は倫理学者だったってことを考えると、倫理学ってのは意外と身近であるべきものなのかもしれない。
それはともかく、この本では以下のような問題提起がされ、基本的にそれに対して異なる2つの考え方(およびその折衷案のような第3の道)が紹介され、どれが最も有力な考え方であるかというような一種の答えは用意されません。従って、メタ倫理学の基本的な問題意識がどのようなものであるかを理解できる上、それに対して専門家はどのように考えてきたのかがよく整理されていて無理に一つの考え方を押すようなことがないので、自分なりの考え方を発展させながら読み進めることができてとても面白いです。

メタ倫理学っていうのは、倫理学の中でも「何をなすべきか(なすべきではないか)」を論じるものや、それを受けて実際の場面で「こういう職業上の場面ではこうすべき(すべきでない)」などを論じるものではなく、そもそも「どうしてなすべきことやなすべきでないことが決められるのか」「そんなの本当に決められるのか」、みたいなレベルで倫理・道徳を考えるものです。

実生活の中でも、ある瞬間にある行動を取るべきかどうか考える瞬間はありますね。もちろん、本書の中にも挙げられるような例としての状況、例えば脳死状態に陥った子供の臓器を親として他人に提供するべきかどうか、などの難しい状況もそうですが、単にちょっとした嘘を言う、交通規則のようなものを破る、なども含めると、いろいろと道徳的な判断をしているのでしょう。日常的に。そして、それらの中には、本当は道徳的にあるべき行動や判断はこうである、とある程度分かるものもあるのですが、それが分かりにくいものもある。そして、そもそも何故ある種の行動や判断こそが道徳的にあるべき行動や判断なのか、それ以外の行動や判断はなぜダメなのか、こういうことを考えるのがメタ倫理学ですね。

そもそも倫理学ってとっつきにくいというか、学問領域としては自分にはあまり関係ないとか思うかもしれないけれど(私も昔はそうだった)、倫理学、特にメタ倫理学で問われることは哲学の王道というか、哲学が千年単位で考えてきたことと重なりますね。例えば、
・道徳的な真理はあるのか、道徳的な問いに対する答えはあるのか
・倫理的な判断とは何か
・道徳的な真理は認知できるのか
・そもそも道徳的に行動しなければならないのか
などなど。こうしたことに対して、本書では以下のような立場が解説されていきます。

A1) 道徳的真理・事実は実在する。絶対的なもの、普遍的なものである
A2) 道徳的真理・事実は実在しない。相対的なもの、人それぞれ、文化それぞれなものである

B1) 道徳的真理は自然科学的なものとして説明可能である
B2) 道徳的真理は自然科学とは異なる次元のものとして説明されるものである

C1) 道徳判断とは、道徳的事実を認知し、それに基づく信念を形成するものである
C2) 道徳判断とは、道徳的態度を表出するものである

私の昔からの問題意識というか、自分の頭の中での整理は以下のようなものでした。もちろん、私はメタ倫理学の専門家ではないので、これまでに哲学に加え心理学とか大脳生理学的なものに関連する書籍から得た知識も交え、自分の生活体験に立脚して得た考え方です。
・道徳的な真理はある。それは、絶対的な善悪で示され、人の脳にはそれを判断する機能が生まれながらに備わっており、自然科学的な知識の増加に補助されて判断能力は広がる
・一方、普段の生活の文脈においては、その社会的文脈における真理が道徳的な真理とは別に存在する。それは、正誤で示され、人の脳はこれを社会的な交わりの中から経験的に学んでいく
・生活の中では、往々にして道徳的な真理と社会的な文脈における真理が一致しない。というか、上記の善と正、悪と誤が一致しているならいいのだが、善が誤、悪が正の場面に遭遇することが結構ある
・その際、善悪と正誤のどちらを選択するか、我々は意思決定しなくてはならない。これが道徳的な葛藤である

こうした自分なりの考え方があれば、それとメタ倫理学の様々な学説と言うか考え方と対比させることによって、さらに深く思考を掘り下げることができてとても面白いです。
実用書やビジネス書に飽きた時には、この本、とてもよいリフレッシュ読書になるのではないでしょうか。

AIは政治家の代替として利用するのがいいと思う

2018-01-11 18:04:37 | 社会
AI関連の記事が毎日たくさん。人間の仕事を代替するなら、政治家を代替してもらいたい。経済指標や社会統計、世論調査の結果やいろんなビッグデータ、そして国際統計や国際情勢についての情報をインプットして、必要な政策の優先順位付けと予算配分、あるべき税・社会保障費、国債の内訳の計算などやってもらう。決めてもらう。コンピューターの得意とするところでしょう。明らかに機能不全の政治、日本だけではなくて世界的に、これをAI様にお任せするのがいい。

もちろん、これの意味するところは民主主義の放棄。でも、どうせ民主主義は終わってると思う。選挙して政治家を選ぶだけの民主主義じゃなくて、リベラルデモクラシー、自由民主主義の話だけど。民主主義という言葉だけなら、北朝鮮もロシアも中国もジンバブエもベネズエラも民主国家をうたっているし、実際に選挙もある。要は、リベラリズム、つまり個人の自由権を重視することが大事。そして、その自由を謳歌する個人が責任を持って公共の利益のために参加する政治体制としての民主主義が自由民主主義なのだと思う。これは壊れた。リベラルが行き過ぎて、自由権とかいう話とは関係ないくらい我儘で強欲でジコチューになったから。ジコチューを正当化するための詭弁の嵐。それを詭弁と指摘すれば、寄ってたかって皆でそれを攻撃する。こうなると当然トランプ政権も出てくるし、アメリカなんか今後25年くらいのうちにジコチューのあり方によって4つくらいに分裂してもおかしくないと思う。リベラリズムが上手くいかないと、そもそも共和制が上手くいかないから、民主主義なんて形だけ、選挙があるだけになる。

リベラリズムを前提にした形では上手く民主主義を機能させられないなら、指導者(指導層)にある種の強権を認めることで中国やロシアのような強権制民主主義というか全体主義の香りがするシステムにするのも一つのアイデアではあると思う。でも、しょせん誰がリーダー(リーダー層)でも愚かな人間のやることなんか合理的ではないなので、AI様に政治は導いていただく方がよさそう。

登山してゴミ拾う

2014-09-01 22:46:50 | 社会
エベレストや富士山がゴミで溢れてるんで、ゴミ拾い登山とか行われてますね。大きなゴミ袋担いだ体力ある登山家とかボランティアがゴミ拾い。

私、そんなに体力に余裕ないし、自分の荷物だけでザックはいっぱいなので、山行中にゴミ拾いをボランティア的にやるのは無理です。正直言って。
しかし、今年に入ってからのあらゆる登山、つまり雪山も奥多摩ハイキングも、早池峰のような高山植物だらけの美しい山も、甲斐駒や穂高岳などの夏山高山も全てですが、何らかのゴミ拾いをするハメになっています。
登山道に堂々と落ちてるので。飴の袋とか、一口サラミの包み紙とか、何かよく分からないプラスチックとか、穂高の時なんか缶コーヒーの空き缶2本とか。目の前に出てきたら拾うしかないでしょ。こっちがゴミ拾いやる気満々で探して見つけるんじゃないですよ。バッチリ落ちてるわけです。
小さいゴミであれば自分のゴミを入れる袋に一緒に入れて持ち帰ります。缶コーヒーの空き缶は、岳沢小屋まで持って行って事情を話し、引き取ってもらいました。無駄な重量&スペースを取る空き缶を持って縦走するのは、自分のリスクを高めることにもなるので避けたかったから。

日本人のモラルは中国人のモラルとは別次元とネトウヨが言う。へえーそうかね。

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登山の準備と危険回避

2014-08-31 15:22:49 | 社会
登山を始めてから2年目で、それまであまり運動していなかった40代が単独行で前穂高岳~吊尾根~奥穂高岳の縦走をしたわけですが、この数年登山初心者の遭難が多いというニュースや山小屋関係者の苦言などを見るにつけ、ちょっと思ったことをメモ。
と言うか、このブログを見て簡単だと思って同じような中年の単独行での穂高岳挑戦とか増えると恐いので。
会社の人からも、まだ死なないで下さいとか言われて送り出されたことから分かるように、ちょっと間違うと遭難事故に陥る山域でしょう。
そこで、参考までに私の準備をメモしておこうと思った訳。
ちなみに私、性格的に無謀な登山はしません。全て単独行で、登山開始して直ぐに雪山に登ったり2年目で穂高岳に行っているので、それだけ見たたら無謀に見えますが。実際には、恐らく普通の登山者よりも準備にエネルギーかけてます。

A. 知識
・地図は読み込む。等高線の配列やコースタイム、前穂で言えば「カモシカの立場」などのチェックポイントの位置などは、出発時には頭に入っている。岳沢小屋から紀美子平までの40%くらいの位置だということなど。
・ウェブをフル活用して登山道の情報を集める。効果的なのは、「日本アルプス登山ルートガイド」というウェブサイト。主要な山のルートを写真付きで紹介しているので、事前にイメージトレーニングできる。ルートの難易度も主要な難所の攻略法も示されているので使える。これとブログやヤマレコでの皆さんのレポートを合わせれば、自分に近い年齢の登山者や、登山時期の似ている例のことも勉強できる
・遭難のケーススタディ、低体温症の仕組み、応急処置のやり方など、最低限の知識は雑誌の記事やウェブで十分勉強できるので、それくらいはやっておく。変な話、登山始めてからサバイバル知識がだいぶ上がりました。大地震などの時にも使えると思います

B. 体力
・外資系企業でそれなりのポジションにいるので、平日ジムに行くような時間に恵まれるほど暇ではない。つまり、土日に鍛えるか、平日でも寝る前15分くらい筋トレ頑張るくらいしかない。これは結構たいへんで、実際には一朝一夕には体力上がらない。しかし、できる時に少しでもやっていると、1年程度とはいっても体脂肪率も落ちるし筋肉も増える。と言うか、それまで使ってなかったところに筋肉つく。一番効果的なのは、できるだけ連続で2週に1回程度は登山またはハイキングすること。新緑の頃からやっていると、夏山のシーズンにはそれなりに体が慣れている。今年の春まで高層マンションに住んでいた時は、雪山に行く前にテント泊装備13Kg程度を背負って非常階段を上り下りして鍛えた。実際には雪山ではテント泊しないけど、雪山単独行は恐かったので体力だけはつけようとした
・で、私の意見では、問題は体力そのものよりも自分の体力についての理解と判断。例えば、奥多摩を歩いた時の感覚から何時間くらいなら全力で(早足で)歩けるのか考えたり、テント泊装備と普通の装備を背負った時の体の動きの差からテント泊にするのか小屋泊にするのか考えたり、それまでに登った山でかかった行動時間とその時の疲労度から次の対象となる山のコースでの疲労度を予想したり
・この理解と判断がないと、単独行で長距離のコースとか岩場の危険なコースとか予定組めません。穂高の時も、小屋2泊で吊尾根 & 重太郎新道登りだからGo。1泊で強行しても行けたかもしれないけど危険度が高くなると思われたし、テント泊は体力的に無理。南北アルプスで3泊とか4泊とかするコースも、その多くは単独行では体力的に危険度が高いと判断。来年はもしかしたらもっと長い縦走に挑戦するけど、それも体力的な自信がつくことが前提。やってみたら意外とできた、というのは、やってみたらダメだったというのと本質的に変わらないと思っている
・例えば、今回の穂高岳の場合、その2週間ほど前に行った甲斐駒ヶ岳と仙丈ケ岳の時の感覚が大事だった。これで自分の体力の目安がわかったし、体慣らしという意味でもこの南アの山行は大事だった。

C. 技術
・山岳会に入ったり、アウトドアショップの講習会に参加するのが本当は王道と思う。しかし、単独行をしていることから分かるように、人と交わるのが極端に苦手なので、これは難しい
・しかし、今どきウェブとYouTubeで相当勉強でき、それを比較的レベルの低いコースで試してみることで練習もできる。例えば、雪山の登り方・下り方やアイゼンの使い方は、赤城山をゆっくり登る&谷川岳の天神尾根コースで実践することで比較的簡単に身についた。雪山で汗をかかずに登るのは下手なままだけど
•岩稜も、三点支持や鎖場のコツなど、仕入れた知識を八ヶ岳や宝剣岳などで試して慣れていった。岩場と言ってもレベルがあるので、大キレットとかバリエーションルートとか無理ですが。それらは独学では5年、10年かかるような気がする
・あと、技術は基礎体力がないとどうしょうもないことが多いと思う。例えば、道ともいえないようなガレ場で落石を起こさないように & スリップしないように慎重に歩く(特に下る)というのは、足運びの技術というよりも確実に体を支えて足を運ぶ体力が大事だと思う。体力が弱かった昨年は、八ヶ岳の赤岳や阿弥陀岳を下る時に腰が引けたし落石を起こしそうで恐かった。でも今年の前穂から紀美子平とか奥穂のザイテングラートとかの下りは、コースとしては難しくなってるはずなのに相当余裕があった。感覚としては、技術より体力の問題と思う
・登山計画作成は大事な技術と思う。1日の行動時間を考えて現実的な計画を立てるとか、体調や天気の状況から計画を柔軟に変更するとか。穂高の時は最終日に雨が予想されたので、予定を変更して2日目の行動時間を多くして(体調もよかったので)涸沢まで下りた。3日目の雨の中でザイテングラートを下るよりはリスクが少なかったと思う
・このところ夏山で感じるのは、歩くペースの配分と水分補給のタイミングは大事なスキルではないかということ。例えば、キツいと感じたら無理しないようにとか言われるけど、実際には早朝とか体が動きにくいと言ってノロノロと休み休み行ってもダメで、ペースは上がらなくても亀のように着実に一定時間以上体を動かすことで体が慣れてくれる。体調を理解してペース配分できる技術は必要と思う

D. 装備
・無駄なお金はかけないが、買ったものは事前にちょっと使ってみたりして確実に性能を発揮できるようにする。間違った使い方をしないようにする
・ヘルメット(格好いいデザインや色よりも質を重視)やアイゼン(初心者でもあえて12本爪)などは、2人以上で行くならもう一段下の装備でもいいかもしれないものも、単独行であることを考えて投資を惜しまない
・食糧は重すぎても困るが、Soyjoyのような腹にたまる行動食を多めに持っていくなど工夫する。ルート的に山小屋を活用できる場合は、何を自炊して何を購入するのか計画しておく

穂高の縦走中もですね、私も初心者の域をやっと出るか出ないかのレベルなんで言いにくかったですがね、思わず注意したり注意まではしなくてもマジマジと見てしまったのはいましたよ。
・高齢の単独行者で、なんと吊尾根の南稜の頭付近でストックを使って難儀している人。急な岩場でストック使っちゃ危ないでしょ。その年でその程度のことも判断できない経験量で、穂高の縦走に挑んじゃダメでしょ。
・トレランでザイテングラート下ってたカップル。周囲にも迷惑でしょ。落石起こさなかったのはラッキーなだけでしょ。
・明らかに私よりも体力ない感じで同じルートで私に追い抜かれていた中年単独行の人が、涸沢岳から北穂高岳への上級ルートに向かっていったり。無事縦走したとしても、あの時間であのペースだと北穂高小屋に何時つくのか。さらに翌日の雨の中で下るのに不安はないのか。

一方で、涸沢ヒュッテでご一緒した高齢の方とその息子さんは、奥穂高に挑戦するのは3度目でこれまでは山頂に立っていないということで気合が入っていたのだけど、翌日は雨だったから無理しないで上高地に下山してました。素人登山者こそ、こういう判断できないとまずいでしょ。そりゃ、雨は降っていたけど風は弱かったので頑張れば登頂できた可能性もあったとは思いますけどね。でもリスク・リターンプロファイルが悪すぎるでしょ。そして報道されたように、あの週は穂高連峰で何件か遭難、死亡事故がありました。

まあ、私自身は実際には厳しいルートの登山が始まったら人の心配している余裕はないから、今年の雪山や来年の夏山に向けて自分の体力強化と現実的な登山計画作りに集中しますが。
岳沢小屋で会った山岳警察の人、かなりたいへんな仕事よね。

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冷たい風のような火を燃やすものたち

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