♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して72年、
PBA『世の光』を文字で 

■本当の幸せ

2007年01月19日 | Weblog

 世の光の時間です。お元気ですか? 安海靖郎(あつみ・やすお)です。

 今日は「本当の幸せ」ということについて考えてみたいと思います。これは誰もが願う大切なものではないでしょうか。でも、「本当の」という形容詞を必要とするほどいろいろの幸せ・幸福感がある訳です。

 ですから、こんなふうに考えてみてはどうかと思うのです。本当でないものがどういうものかが分ると本当のものがはっきりする。本当に幸せだと実感できないもの、それを幸せだと言う、あるいは思う、思わされているもの、そういうイメージ、それは本当の幸せではない訳ですね。

 例えば結婚。普通は結婚というと幸せというイメージがあります。でもまだしてない人には特にそう思うかもしれません。現実には不幸に終わってしまうケースがたくさんある訳です。またこういうものもあります。ある人には幸せだけれども、ある人にはそう感じられない。本当の幸せというのは普遍的なものであるはずですねえ。また本当の幸せというのは変らないもの。変ってしまうもの、それは本当のものではないのではないでしょうか。

 でもそんな、いつでも誰でもが自分のこととして実感できる、しかもそれがずうっと続いていく、変らない幸せ、そんなもの、この世の中にあるんでしょうか。人間の変ってしまう状況や出来事の中にそれはあり得ない訳です。

 聖書では、結婚も家庭も仕事も、一人で生きるにしても人生を幸せにするのは変ってしまうものや状況・人ではなく、あらゆる良いもの・良くするものの根源である創造主なる神様にあると言うのです。ですからどんな人も心から幸せを実感し、ずうっと味わっていける変らない本当の幸せ、この幸せの源なる神様をしっかり持っていること。それが幸せだ。幸せのもとだと言うのです。

 旧約聖書のイザヤ書48章の17、18節にはこう書かれています。「わたしは、あなたの神、主である。わたしは、あなたに益になることを教え、あなたの歩むべき道にあなたを導く。あなたがわたしの命令に耳を傾けさえすれば、あなたのしあわせは川のようになる」こんな幸せを味わってみてください。


  (PBA制作「世の光」2007.01.19放送でのお話しより )

***** 

さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。


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この文字版「世の光」ブログは URL名として http://yonohikari.biblical.jp 
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■人間の義ではなく神の義

2007年01月18日 | Weblog


 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 福井 誠です。今日は聖書の中のローマ人への手紙から読んでみましょう。
 
 なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる。」と書いてあるとおりです。
      ローマ人への手紙1章17節

 ロ-マ人への手紙は多くの人の人生に影響を与えてきました。実際この手紙は、マルチン・ルターという人物に影響を与え、16世紀のドイツの宗教改革を押し進め、ジョン・ウェスレーという人物を捕え18世紀のイギリスに於ける霊的な覚醒運動を引き起こしました。宗教改革にしても霊的な覚醒運動にしても、「義人は信仰によって生きる」と聖書が語る原点に立ち帰る所から生じています。パウロは言います、「義人は信仰によって生きる」。良い行いによって生きる人が義人なのではありません。

 考えてみれば、人間の心には良い行いと裏腹の思いがあったりするものですねえ。良い行いをする人だからと言って義人とは限らないのです。義人というのは、心も外側も全く矛盾のない歩みをする人のことです。聖書は、そのような生き方は人間の努力によって獲得されるものではなくて、神が与えてくださるものだと語ります。クリスチャンの人生は、修行によって何か自分の内側にある良いものを引き出したり磨きあげたりするものではありません。信仰によって神に新しい義を与えていただきながら新しい人生を築きあげるものです。事実、イエスは十字架によって私たちの罪を赦してくださったばかりか、復活の力によって私たちに新しい良い行いをも備えてくださいました。神の義に生きるということへの信仰が私たちの人生に祝福をもたらし、私たちの人生を大きく変えるものとなるのです。

 聖書のことば
 「義人は信仰によって生きる。
      ローマ人への手紙1章17節
 
 (PBA制作「世の光」2007.01.18放送でのお話しより)

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さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。
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■福音の四季 : 右と左、一寸の差

2007年01月17日 | Weblog
 
 世の光の時間です。お元気でしょうか。羽鳥 明です。

 さあ今日の世の光、まず第一に皆様からのお便り紹介です。福岡県北九州市門司区にお住まいの松田さんからいただきました。詩です。

   『神の筆』 
  山肌にかかる白い雲 筆でぼかしたように
  やがて光があたり 雲霧は立ち昇り
  くっきりと山が映し出されていく
  もやもやした私の心
  イエスさまの流された血で 
  赤い筆で 塗ってもらいたい
 
 松田さん、ありがとうございました。さあ今日の福音の四季のメッセージです。「右と左、ちょっとの差」というお話しです。まず聖書をお読みしましょう。ヨハネの福音書21章6節です。

 イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」そこで、彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった。

 ガリラヤの漁師たち、専門家の彼らは、一生懸命、漁をしました。でも一匹も捕れませんでした。そこに現われた主イエスが「舟の右側に」と言われたのです。右と左、大した違いではありません。ちょっとのちょっとした違いだけです。しかしこの右と左には大きな差があったのです。今までは専門家の慣れと実行、自分の知恵で漁をしていました。今は、専門家ではない神の救い主、死んでくださってよみがえってくださったイエス・キリスト、そのことばに従ったのです。神への服従、神のことばへの信頼と服従、これが大きく事を変えたのですねえ。私たちは実生活のわずかな面で神を無視して不服従に走ることが多いのです。しかし心悔い改めて心から神の救い主の一言一言に心から服従して生きる時に万事が変るのです。

 聖書のことば
主のみおしえは完全で、たましいを生き返らせ、主のあかしは確かで、わきまえのない者を賢くする。
  旧約聖書 詩篇 19篇7節のことばです。
 
 それではまた聞いてください。

 ( PBA制作「世の光」2007.01.17放送でのお話しより )


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■罪責感という重荷

2007年01月16日 | Weblog

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか。関根弘興(せきねひろおき)です。今日も一日さわやかに過ごしていきたいですね。

 まあ私たちの人生にはたくさんの重荷がありますねえ。時には孤独感であり、また虚しさというものです。そして大きな重荷の一つ、それは罪責感です。だれの心にも後ろめたさがあるんですよね。人は正直に自分の心を覗いたら誰もが罪を認めることでしょう。

 だいぶん前の話ですが、アメリカの著名な牧師ビリー・グラハムがエクアドルのアウカ・インディアンを訪れた時のことをこう書いています。

 人々は石器時代の生活をしていました。嘘をつき、騙し、憎み、殺し合っています。この部族は戦いのために全滅といってよい程になりました。私は自分に言いきかせました。この人たちのために必要なものは教育だ。経済上の安定性だ。良い食べ物と立派な衣類だ。これらのすべてを彼らが必要としていることは確かだ。しかし私がニューヨーク、パリ、ロンドン、モスクワに行って何を見るでしょう。そのようなものを全部持っていながら人々は嘘をつき、憎み、騙し合い、殺し合っている事実です。歴史上最も悲惨な戦争は、いわゆる文明国に見られるのです。

 ま、考えさせられることばですねえ。人々の中には、どんな国の人であってもみんな罪があります。罪とは、関係の破壊を意味することばなんですね。人は本来神様を信頼して生きていくべなのに、自分勝手に背を向けてしまうという姿なんです。愛なる神様から目をそらし、自分勝手に神様を無視して生きていくことが罪なのです。この罪は人間関係さえも破壊していきます。人は愛し愛されるべき存在なのに、人が人を傷つけ、そして破壊していくんです。

 聖書は、「罪から来る報酬は死です」(ロ-マ人への手紙6章23節)と語っています。罪あるままでは、それが人生の重荷となり、あなたの人生が潰されてしまうというんです。

 この罪という重荷を一体誰が解決してくださるのでしょう。イエス・キリストは十字架につけられました。罪のない、きよいお方が、むごたらしい十字架についてくださったのです。それはあなたの罪の身代わりとなって罪を背負い、あなたの罪を赦してくださるためだと聖書は教えています。罪の重荷を誰が解決してくださるのでしょう。イエス・キリストは、疲れた人は重荷を降ろしなさい(※)と言います。キリストのもとに罪の重荷を降ろすことができるのです。
 
 ( PBA制作「世の光」2007.01.16放送でのお話しより )


※「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイの福音書11章28節)

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■道備えをしてくださる神

2007年01月15日 | Weblog

 世の光の時間です。お元気でしょうか。村上宣道です。

 えー、昔その軍隊にはですね工兵隊と言われる隊があったようですねえ。というのは、戦いの時に、あとから軍隊が行って戦うことができるように前もってそこに地雷があったらそれを取り除くとかですねえ、いわゆる鉄条網って昔あったと思うんですけどそういうのを取り除くとか、そして川があったらそこに橋をかけるとかいうようにして道備えをする。えー、前もって先に行って障害物を取り除いて、あとから来る軍隊がそこで有利に戦いを進めることができるような、全部こう準備をするという役割を果たすということだったですねえ。

 で、聖書の中に、「主はあなたがたの前に進み」ということばが旧約聖書のイザヤ書の52章(12節 )にあるんですけれども、この「前に進む」ということばはですね、もともとヘブル語で書かれてあるんですけれども、それをギリシャ語に訳した聖書(『七十人訳聖書』)があるんですが、それでみますとですね、先程申し上げたですね「道を切り開く」とかですね、そして「道備えをする」という意味のことば、つまり先程の申し上げた後から軍隊が有利に戦いを進めることができるための、全部先に行って備えをする準備をするそういう役割の時に使ったことばだって言うんですね。

 で、私たちは新しい年を迎えて新しい年を歩み出していった訳で、私たちの前には一体何があるんだろうか、どういうことが起こるんだろうかというふうな、正直なところ不安がない訳ではない訳ですね。けども、主があなたがたの前に行くのだ、神様があなたがたの前に行ってあなたがこれから歩むことができるような道備えをしてあげるよというようなことですね。切り開いてくださる。私たちは行き詰まりを覚えるようなことに直面することがあるかもしれない。本当にもうどうなるんだろうかと思うような所にぶつかることがあるかもしれない。けども主が先立って、きっとここを突破させてくださる。ここに問題があり困難があるならば、それを取り除いてそれを切り開いて、そして道のないような所にでも道を開いて設けてくださる。それが私たちの前に先立ってくださる主なのだということですね。そういう信頼をもって分らない新しい年を、歩み出したことではありますけれども、主が先立って、きっと道備えをしてくださる、そう信じて歩んで行くということは何と幸いかなあというふうに思います。

  
 ( PBA制作「世の光」2007.01.15放送でのお話しより)


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■天から告げる声

2007年01月13日 | Weblog


 
 世の光の時間です。お元気でしょうか? 羽鳥 明です。
さあ今日の世の光は、皆様からお寄せ戴く「心に残る聖書のことば」の御紹介です。

 埼玉県埼玉市浦和区にお住まいの宮崎さんからは新約聖書マタイの福音書3章17節のことばをお寄せいただきました。お読みしましょう。

 また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」
 
 イエス様が洗礼をお受けになった時に天から聞こえたことばなんですね。宮崎さんはこう言われます。

  ある日の礼拝のメッセージでこの所から牧師先生が「あなたの存在を神様が喜んでくださっているのですよ」と言って、私のようなものの存在を喜んでくださる方がおられるのだと私の心は喜びで満たされました。その何日かあとのクリスマスの時に、私は洗礼を受けることができました。

 宮崎さん、イエス様は神様なのに人間となってこの世に来、私たちの一人のように洗礼を受けてくださいました。このイエス様が私たちのような小さな者・穢れた者をも限りなく愛し、私たちの身代わりに罪の罰をお受けになり、十字架の上でお死にくださいました。そして三日目によみがえって私たちのために完全な救い主となってくださいました。こんな卑しい罪深い者でも心から罪を悔いて主イエスを信じる時に、罪赦されて永遠のいのちを持ち、新しいいのちへと歩み出すのですね。私たちはこの世にただ一人でも私たちを真実に愛してくださる方がいたら救われたように思いますねえ。まして神の御子が私のために身代わりになって死んでくださるほどこの私を愛してくださる。今も生きて天国まで導いてくださる。何という嬉しいことでしょうか。

 宮崎さんは、この牧師先生の話を聞いて何日かの後に御自身洗礼を受けて新しい人となられたのですね。

 宮崎さんの心に残る聖書のことば
「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」
新約聖書マタイの福音書3章17節のことばです。

 ではまたお聞きください。

 ( PBA制作「世の光」07.01.13放送のお話しより)


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■死に打ち勝つ心

2007年01月12日 | Weblog

 世の光の時間です。お変りございませんか? 安海靖郎(あつみ・やすお)です。

 今日は、行き詰まって死にたいと思うような時にも支えとなる心の支えについてお話しします。

 昨年秋以来、暗いニュースが続きました。そんな中で、毎日新聞の夕刊特集ワイドでテノール歌手・新垣 勉(あらがきつとむ)さんの体験談が紹介され、心に残りました。

 沖縄で米軍兵士と日本人の母との間で生まれてすぐ、助産婦に間違って劇薬を眼に塗られ、失明してしまったんですねえ。そして一歳の時に両親は離婚してしまい、おばあちゃんに引き取られて育ちました。でもそのおばあちゃんも、十四歳の時、脳梗塞で倒れてなくなってしまうのです。天涯孤独となり、そして不安の中に、生きる意味などどこにもないと思ったそうです。そしてこう思ったそうです。(自分は何て不幸なんだ。父も母も憎い。助産婦さんも憎い。周りのすべてが憎い。そして自分が生まれたことも、自分の人生そのものも憎い。死にたかった)と。そして高校一年の時に、本当に井戸に飛び込んで死のうとしました。幸い、友達が気づいて止めてくれました。

 そんな時に、たまたまラジオで聞いた讃美歌に心を惹かれて、近くの教会に行ってみました。そこで一人の牧師と出会います。心の思いをすべてぶつけたそうです。牧師は何にも言わずにじいーっと聞いて、そして一緒に泣いてくれたそうです。牧師さんが泣いてくれたことで、(ああ自分を分ろうとしてくれている。身内でもない自分のために泣いてくれる人がいる。そのためにだけでも自分は生きていかなくちゃ)って思ったそうです。

 新垣さんは自分の話しを聞いて泣いてくれた牧師の中に愛を、キリストの愛を感じたのです。自分のために涙を流し、命をも犠牲にしてくれたキリストの愛です。新垣さんは新しい生き方になりました。そして(このキリストの愛を伝えたい)と聖書を学ぶために神学校に、そして音楽大学に学びました。今日も、どんな人でも神様に愛されているオンリー・ワンの存在なのだと歌い続けているというのです。どんなに行き詰まっても、死にたいと思うようなそんな思いになっても、あなたを愛して生かしてくださるのがキリスト、キリストの愛です。

  (PBA制作「世の光」2007.01.12放送でのお話しより )

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■ぜひ福音を伝えたい

2007年01月11日 | Weblog


 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 福井 誠です。今日は聖書の中のローマ人への手紙から読んでみましょう。
 
 「私は、ギリシヤ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています。ですから、私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです。」ローマ人への手紙1章14節から15節

 パウロはこれまで、今日のトルコ・ギリシヤへと福音宣教の旅をしてまいりましたが、更にイタリア半島のローマの人たちにも福音を伝えたいという思いを抱いていました。その理由をこう述べています。
「私は、ギリシヤ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています。」

 以前はこの箇所を読んでもあまりピンと来ませんでした。しかし最近は私自身にも様々な負債があることを思わされます。実際、沢山の人たちに助けられて生きてきたことを思いますし、いや、助けどころか沢山の迷惑をかけてきたことを覚えます。そして何よりもイエスの恵みと愛に支えられて救いと信仰の歩みを続けてきたところがあります。

 そのように沢山のものを受ける一方で、適切なお返しも償いもせずにきてしまった負債だらけの自分があるようにも思うのです。どのようにお返しができるものかと思いますが、考えてみれば今ある繋がり、これからできる様々な関係を通して返せない訳ではありません。受けたものを返す場所はいくらでもありますし、パウロが考えた最良のお返しの方法は、信じるすべての人にとって救いを得させる神の力を知らせること、福音を語り知らせることでした。今週も多くの恵みの中で感謝の気持ちに動かされて福音を語り伝えることへと導かれてまいりたいものです。

 聖書のことば。
「私は、ギリシヤ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています。」ローマ人への手紙1章14節、15節

 (PBA制作「世の光」2007.01.11放送でのお話しより)

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■福音の四季 : すべてを益に、二つの条件

2007年01月10日 | Weblog
 
 世の光の時間です。お元気でしょうか。羽鳥 明です。

 さあ今日の世の光はまず皆様からのお便りの紹介です。
 島根県隠岐島町の松岡さんからいただきました。
「所詮私は偉そうにしていたって人間なんだなあと己のことを思います。それと比べて神の子・主イエス様はすごいなあと信頼します。尊敬し、信じ、仰ぎます。」

 隠岐島の冬はいかがでしょうか? 冬の海は荒れてはいませんか? 素晴らしいお便りを感謝、感動です。

 さあ、今日の福音の四季をお届けします。私共の今住んでいる千葉県市川市は黒松の町ですが、昔住んでいた東京都の西部には天に届くほどに背が高いケヤキが町の並木に、農家の庭に、冬はすべての葉を払い落として寒々と立っていました。

 ケヤキの木には四季があります。冬は丸坊主の冬の期の厳しさ、春は芽吹いて新緑の眩しさ、秋の風に大きく小さくそよいで素晴らしい。

 人生にも四季があります。冬の厳寒、氷の冷酷、しかしやがて春。神はいつでも、どんな季節にも恵み深いのです。私の好きな聖書のことばの一つは、ローマ人への手紙8章28節のことばです。お読みいたしましょう。
神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。

 神様はすべてのことを働かせて益としてくださる。冬は冬のように、春は春のように、苦難の日も、患い(※煩い?)の日も、争いの時も、どんな時にも、いろいろの事を用い、相乗作用させて益としてくださる。

 二つの条件が書いてあるように思います。

 第一、「神のご計画に従って召された人々」 神様のなさることですよね。

 第二に、「神を愛する人々」 これは私たち自身がすること。神様を愛していますか? 深く愛してまいりましょう。神の無条件の愛、捨て身の愛を深く思い浮かべつつ。

 それではまた聞いてください。

 ( PBA制作「世の光」2007.01.10放送でのお話しより )


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■むなしさという重荷

2007年01月09日 | Weblog

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか。関根弘興(せきねひろおき)です。今日も一日さわやかに過ごしていきたいですね。

 愛知県の岡崎公園には徳川家康の遺訓の碑が建っています。「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し」 ま、人の一生というものは重い荷を背負って遠い道を行くようなものだと家康はことばを遺した訳ですねえ。しかしイエス・キリストは、「重荷をおろしてわたしが与える安息の中で生きていこう」(マタイ の福音書11章28節参照 )と約束しているんです。

 私たちの人生の重荷の一つは、それは前回お話ししたように孤独感です。独りぼっちです。人はみんな、誰かが一緒に私と共に歩んで欲しい、と願っているものです。キリストは「わたしはあなたを離れず、あなたを捨てない」(ヘブル人への手紙13章5節参照)と約束される方です。あなたは決して独りぼっちではないと約束されるんですねえ。

 そして人生の重荷、それは虚しさというものもあります。あなたはあなたの存在に、人生には意味と目的があるということを知っていますか? えーっ?! 同じような繰り返しで朝起きて会社に行って残業して帰ってきてまた朝出掛けて何の意味があるんだろうか。生きる意味なんてただ食って寝るだけだよーっ! まあ、そう考えたら人生は虚しいですよね。人は自分のしていることに意味を見い出せない限り虚しさがつきまとうのです。

 人生に本当に意味があるんでしょうか? あなたの存在に意味があるのでしょうか? 聖書は明解に答えます。聖書の書き出しは、「初めに、神が天地を創造された」とあるんです。それはあなたの存在は決して偶然ではない!ということなんです。神様があなたにいのちを与えられた! そしてあなたが生かされていること自体に目的があるのだ、存在していること自体が目的なんだ、と聖書は教えるんです。

 人生に意味があると分かった時、人は虚しさから解放されます。

 詩画集で有名な星野富弘さんは事故で首から下が麻痺してしまいました。辛い日々が続き、もう生きている意味が分らない。いない方がましじゃないか。そんな失望の毎日が続いたそうです。しかしそんな時、聖書のことばに出会うんですねえ。それは、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ の福音書11章28節)ということばでした。イエス・キリストのもとに休みがある、そして神様は私に新しい使命を与えてくださるに違いない、そう思い彼はたくさんの絵を書き始めたんです。

 あなたは決して無意味な人生を送っている訳ではありません。勇気をもってキリストの招きに応え、キリストを信頼し、生きていきませんか?
 
 ( PBA制作「世の光」2007.01.09放送でのお話しより )


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