♪ラジオ放送・文字版「世の光」

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「世の光」を文字で 

■十字架の意味/関根弘興

2017年05月19日 | Weblog
2017/4/14放送

 世の光の時間です。関根弘興です。今週はイースター・スペシャルをお届けいたします。
 新約聖書第一コリント15章3節から5節のことばをまずお読みいたします。
 「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、
 パウロという人がこのように記したんです。聖書の中心は何か、と問われるなら、イエス・キリストは私たちの罪のために死られた事、そして三日目に復活されたということ、これが中心だと教えるんですねえ。

 イエス・キリストの十字架と復活が聖書の中心だということは、私たちにとってこの十字架と復活はどんな意味があるのでしょう。そこで今週は十字架の意味を考えていきましょう。十字架は当時の極悪人がつけられた処刑の道具です。ユダヤの社会では「木に架けられた者は呪われる」と言われるほど忌み嫌われていました。十字架につけられた者は、罪の罰を受け呪われ神様から見捨てられた者、というレッテルが貼られたのです。その十字架にイエス・キリストはつけられたんです。

 しかしどうでしょう。今、十字架はアクセサリーとして用いられたり、安全のマークになったり、病院の地図標識は十字架が入っていますよね。忌むべき場所であったはずの十字架が全く変わっていったのです。なぜでしょうか。それはイエス・キリストの十字架が 愛の極みとなる十字架であったからなんです。

 聖書は、罪のない人間など一人もいないし、罪のもたらす報酬は死である、と教えています。人は自分の罪を自分の善行や努力で消すことなどできません。結局、人は罪のゆえに死で表わされる滅びを受け取ることしかできないのだ、と教えるんです。だから私たちは救い主がどうしても必要なんですね。

 聖書は、私たち一人ひとりの罪をすべて肩代わりすることできる方は罪のないイエス・キリストだけだ、と教えるんです。キリストはあなたのためにご自分のいのちをお捨てくださいました。それによって私たちは極限の愛を知り、大きな愛で愛されていることを知ることができるんです。むごたらしい道具であった十字架がキリストのゆえに愛の極み、標しとなっていったんですね。

 (PBA制作「世の光」2017.4.14放送でのお話しより)

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでも、ちょっときてみました、いいですか? と言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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