いっちゃんのよもやまばなし

ユートピア活動勉強会で使用した政治・経済・歴史などの書籍やネット情報、感想などを中心に紹介します。

これからはインド、という時代 日下 公人 森尻 純夫 著

2016年07月23日 14時57分54秒 | 書籍の感想とその他
日下公人氏とインドの地方大学で教鞭を執る森尻氏との対談を書籍化したもので、読み直してみると現時点でも重要な情報が満載の書籍です。



インドは脱社会主義として先進国であると日下氏は見立てています。数学頭脳を持つが、理性偏重の社会主義計画経済を捨て去ったのは。ベルリンの壁が崩れた時期と重なります。インドは戦後40年の歳月をかけて植民地時代の負の遺産であった食糧危機・飢餓から脱し、同時に外貨準備高はゼロとなってしまった、しかし核は既に保有していた。

インドは射程5000kmのミサイルであるアグリ5の開発に成功し、某国を意識した空母の導入など対称戦略を着実に実行しています。日本では報道されませんが、同国とパキスタンは良好な関係になりつつあり、仮想敵国の最右翼は中国になりつつあります。インドは現実主義の国家であり民主主義の国家なので、同国と手を取り合うのは当然とも言えます。

インドで一挙にサービス産業が花咲きました。ことに、IT(インターネット)の進展が大きく貢献したのは事実ですが、見逃すことができない大きな要因がもう一つある。それは州の地方大学設置と州の言語による教育を認めた教育改革である。公立学校から大学への進学が一挙に進んだことが、同国のIT産業やサービス産業の大躍進に繋がったそうです。

インドの言語は学者レベルで判明しているのが150種類、1000万人が使用している言語で20種類も存在しています。同じ州の中でも共通語のヒンディー語を介して会話ができないことがあり得えます(普及率は48%)。インドの民主主義はこの多様性を受容することから発展してきました。

州は力を持っています、そして製造業は州の大都市周辺における中堅都市において発展が見込まれています。日系企業はデリーに閉じこもってはいけない、サムソンの進出を気にするのではなく、インフラ整備への協力が期待されています。

インドほど日本と利害が衝突しなくて、対日感情の良い国はありません。ミャンマー、マレーシヤ、インドネシア、ロシア、モンゴル対日感情の良いこれらの国を友達にすることが国益に繋がります。


以下にプロローグを引用します

プロロ―グ 日本人が知らないインドの実像

驚異的な経済発展の二つの要因
日下 今年(2012年5月6日)のフランス大統領選挙で、社会党のフランソワ・オランドが大統領になって、もう一度、世界中が社会主義になるのではないかと心配です。社会主義になると、それが全体主義になる。そういう政府は財政赤字になって、政府の寿命は案外短くてひっくり返るものです。
しかしインドは、少し以前に脱社会主義へ方向転換しているから、欧米や日本よりもむしろ先進国で、そのことをインドが世界中に教えることになるだろう。振り返って日本を見れば、このまま民主党は続かないだろうが、社会主義をやろうとしている(笑)。
世界の多くの国が民主主義になって、社会主義化していき、国が壊れそうになっているのが現状です。フランスも、オバマのアメリカも日本もそうです。中国も、いまどうするかという状態になっています。
そういう情勢の中で、インドに一番詳しい森尻さんにお話ししていただきましょう。

森尻 現代インドの経済発展は奇跡のようだといわれています。
その原因は大きく二つあると思います。インドは1989年に、外貨準備高がゼロになってしまった。戦後社会の中でも外貨準備高ゼロなんていうのは破綻国家だと思いますが、インドはそのときすでに原子力兵器を持っていました。インドは1974年に、原爆実験をやっています。この原子力兵器をすでに持っていたということが一つです。
それでいて外貨準備高がゼロになってしまった。それは、いわゆる計画経済政策で、社会民主的なやり方でやってきたインドの破綻だったと思うんですね。それがいまや2490億ドルもありますから。
もう一つは教育改革です。ラジーヴ・ガンデイー(1944 ~ 1991年、母親が暗殺された後、40歳でインドの首相となった。インド第九代首相[1984-1989年]。 母は第五代、第八代首相だったインディラ・ガンディー)が教育改革を提唱したのです。 この教育改革の成功が大きいのです。

150以上の言語があるという国家の事情
森尻 教育改革を提唱したのには、いろいろな事情があるのですが、一番大きな事情は言葉です。多くのインド人にとって、小学校一年から習う国語、すなわち国の公用'語であるヒンディー語は、はじめて出会う外国語なのです。日本でいえば、選択第二外国語です。ヒンディー語を自分の言葉として話す、つまり母語とするのは、約48%に過ぎません。それでも、現代、かなりシェアが上がってきている。その結果で、この状態です。インドには、日常生活で使われる言語・母語は研究者が確認したのだけで150以上もあるといわれます。昨年、東北山間部であらたな言語を話す村が発見されました。80数人の人びとが、この未知の言葉を話していました。
ヒンデイー語以外に、各地域では、たとえば母語とする人の数が多い順でいえばテルグ語、べンガル語、タミル語、マラーテイー語、ウルドゥー語、グジャラート語、カンナダ語、マラヤラム語、などなどです。この他にオリヤー語、パンジャーブ語、ボージュプリー語、マイテイリー語、アワデイー語、アッサム語、ハリヤーンウイー語、マルワーリー語、チャッテイースガリー語、マガヒー語、ダッキニー語と一千万人以上の人びとが話す言葉が二十もあるのです。

日下 お札にはそれら多数の言葉が印刷されているんでしたね?
森尻 そうです。1947年、独立した当時、大インド共和国には20に満たない州があり、それで、1980年代末まで流通したお札には13の州公用語が刷られていました。現在の新紙幣には15の言葉で金額が書かれています。それに英語も表記されています。
インドがイギリスから独立したとき、各州は一つの言葉に統一しようというのがポリシーだったのです。すなわち、一つの言語を州の公用語にし、行政単位にしようという訳です。ところが、たとえば、わたしがいるカルナータカ州では、四つの言語が流通しています。そのために、子供が六歳で公立小学校一年生になって教わるのは州公用語のカンナダ語なのですが、なじめない子供がたくさんいる。いちばん違くにあるのはヒンディー語なのです。ほとんどの子供たちは、それまでは地域の言葉で暮らしているのですから、ヒンデイー語などは知らないわけです。  ラジーヴ・ガンディーは、「自分の州の言葉で大学をつくっていい」という政策を提議しました。これで、はじめて公教育において、初中等から高等教育までの一貫性が成立したのです。
いわゆるイギリスの認可をもらった、マドラス大学、カルカッ夕大学、デリー大学などは、いまも中央大学として残っています。さらに、1970年代になって、人ロによって、各州に三っから四っの地方大学ができたのですが、それら大学がその州によって、自分たちの母語で教育していいということになったのです。

飢えがなくなって教育に目が向いた
日下 それは非常に大事なことですね。その教育改革はいっ頃からですか。
森尻 1970年代から、初等教育への市町村の参画とか、地方大学の設置など、何度かの改革がおこなわれました。しかし、なんと言ってもラジーヴ・ガンデイーの提唱を、彼の暗殺後を引き受けた政権が、強力な実行力で推進しました。野党政権でもその政策は変えなかった。91年頃には現在のような体制が完了しています。
1951年に、言葉と州を一っにしようとしたわけですが、四十年かかって、本来のものに戻したということになります。それをやったのがラジーヴ・ガンデイーだったのです。
日下 えらい人だ。
森尻 えらい人です。ところが彼は、インドが軍事介入をしたことへの遺恨もあったのですが、この政策が嫌われて、スリランカのタミール語族に暗殺されてしまった。 インドが多種多様多言語国家であるということを認めると、パキスタンやバングラデシュやスリランカは困るからです。なぜかというと、自分たちと共通言語を持つ人がインドに出てくると、自分たちのナショナリズムが損なわれると思ったのです。これは、実は、周辺国には深刻な問題なのです。
スリランカでは、いまでも尾を引いていろんな問題を起こしたりしているのですが。 とにかく、ラジーヴ・ガンデイーはそれで暗殺されてしまった。
この教育制度改革は、インドから飢えがなくなった時期と重なっていたのです。1989年に、インドには外貨準備高がなくなったのですが、農業政策が成功して、飢えはなくなった。何度かの土地解放があったりして、非常に小さい農家ができたりしたこともあるのですが、農業の生産性が上がったのです。
みんなが食べることができるようになって、はじめて子供の教育に目が向いたのです。そこで子供たちを大学など高等教育に進学させるようになった。
日下 べルリンの壁が壊れて(1989年11月)束西冷戦が終わった頃だ。
森尻 まさにそうです。そのときにインドは、社会民主体制ではだめだということを悟ったのです。
そして、教育改革が実行されて数年後の1996年にはIT戦士がNASAに送り込まれています。いかにインドが欲求不満で、内包する底力を蓄えていたかがわかります。そういう時代が来ることをみんな待っていたのです。
日本人の人口に匹敵する数のインドの大卒者
日下 人口が十億人以上もいれば、優秀な人がいっぱいいるわけだ。
森尻 そうです。数学教育などは、もともと小学校のときからかなり高いレベルですから、その下地の上に教育改革があった。
公立学校から大学に入った子供は、英語があまりできません。ですから、英語で受ける大学の授業は大変でした。教育改革で、大学の授業を自分の州の言葉で受けられるようになったので、建築士などのライセンスを取りやすくなった。ライセンスを取ってから、英語やヒンディー語を学べばいいわけです。
普通は、言語を統一して教育することが先ですが、インドは多言語なので、それがうまく機能しなかったのです。逆に、各州の言語で教育をしてもいいということになった途端に、教育レベルがドーンと上がったのです。
日本では、明治以降そうですが、ことに大正から昭和にかけて、イントネーションも含めて、一つの言葉にするという教育が進んで、その結果、アイヌの言葉や沖縄の言葉、北海道の言葉などをすべて失ってきました。一つの言葉、一つの文字で通じる国家づくりを進めてきたわけです。ところがインドは、やろうとしても、それができなかった。
たとえば、一つの言葉でヒンデイー語を選んだときに、当時のヒンデイー語のシェアは30%程度しかなかった。いまでも48%程度です。私のいるカルナータカ州では、ほとんどヒンデイー語は通じない。英語のほうがまだ通じるくらいです。ヒンディー語で話すと、「英語できない?」と聞かれるくらいです。いまの人たちは、職業上英語は必要なので、英語はたいてい、リキシャー、三輪タクシーのドライバーでも話せます。

日下 インドの12億人のうち、大学教育を受ける人というのは、どのぐらいいるんですか。
森尻 日本の昭和20年代から30年代がそうだったように、まだまだ大学を出るのは10人に一人程度です。しかし10%とはいえ、総人口比率では1億数千万人出ていることになりますね。
日下 日本の総人口に匹敵するわけだ。
森尻 これはすごいパワーですよね。そうした大学を出た層が、90年代からの教育改革が軌道に乗った時点で、たちまちにしてITとか先端企業にかかわって、5、6年後には、アメリカへどんどん進出している。インド人も、そんなことは予測しなかったと思いますが、あっという間に、そういう状況が来た。それほど教育効果はすごいものです。

出口のない先進国はインドを見習えばいい
日下 インドは、日本のインテリが無意識裡に信じている「中央集権のほうがいい」「統一のほうがいい」「計画化がいい」などの、とんでもない大嘘に対して、まさに、反対の実例になる。その意味では、日本がいま学ぶべきはインドでしょう。
日本人はいまだに、そういうことがいいことだと思っているし、それがまた進歩だと思っている。そもそも進歩があると思っているところが、日本人の単純なところです。世界はまだ、進歩を否定するところまではいっていないが、国家による中央集権とか合理化がいいとか、民主主義がいいとか、平等がいいとかには疑問をもちはじめている。そういうことはみんなフランス革命にはじまった。
フランス革命自体は、「こんなことはやっていられない」と、すぐに終わる。しかし、それは飛び火して、モスクワへ行ってスターリンという独裁者を生み、さらに中国に飛び火し毛沢束を生み、その中国では、毛沢束は死んでも、社会主義や理性万能主義はまだ続いている。
そのあと、また飛び火して、カンボジアではポル・ポトが大虐殺をしたり、北朝鮮では国家ぐるみ刑務所になったりしている。そこで社会主義というのは悪いものだとだんだんなる。
そもそも民主主義をやっていると、それは平等第一の社会主義になって、社会主義をやっていると全体主義になって、全体主義は独裁者を生んで、自分に逆らう者はみんな殺せ、になる。国家や社会に、没収したり略奪したりする富がある間はいいが、やがてそれはなくなる。なくなればよくなるかというと、殺す癖は直らないから、今度は仲間同士で殺し合いをする。
という失敗が、冷戦終了のときに一応終わって、日本にとっては居心地のいい時代があって、私としては、だんだん日が射して温かくなるだろうと思っていたら、また社会党の大統領がフランスに出現した。
そのあとは、面白くいえば、大臣の半分が女性になった(オランド大統領は公約通り、女性閣僚が半数になるように三十四人中半分の十七人を起用)。
何でも反対の政治家は成長戦略がつくれないから、日本と同じで、出口のない国家.になると、いままでえらそうなことをいっていた人たちは逃げてしまい、あとは女性と年寄だけの内閣ができるということです。
そういう点では、日本は先進国なんですが(笑)、女とおじいさんにしたからといって、出口はない。だからインドを見なさいということになる。

インドの動きをカバーできない外務省、新聞社
日下 ところが、日本にはインドの情報がきちんと入ってきているかといえば、入ってこない。だから、インドの実像はわからない。
こんな話がある。M新聞が今度大赤字で、潰れそうだというので、社内で「これからどうするか」という研究をしたという話を漏れ聞いた。
それによると、「外国に特派員を出すのは、金ばかりかかって、ろくな記事を送ってこないからもうやめて、現地にいる人に頼ろう」という話が出たという。つまり、森尻さんのような人に聞いたほうが、よっぽどいい現地の情報が集まる。
森尻 日本の新聞社があるのは、インドはほとんどニューデリー(インドの首都「デリー首都圏」は、「ニューデリー」と「オールドデリー」で構成されている。イギリス植民地時代につくられた新都市部分が「ニューデリー」、それに対して、古くからある町が「オールドデリー」と呼ばれている)だけですね。ニューデリーには、朝日新聞、読売新聞、日経新聞、毎日新聞、共同通信、時事通信、そして産経新聞が2009年に開設しているので、いまは7社ですね。
これでは、インドの動きはカバーできません。
外務省もそうです。マスコミなどよりはカバーはしていますが、いま外務省は、ニューデリーの在インド大使館、在コルカタ総領事館、在チェンナイ総領事館、在ムンバイ総領事館、在バンガロール出張駐在宮事務所と5ヵ所です。
インドの動きは工業にしても農業にしても、中都市の動きがすごいので、それではカバーしきれないのです。
たとえば、大都市に鉄工所を造るわけにいかないので、中都市に出て行く。すると中都市に、地方の大学を出た人たちが集まってきて、そこで働く。そこがエネルギー 源になっている。これを日本人は注目しなければいけないのに、日本の会社は中都市に行くのを嫌がります。いまだに、昔みたいに大きい都市に派遺しておけば、全部情報が集まると思っているのです。
1970年代くらいまでの日本人は、それこそアフリカの名もない町でも、ダイレクトにどんどん現地に入っていったと思います。メーカーも商社もそうだった。ところが、日本人に、いまやそういうことをやるフロンテイア精神がなくなってしまった。

日下 それが大問題なんです。なぜなくなったかというと、物事は上から網をかぶせていけばいいと思っているからで、下から突き上げてうまくいくということを習っていない。大学でそんなことは教えていない。新しいことは何でも現場へ行って自分が体験しないと分らないが、なかでも商売をしてみるのが一番良い。評論家、学者、官僚にヒアリングするのは入口で、本当のことは売買したときに分る。で、エコノミストも最近登場する人はビジネス界出身になってきた。
イギリス外交は英国国教会(アングリカン・チャーチ)の牧師を別働隊にもっているし、アメリカは各種財団法人(シンクタンク)を使っている。日本は商社だと思うが…。
森尻 そうですよね。

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