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栗原信秀の輝かしい刀匠人生と憐れな末路4 栗原信充との関係は無かった

2016年10月20日 | 日本刀

 栗原信秀の人生は謎に包まれている。
 判っているのは文化十二年(1815年)新潟に生まれ、嘉永五年(1852年)刀鍛冶としていきなり世に現れ、幕末・明治初期に大活躍したという事だけである。
 15歳頃故郷を離れたらしいが、それから38歳まで、どこで何をしていたのか判らない。刀剣関係の書籍によると、信秀は京都に行き、そこで栗原信充と知り合い、信充から清麿に紹介して貰って刀鍛冶になったと書いてある。

 栗原信充とはどんな人物か。

 栗原信充は幕臣。栗原柳庵同人。刀剣書では旗本と記されている事が多いが御家人だったようだ〈注1〉屋代弘賢平田篤胤柴野栗山に学び、多くの著書を出版している。
 ウィキペディアに「栗原信充」「栗原柳庵」の頁はないが、検索すると彼の著書を出典とする記事が多数見つかる(栗原信充の検索結果栗原柳庵の検索結果)。
 「長生舎主人」という園芸名で松葉蘭を研究しており、園芸家の間では著名なようだ。ネットでは次のように紹介されている。

 長生舎主人 ちょうせいしゃしゅじん (本名:栗原 信充 くりはら のぶみつ)
寛政六年(1794)-明治三年(1870)
 幕臣、奥右筆、故実研究家
 幕府の奥右筆を務めた父の同僚、屋代弘賢とその知己である平田篤胤から国学を学ぶ。
 また、柴野栗山から儒学を学ぶ。
 故実研究家として活躍し、特に武具、馬具類の著作を残している。
 幕命により屋代弘賢が編纂していた「古今要覧」の調査に加わり、諸国を巡っている。
 長生舎主人という園芸名を用いて「金生樹譜」シリーズ(「金生樹譜 別録」天保元年(1830)、「金生樹譜・万年青」天保四年(1833)、「松葉蘭譜」天保七年(1836))を出しているが、各地の愛好家間に勃興した植物への投機に著者は多大な興味を抱いていたように著作からも推測される。
 実生により変異株、いわゆる奇品を生じることがある万年青は、これまでも親しまれてきた古典園芸植物であるが、当時にわかに登場した松葉蘭に至っては、古生代から存在する特殊な植物とはいえ、異様な姿そのものがすでに奇品と呼ばれるに相応しい。
 奇品流行は、稀少さと観賞価値の生み出す相乗効果により瞬く間に過熱するものとなった。
 愛好家が育てた奇品がとてつもない金額で取引されている渦中において、主役としての植物を独自の視点で捉え直し、客観的にまとめあげたものが「金生樹譜」シリーズである。
 特に「金生樹譜 別録」は、各地の銘木といわれた松、柳、梅についてその伝承や性状を記すことからはじめ、繁殖方法やそれに必要な資材の培養土や道具類を詳述し、さらには鑑賞価値を高めるための盆栽鉢や棚を図示紹介しながら、「花鏡」に記された新しい技術として霜よけや保温、生育促進を目的とした室(むろ)の効用まで広範な内容となっている。

千葉大学付属図書館http://www.ll.chiba-u.jp/engeisho/author/chouseisha.htm

 ネットの人名辞典では、

 幼少より弘賢の不忍文庫の膨大な蔵書の閲覧を許され,成人後は弘賢が幕命により編纂していた『古今要覧』の調査に加わるなど,広く知識を得る環境に恵まれた。全国を巡って資料を訪ね諸家と交わる調査によって,実見によって文物を理解する学を旨とした。のち弘賢の病死により『古今要覧』の製作は中止,それまでの蓄積は自著という形で世に出した。特に力を注いだ武具,馬具類に関する著作『甲冑図式』『刀剣図式』『弓箭図式』『武器袖鏡』『兵家紀聞』『装剣備考』などは幕末武士の教養書として重用された。
 https://kotobank.jp/word/%E6%A0%97%E5%8E%9F%E4%BF%A1%E5%85%85-16516

 彼の著書「刀剣図考 武器考証 第一巻」はGoogleの電子書籍で読む事ができる(「刀剣図考 武器考証 第一巻」)。愛刀家には非常に興味深い内容となっている。

 かように栗原信充という人は万学の秀才と言える人物である。刀剣・武具の研究の折りには刀鍛冶を取材しただろう。そこで清麿や信秀と接点があっても不思議ではない。
 だからと言って信充が信秀を清麿に引き合わせたとまで言えるかどうか?
 しかも多くの刀剣書には、信秀が「栗原信秀」と名乗ったのは栗原信充に敬意を表しての事である、と書いてある。
 単に名前が似ているだけではないのか?〈注2〉
 信秀本人は「俺は刀鍛冶になりたくて、ある時小道具屋で一番上手な刀鍛冶は誰ですかと聞いたんだよ。するとその小道具屋が源清麿が日本一だと言うので、清麿を訪ねて行って弟子になったんだよ」と言っており(『栗原信秀の研究』論文部P.73)、栗原信充には触れていない。
 そもそも信秀は幼少から職人仕事をやらされ、無学文盲。「目に一丁字もなし」(同論文部P.57)と言われた男である。仮に信充を尊敬していたとしても、その著書を読む事はできなかった。増してや彼が、幕末有数の知識人たる信充と、心通わす人間関係を築いていたとは思えない。

 栗原信秀と栗原信充を関係付ける客観的証拠は無い。信秀と信充に関する刀剣書の記述は創作である。


注1 PDF 名古屋市中村図書館2016年8月「太閤記を読む」
注2 信秀の父親の姓が「栗林」、信秀晩年の養子の姓が「栗山」。養子の「栗山」は役所の誤記であるので(『栗原信秀の研究』論文部P.3より)、父親の「栗林」も役所が「栗原」を誤記した可能性が高い。信秀の姓は元々「栗原」だったと考えられる。
 ――あるいは信秀は役所から差別される部落や階級の出身者だったのだろうか?




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