♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して65年の
「世の光」を文字で 

■愛の極み/関根弘興

2017年05月12日 | Weblog
2017/4/7放送

世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。
今日も最初に聖書のことばを紹介いたしましょう。新約聖書ローマ人への手紙5章8節
 「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
 
 聖書は「神は愛です」と書かれています。 愛には必ず対象となる存在があります。誰を愛するのか、何を愛するのか、具体的な対象がそこには必ずありますね。「神は愛です」というとき、その神の愛の対象は一体誰でしょうか。それはあなたですよ、と聖書は伝えるのです。あなたは神様に愛されるために存在している、と言っても過言ではありません。そしてこの神様の愛はご自分の独り子イエス・キリストが十字架についてくださったその出来事を通して豊かに表わされているのだと教えます。

 十字架、それはむごたらしい処刑の道具です。両手両足に釘が打ち付けられ、晒し者にされるのです。この十字架にイエス・キリストはつけられました。でも、イエス・キリストの行動を記録した福音書を読むと、十字架につけられるような悪いことをイエス様は何一つなさいませんでした。それどころかイエス様は病で苦しむ人を癒し、当時の社会から拒否されているような人を大切にし、罪人呼ばわりされている人たちの友となっていったのです。そしてイエス様の語ることばは人を恐怖に落としれたり、不安に陥れる、そういうことばではありませんでした。慰めと励ましに満ちていたのです。イエス様の口には何の偽りも見いだすことができませんでした(1ペテロ 2:22節参照)。

 それなのにどうしてイエス様は十字架につけられたのでしょう。聖書はこう言います。「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださった」(ローマ 5章8節) こう教えるのです。

 人は自分を正直に見つめるなら、罪ある存在だということが分かると思います。正しい神様の御前に出るなら、誰も罪のゆえに裁かれても文句など言えない存在です。しかし何とイエス様は私たちのその罪を、そして罪の罰を、呪いを全部引き受けてくださったのです。あなたのためにいのちを捨ててくださるほどの大きな大きな愛があなたに注がれている事をぜひ知ってください。

 (PBA制作「世の光」2017.4.7放送でのお話しより)

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでも、ちょっときてみました、いいですか? と言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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