表現の不自由、不寛容、窮屈さを感じる日々が続いております。
それで、こちらの更新がまったくなされない状況でいるにもかかわらず
どうしてこんなにアクセスしてくださっているのか、
よくわかりませんが、お時間をつかってお立ち寄りいただき、
心からお礼申し上げます。
(最近考えた、およそ、どうでもいいこと)
今、自分がする行為というのは、どうやって決定されていくのだろう。
決定というところには、自分の意思によるところと、余儀なくされるところがある。
余儀なくされているように見えて、実はそうでもないこともある。
余儀なくされていると、自分に言い聞かせているところもある。
くわえて、自分の意思によるところの部分を詳しく考えると、
自分が生きる残り時間というものを、どれぐらいの長さだと考えるかによって
その選択って、ものすごく違ってくるのではないか。
それとも、そう思うことは、実は大きく外れてしまっているのだろうか。
田舎のそのまた田舎に行く機会が増えて、その通りを車でゆっくり走る。
農具を背に、夕日を浴びながらゆっくり歩いていく人、
養殖の浮きを干す裏庭
背中をまげて、狭い国道の、さらに狭い車道際でバスを待つ老婆
ヘルメットをかぶりながら、火山灰の降る中、通学する小学生
時化の海を背後に、船底のペンキ塗りをする男たち
どんな小路にいっても
そこは、どこかひっそりとしていて
だけれど、人間の営みというのが、強烈ににじみ出ていて
自分はそこにいるのに、いないような感覚を持たされる
そこに生まれてきて、そこでずっと暮らす
そういうことと無縁に生きてきたからか
ただそこに身を置くだけで、
胸の底が、ざわざわしてくる
この場で生き続けた人の、営み、考え方、物事、人への対処法というのは
この場でかたちづくられてきたものだ
この場で得られるちえ、知識、風習、そういうものから
その人の考え、身のこなし、人とのかかわり方も、ほぼつくられるものといっていいのだろう
だから、私がそれを知りえなかったり、理解しにくかったりするのと同じように
その場にいる人が、そことは違う考え方のある人を、批判したり、無視したりしても、ある意味仕方のないことなのではないだろうか
それを、仕方ない、では済まされない、とライン引きすることができるのは、
どういう場合なのだろう。
ひっそりとした佇まいの、人がいるのかいないのかわからないのに
そこにぶらさがる網や、浮き、そんなものを眺めていると
窓の向こうから、こちらをじっと息をのみながら観察されているような気もしてくる。
もし、私がここで生まれたら
わたしは、どうなっていたのだろう
そこに生まれ落ちたから
そこでやることを与えられているのかもしれない
そんなことをぼんやり考えながら
それで私は、
いったい、どんなところに生まれ落ちたというの
と、この年になってもまだ考えてる。
これを幸せと考えていいのやら、おめでたいと考えていいのやら
その両方と考えていいのやら。。。
それで、こちらの更新がまったくなされない状況でいるにもかかわらず
どうしてこんなにアクセスしてくださっているのか、
よくわかりませんが、お時間をつかってお立ち寄りいただき、
心からお礼申し上げます。
(最近考えた、およそ、どうでもいいこと)
今、自分がする行為というのは、どうやって決定されていくのだろう。
決定というところには、自分の意思によるところと、余儀なくされるところがある。
余儀なくされているように見えて、実はそうでもないこともある。
余儀なくされていると、自分に言い聞かせているところもある。
くわえて、自分の意思によるところの部分を詳しく考えると、
自分が生きる残り時間というものを、どれぐらいの長さだと考えるかによって
その選択って、ものすごく違ってくるのではないか。
それとも、そう思うことは、実は大きく外れてしまっているのだろうか。
田舎のそのまた田舎に行く機会が増えて、その通りを車でゆっくり走る。
農具を背に、夕日を浴びながらゆっくり歩いていく人、
養殖の浮きを干す裏庭
背中をまげて、狭い国道の、さらに狭い車道際でバスを待つ老婆
ヘルメットをかぶりながら、火山灰の降る中、通学する小学生
時化の海を背後に、船底のペンキ塗りをする男たち
どんな小路にいっても
そこは、どこかひっそりとしていて
だけれど、人間の営みというのが、強烈ににじみ出ていて
自分はそこにいるのに、いないような感覚を持たされる
そこに生まれてきて、そこでずっと暮らす
そういうことと無縁に生きてきたからか
ただそこに身を置くだけで、
胸の底が、ざわざわしてくる
この場で生き続けた人の、営み、考え方、物事、人への対処法というのは
この場でかたちづくられてきたものだ
この場で得られるちえ、知識、風習、そういうものから
その人の考え、身のこなし、人とのかかわり方も、ほぼつくられるものといっていいのだろう
だから、私がそれを知りえなかったり、理解しにくかったりするのと同じように
その場にいる人が、そことは違う考え方のある人を、批判したり、無視したりしても、ある意味仕方のないことなのではないだろうか
それを、仕方ない、では済まされない、とライン引きすることができるのは、
どういう場合なのだろう。
ひっそりとした佇まいの、人がいるのかいないのかわからないのに
そこにぶらさがる網や、浮き、そんなものを眺めていると
窓の向こうから、こちらをじっと息をのみながら観察されているような気もしてくる。
もし、私がここで生まれたら
わたしは、どうなっていたのだろう
そこに生まれ落ちたから
そこでやることを与えられているのかもしれない
そんなことをぼんやり考えながら
それで私は、
いったい、どんなところに生まれ落ちたというの
と、この年になってもまだ考えてる。
これを幸せと考えていいのやら、おめでたいと考えていいのやら
その両方と考えていいのやら。。。
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