いわゆる神の存在証明がもたらす意味について

創造主である神の存在証明をして、この神が造ったこの世界の成り立ちと仕組みを説明し、人類史のリセットと再構築を試みる。

神の存在証明再考

2006-01-07 00:26:34 | 神の存在証明
神の存在証明再考

 追記 2010年2月22日
 この文では、一般法則論で言う創造主である神が、天然自然の存在の創造主である神であり、その存在証明も、天然自然の存在の創造主である神の存在証明をすることになる点に関する説明が足りません。 
 このことに関しては、2008年以降の文をお読みください。
 

○先の神の存在証明は事の単純化が不足
 一般法則論としては、神の存在証明を、既に済ませてあります。
 しかし、それは、いわゆる悟りの体験をした筆者の知識を十二分に活用したものでは無
かった、と今になって分かりました。
 簡単に言えば、一般法則論に相応しい事の単純化が不足していました。
 この反省に基づいて、改めて神の存在証明を、ここでします。

○神の実在を学問的にも公共的にも認知させる事に成功したか
 話を単純化すると、話が分かり易くなり、説得力も強くなります。
 神の存在のように、未だその存在が学問的にも公共的にも認知されてはいないモノの実
在に関する主張は、複雑怪奇な話の儘では全く通用しません。
 そこで、一言で内容が言えるほど、話を単純化し簡略化することが必要不可欠です。
 一般法則論的な神の存在証明が、神の実在を学問的にも公共的にも認知させる切っ掛け
になる程の説得力のある話の単純化/簡略化にどこまで成功したか、今、その成果が問わ
れている所です。

○一般法則論/筆者の決意
 一般法則論的な意味の神は実在します。
 「それでも地球は回っている」の話と同じように、「それでも神は実在し仕事をしてい
る」訳です。
 この世界を造り支配している創造主である神+自然法則+エネルギー三位一体不可分の
働きの内の、「創造主である神」の実在を、学問的にも公共的にも認めないのは、大間違
いです。
 この点に関して、本質的には、学問的に公共的に認知するしないは、ましてやあなたや
私個人がそれを認める認めない等ということは、根源的な真理の実在の存否に一切無関係
です。
 なぜならば、回っている地球も、神の実在も、過去・現在・未来の全ての人の存在に客
観的かつ絶対的かつ普遍的に先立つ、それ自体で客観的かつ絶対的かつ普遍的な真理その
ものだからです。もちろん、こういう事に関する主義・主張は、その真偽が真理そのもの
に照らして常に必ず客観的かつ絶対的かつ普遍的に検証されて合格した時にのみ初めて学
問的にも公共的にも認められ受けいられるべき性質のものであることは、言うまでもあり
ません。
 一般法則論的な意味の神の実在を、学問的に、公共的に、更に地球人類全体のレベルで
認知させ常識にすることに関して、筆者の決意は、真剣で、大真面目で、一途です。
 で、変なヤツだとからかわれたり、危ない人間と思われて攻撃されたりすることがあり
ます。しかし、これは、殺されないのである限り、無視して前へ進むしかありません。

○神とは何か知らずに神の存在証明はできない
 神の存在証明をするには、もちろんその前に、神とは何かが一義的/一意的に明確に確
定的に分かっている必要があります。

○理性の力では神の存在を知ることはできない
 神とは何かを知らなくても、理屈を捏ね回せばその内に神とは何かが自然に分かる式の
発想/考え方で、神の存在証明が昔から行われて来ました。
 しかし、この考え方では、神の存在証明は、結局できません。
 なぜならば、神に関する知識を得ることが、理屈を展開する理性が働く意識の状態では
原理的に不可能だからです。
 知識の真の源は、人の理性にではなくて、この世界の創造主である神の所にしかないか
らです。
 神とは何かを知るには、いわゆる悟りの体験をすることが必要不可欠です。
 悟りの体験は、変成意識と言われる非理性的な特別の意識状態になり、絶対的無意識の
存在の神を意識化することです。これによって、一瞬にして神とは何かが、一義的/一意
的に明確に確定的に分かります。

○神について一義的/一意的に明確で確定的な知識が必要
 筆者が、ここでしている一般法則論の話の中で神の存在証明をしたときに、23歳(1
963年)の時の悟りの体験に基づいて、既に神とは何か(この世界の天地万物の唯一絶
対普遍かつ至高の創造主である神)について、一義的/一意的に明確に確定的に知ってい
ました。
 それどころか、創造主である神が造ったこの世界の成り立ちと仕組みについても、一義
的/一意的に明確に確定的に知っていました。

○創造主である神の天地創造の実際に関する知識も必要
 それは、神自らの身心をこの世界を造るための唯一絶対普遍の素材として提供し、天地
創造の原理に則って、言わば神自らの身心を自己展開する形で、神自らの化身/分身とな
るべき人間存在(宇宙大では人と同じ様な知的生命体としての宇宙人一般)と、この生活
基盤/インフラになる大自然世界を造ったのでした。

○この世界を創造主である神+自然法則+エネルギーで説明すべきことも知っている
 更に、自然科学は、人と人が住むこの世界の成り立ちと仕組みを、エネルギー+自然法
則というたった2つの基礎概念で説明し尽くそうとするものだ、という理解の下で、創造
主である神の身心とはエネルギーのことであり、創造主である神の天地創造の原理は自然
法則であるので、この世界は、創造主である神の存在を加えて、創造主である神+自然法
則+エネルギーの3つの基本概念で説明するのが正しい、ということも、一義的/一意的
に明確に確定的に知っていました。

○自然科学はこの世界を自然法則+エネルギー+数学で説明するものというのは誤解
 なお、自然科学は、この世界を自然法則+エネルギー+数学で説明するもの、という誤
解が広く世間に行き渡っています。
 この誤解に基づいて、数学に強くなければ自然科学はできないし、それを理解すること
さへできない、と言う更なる誤解が広く世間に行き渡っています。
 しかし、数学を一切使わなくても、(創造主である神+)自然法則+エネルギー一体の
働きという考え方だけでこの世界の成り立ちと仕組みは説明できますし、この知識に基づ
いて、十二分に(自然)科学的に考え、(自然)科学的に振る舞うことができます。
 科学的とは、単純化すると、自然法則+エネルギーの働きに則って考え行動するという
意味です。
 これは、簡単に言うと、何をするのでもそれをする正しいやり方や更にこれに加えて上
手なやり方/うまいやり方があると知ることですし、これを基本的に決めているのは自然
法則の働き方の原理である、「それをそれにする原理的仕組み」にその科学的な根拠があ
ることを知っていることです。
 このことを知らずに、科学的にはまったく根拠の無い、自分が勝手に決めたやり方を、
しばしば権力や暴力を使って強引に押し進めようとする人達がいます。例えば現在の北朝
鮮政府や中国政府。
 このようなことをする人達を諌めることはむずかしくても、少なくともそれに加担し、
それを助けることを避けることはできるものです。
 特に、数学に弱いから科学が分からないと思い込まされている文系の人達には、この話
は朗報の筈です。

○神と神の世界に関する根本的知識を獲得した「悟りの原理」も説明できる
 悟りの体験を、筆者だけでなく広く万人に可能にする原理的仕組みの存在(日常の意識
とは異なる特殊ないわゆる変成意識+絶対的無意識の存在の意識化)についても、神の存
在証明をするときには既に一義的/一意的に明確に確定的に知っていました。

○神による天地創造のやり方を具体的に説明できる知識も必要
 そして、実際にこの世界と人の存在が造られる仕組みは次のようになっていることも、
一義的/一意的に明確に確定的に知っていました。

・創造主である神と天地創造の意図/目的+自然法則+エネルギー一体不可分の働き→創
 造主である神の化身/分身としての人の存在とその住む大自然世界の誕生
・創造主である神の化身/分身の存在の人とその存在意図/目的+自然法則+エネルギー
 (物質)一体不可分の働き→各人の人生・文化文明的諸文物・人類史の誕生
 以上の図式を、別の形に書き換えると、次のようになります。

○世界を説明するための8つの要素に関する知識
1 創造主である神とこの神の天地創造の意図/目的
2 創造主である神の身心でありこの世界を造っている素材であるエネルギー
3 創造主である神の天地創造の原理としての自然法則
4 創造主である神+自然法則+エネルギー一体不可分の働きで造られた大自然世界(神
 の国)と神の化身/分身の存在の人(神の国の住人)の誕生
5 神の化身/分身の存在の人とその存在意図/目的
6=2 エネルギー(物質←物質はエネルギーが変形した物というE=Mc2 の式)
7=3 自然法則
8 神の化身/分身の存在の人+自然法則+エネルギー一体不可分の働きで作られた各人
  の人生・文化文明的諸文物・人類史の形成/誕生(人工の世界/第二の自然)

○8つ(実質4つ)の要素の間にある相互関係に関する知識もある
 この8つ(実質は4つ)の要素の間にある相互関係について、筆者は、一義的/一意的
に明確に確定的に知っています。

○部分に分離分割ができない常に全体でただ一つの世界
 創造主である神が、創造主である神+自然法則+エネルギー一体不可分の働きで造った
この世界は、部分部分に分離し分割することが決してできない、常に全体でただ一つの世
界として存在し、常に全体でただ一つの世界として働くものであることも、一義的/一意
的に明確に確定的に知っていました。これは、物理学的には光速度一定不変の原理とエネ
ルギー不滅の法則とも関係があります。
 なお、このような世界を説明するには、悟りの体験の時に一瞬にしてその全体を理解し
た時のように、一度に全部を一気に説明する方法しかないと考えて、この方法を探すのに
もう何年も試行錯誤の時間が掛かったものです。

○話の単純化
 以上の図式をもっと単純に書き換えると、次のようになります。
1 創造主である神
2 エネルギー
3 自然法則
4 生物としての人の存在を含む天然自然の世界
5 人の存在
6=2 エネルギー
7=3 自然法則
8 人工の世界

○現代の科学的常識では創造主である神の存在以外は既知
 さて、上に掲げたこの世界を構成している8つの要素(実質的には4つ)の内、現代の
科学的な常識では、1の創造主である神以外の残り7つ(実質4つ)の存在は、その存在
が既に知られています。

○現代の科学的常識を土台にした科学的な神の存在証明の仕方とその実際
 こういうことならば、科学的な神の存在証明は、科学的には未知の要素である創造主で
ある神の存在を、科学的には既知の残りの7つ(実質は4つ)の要素を使って行うのか良
いことになります。
 実際には、これを、自然法則(+エネルギー)には自らの主体的かつ自発的かつ自由な
意思が無いこと(物理では慣性の法則と言います)を自覚的な知識にして、これを手掛か
りにして、創造主である神の存在証明をすることになります。
 即ち、人が言わば人工の世界の創造主である神のように振る舞うという形で関与しない
と、自然法則+エネルギーだけの働きでは人工の世界/第二の自然は作れないように、創
造主である神と言う天然自然の存在抜きで、自然法則+エネルギーだけの働きでは、人の
存在を含めた天然自然の世界(大自然世界)を造ることが出来ないから、天然自然の存在
の創造主である神の存在は、自然法則+エネルギーの他にこの世界にとって、論理必然的
に或いは自動的かつ機械的に必要になる、という結論になります。

 以上で、再度の神の存在証明を済ませました。
 先の神の存在証明の仕方よりも今度の方が分かり易いですか?

○その存在証明をしたのは単なる神ではなくて創造主である神
 ここで確認しておきたいのは、その存在を証明したのは、単なる神の存在ではなくて、
私たちの存在を含めたこの世界の天地万物の唯一絶対普遍の創造主である神です。
 神の存在証明は、創造主である神の存在証明である必要があるのです。
 なぜならば、私たちの創造主である神であって初めて、私たちにとって意味のある存在
になるからです。
 また、神とは何かを考える鍵言葉も、この世界の「創造主」という点にあります。

○あなたは、神の実在を認めて受け入れましたか?
 科学的な思考のできるあなたは、この世界を作り支配している自然法則とエネルギーの
存在とその働きを既によくご存じでしょう。
 ならば、今再びその存在証明をした通り、自然法則及びエネルギーと一体不可分の存在
の創造主である神についても、ついでに認めてくださるでしょうか・・・。

 それとも、やっぱり神の存在など認めたくないですか・・・。
 しかし、仮令あなたが、ここでその存在証明をした意味の神の存在を認めなくても、そ
れでもあなたに化身し分身化している神の実在は、誰も否定することができません。
 あなたに化身し分身化している神は絶対にあなたを見捨てないし、一生涯更に死後も常
にあなたと共にあって、あなたを守り、あなたを助けてくれます。
 ある時には、あなたの努力を、原因=結果の因果必然の法則がしっかりと働いて、実り
あるものにしてくれます。
 また、ある時には、自然治癒力として働いて、あなた本来の身心の完全完璧さを維持し
或いは痛んだ所を修復してくれます。
 もし、あなたが神の存在を認め受け入れ、「神に祈る」という用語で知られている方法
を自覚的に意図的に使えると、普段は自動的かつ機械的に紋切り型に限定的にしか働かな
い自然治癒力を、俗に言う不治の病でも治すほどの本来の強い治癒力して使えます。
 神とは、人が元々有りもしないものを勝手に創り出したもので、あってもなくてもどっ
ちでも同じの抽象的で観念的な存在に過ぎないものではありません。
 神は、確かに実在し、全ての人の日常的な生き方の究極の拠りどころになる原理として実用的な有り難い存在です。

○単純化を妨げた理由
 今回の神の存在証明では、科学的にも常識的にも、神の存在だけが未知で、自然法則や
エネルギーや私たち人間存在や私たちが生きているこの世界の存在は既知だ、と単純化し
て考えました。そして、既に知られている物で、未知の神の存在を証明しました。

 しかし、最初の神の存在証明では、厳密な意味では、神の存在だけでなく、その他の自
然法則やエネルギーや私たち人間存在や私たちが生きているこの世界の存在さへも、人類
にとっては未だ全て未知の存在である、と考えていました。
 例えば、自然法則やエネルギーの本質やこの間の関係や働き方の原理等について、科学
の基礎理論でも、未だ説明していないものです。
 そこで、神の存在証明をする為には、全てを最初からかつ零から説明する必要がある、
と決め込んでいました。
 それに、悟りの体験を可能にし、この世界を知ることができる「心」とか「精神」と名
付けて私たちが呼ぶ存在の実在証明をする必要もある、と考えていました。
 最初の神の存在証明のときには、この通りに私の頭の中は複雑な儘でした。
 そこで、先の神の存在証明では、何か不完全感が拭い切れませんでした。

○存在証明した神は悟りの体験で知った神そのもの
 一般法則論で言う神の存在証明は、「絶対的無意識の存在である神の意識化」という原
理に則って行われた俗に「悟りの体験」という方法で一義的/一意的に明確に確定的に知
ることができた神の存在を証明したものです。実際、これが、筆者の長年の課題だった訳
です。
 繰り返して言いますが、一般法則論における神の存在証明は、悟りの体験で知った神の
存在と、この神が自然法則+エネルギーを道具に使って造ったこの世界の成り立ちと仕組
みに関する知識+幼児の時から自覚的に知識を積み重ねて来た自然法則(+エネルギー)
の性質や働き方の原理等に関する知識に基づいて、その存在を証明したものです。
 言い換えると、創造主である神+自然法則+エネルギー一体不可分の働きで造られてい
るこの世界の成り立ちと仕組みに関する悟りの知識に基づき、子供でも体験的に知ること
ができる自然法則(+エネルギー)の持つ性質等を直接の手掛かりにして、その存在を証
明したものです。
 この点で、一般法則論での神の存在証明は、循環論法/同義語反復/トートロジーを、
自覚的に意図的に採用しています。
 循環論法/同義語反復/トートロジーと言う意味は、これ以外の知識や権威等に一切頼
る必要がない、これ自体で自己完結し自立している理論だ、ということです。

○従来の宗教宗派でいう神仏の存在証明ではない
 一般法則論でその存在を証明した神は、既に存在している宗教宗派で言う神の存在を指
すものではありません。
 既に存在している宗教宗派で言う神の存在の多くは、その存在証明がなされておらず、
「分からないから信じる」のだし、そもそも存在証明を試みること自体が神に対して不敬であり不遜
な考え方だ、というものです。
 また、その神の存在は、一般法則論で説明する、神の存在について唯一直接知ることが
できる悟りの原理に則って得られるような知識に必ずしも基づいていないものです。
 その神についても、一義的/一意的に明確に確定的に説明されているものではありませ
ん。

 以上で、神の存在証明の再考は、終わります。


11 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
証明そのものよりも (橘 正史)
2006-01-11 04:21:27
トラックバックありがとうございます。



神の存在証明ですか・・・



理屈は簡単ではないでしょうか。



神の存在を理論で証明しようとしても無理。



なぜなら、神は、その定義として「人智を超えた存在」であるから。



また、神を信ずるということは、理論や理屈を信じることではない。



神の臨在を現実のものとして実感し受け入れることである。



心で実感できないものを理屈でとやかく言っても始まらない。



神を感じられない人は、感じられないという実感によって無神論で居ればよいのではないか。



人智を超えたものの存在を仮定しない方が、不合理が生ずるという科学者の意見もある。



「神」の定義自体が実に難しい問題であり、本居宣長も結局は匙を投げている。



日本語の「かみ」

漢字でいう「神」

西洋の「ゴッド」

その他諸々。



人智を超えている存在を定義すること自体が、「群盲象を撫でる」の喩えになってしまうかもしれない。喧嘩をしても始まらない。畏怖の念を知り、つつしみを覚えること。これが宗教の源泉であり、その原点に戻って思量すれば、世に争いなど起こりようがないのではないかと思われます。蛇足ながら。

2-3日お待ち下さい (筆者)
2006-01-16 00:30:08
 コメント有り難う。

 とても良いご指摘でした。



 あなたのご指摘で、一般法則論に到るまでの間の、神について人類が知る歴史の概略を

説明する機会を得ました。

 これは、筆者の予定外/想定外のことでした。

 また、あなたのご指摘で、神の存在を、なぜ、今、ここで、理屈で説明する必要があるかについても、これに話しを絞ってお話しする機会を、ここに作ることができました。

 この話は、神について人類が知る歴史と密接に関連があります。

 これも、筆者の予定外/想定外のことでした。

 そこで、重ねて、あなたにお礼を言います。



 一般法則論で神の存在を理屈で説明する試みは、一言で言えば、人類史的な課題の解決

の為のたたき台になる案を提示することであり、今の時代が要求していることなのです。



 なお、その文については、今、筆者の頭の中にある情報を整理して、文の形にまとめて

いるところです。

 で、もう2~3日待って下さい。

        2006年1月15日 日曜日

              このブログの筆者



神の存在証明は可能である (T.S)
2006-06-20 00:31:20
神の存在証明は可能である、但し人間の言葉では不能である。その証明をなせるのはただ数のみである。しかし、残念ながら10進法手法では駄目である、何故なら、自然の数手法と一致しないからである。そのあたりの事を詳しく知りたいならHP 神の数学・佐藤を一覧されることである。その上で改めて皆さんの前で「神の存在」の証拠を数にて検証し、確証して見たいと思う。ただし、興味本位はお断りする、本気でぶつかってその正体を見たい者に限る。HP「神の数学」はその為の指針である。嘘、偽りは一切無いことを神に欠けて誓うものである。
もっと勉強してください (raku-da)
2006-10-04 03:27:07
証明1:現代の標準的な論理学では「~が存在する」は第2階の述語である。すなわち、たとえ「(あなたの言葉に従えば)一意的/一義的」であろうと単なる概念からは、それが存在するということは出て来ない。これは神についても同じ。∴神は存在しない。

証明2:数学基礎論における論理主義の論理は、2値原理を採用している。これは無限についても把握しているという神の視点からの論理である。それゆえ直観主義者は排中律を捨て、数学の構\築を試みた。もし直観主義の数学が全自然を記述するのに十\分であった場合、自然の存在やエネルギーのようなものから神の存在を導くことはできない。全自然の把握の仕方に関して、論理主義と直観主義は両立可能\である。従って、神は存在するか、存在しないかである。∴神が存在するとは言えない。
スコラ的な議論のなかで神の存在証明を把握したいなら、アンセルムスとデカルトを読むべし。ただしトマス・アクィナスとカントが反論を加えているので、これらの反論に対して説得力のある論証を展開せねばならないが。
論理が苦手なら、聖書のヨブ記(基督教)や、井筒俊彦「イスラーム思想史」(イスラーム)を読むべし。そして、神の存在を認めた上で、あなたの神がこれらの神とどう違うのかを説明しましょう。
こうした話も分からずに神の存在を云々するのは無茶です。
神の存在証明について (intellectuals)
2006-11-17 20:07:35
えーと。ブログにコメントを頂いたものです。大体の線で前の投稿者の方に賛成です。科学と宗教はごっちゃにしない方がよろしい。科学の結論は「神が存在するとはいえない」かもしれないが、「存在しないともいえない」ぐらいのこともいうはずです、科学は。

デカルトの読み直しを試みた柄谷行人の議論は今でも読むに値しますが、もっと「わかりやすい」議論にこの人の議論は直しえます。私の紹介している「単なるキリスト教」をごらん下さい。少なくとも、私はあなたの議論を、この本の議論ほど正しいとは思えません。

私はアクィナスは日本語で読めるか知らず、カントについてはハイネの要約をヨウヤク理解できる程度ですが、こういう議論はなかなか無視できないものです。もう少しいろいろ読まれてみてもよろしいのではないかと。
2007年1月1日の文をお読みください (このブログの筆者)
2007-01-19 12:38:18
 ここに頂いたコメントにまとめて回答する文を、2007.01.01日付の文でまとめてあります。

 神が存在するかしないかを含めて、この世界の成り立ちと仕組みは、私達がこの世に生まれる前に既に全部決められています。
 したがって、この事実、即ち、私たち全てにとって、私達が生きているこの世界に関する唯一絶対普遍かつ不変かつ客観的な事実に反することを、誰も主張することはできません。
 このことをどうしても分からないかたや、気が付かない方が居られます。

 一般法則論者は、この大前提を受け入れた話をしています。

 これを知らない例えば柄谷行人氏の主張など問題外です。
 また、柄谷氏が拠って立つマルクス主義は、創造主である神+自然法則+エネルギー一体不可分の働きで造られているこの世界の何処にもその存在根拠が無い妄想に属するものです。

 神の存在証明は、人がするのではありません。

 人がこの世に生まれる前から既に存在しているいわゆる天然自然の世界の成り立ちと仕組みの解明をしている自然科学は、自然科学者が、天然自然の世界はこうなっていると勝手に決めて思い込んだものを主張しているのではありません。
 天然自然の世界を色々な手段・方法で客観的に観察し観測して、天然自然自身に自らについて語らせたものを記録して、この真偽や正確さを科学をする者同士の間で検証し、これに合格すれば科学的に正確な知識として受け入れる、という方法を採用しています。

 神の存在証明も、自然科学が採用しているのと全く同じ方法で行います。これが、正しい神の存在証明の方法です。
 一般法則論で行っている神の存在証明もこの方法に基づいています。

 もう既に、人類が抱える諸問題の解決には何の役にも立たないと分かっている主義・主張を今さら持ち出しても仕方がないでょう。

 自分の知っていることがこの世界の知識の全てだと言わんばかりの主張を、しかも、多くの場合科学的な真偽の検証も拒否し、させず或いは検証がされていない、根本的に間違っている主義・主張を丸呑みにして、受け売りの話をしてはいけません。

 

  
Unknown (あああああ)
2007-08-05 01:13:08
気持ち悪いよ、それだけ。
神は(おそらく)存在します (tetuzi)
2007-10-06 21:19:01
神は(おそらく)存在します。以下のURLを

www.god-21.com

何故、私がそう思うかこれをご覧頂ければ解ると思います。
全ては私に起きた事です-当然作り事は一切入っていません。
客観的に見ることはできる? (朱鷺腕彩)
2008-07-25 10:35:09
客観的に見るなんていうことは不可能じゃないですか?
あなたがもし客観的に見たとして、それは結局貴方の主観的な見方にすぎないのではないでしょうか?
もし、この神の存在証明をするなら、まずは客観的に見れるということを証明して頂きたいのですが。
神は存在します (catbird)
2010-02-13 01:30:19
神は存在するか。では神とは何でしょうか。その問いに答えるには、まず私とは誰なのか考えなくてはなりません。大抵の人は、これが私ですと自分の体を指すでしょう。では仮に、手が切り取られたらどうでしょう。手と残りの体とでは、どちらが私でしょう。手は私では無く、残りの方が私ですと答えるでしょう。では首が取れたらどうでしょう。首の方が私ですと答えるでしょう。では脳をとりだしたらどうでしょう。脳の方が私ですと答えるでしょう。では脳を半分に切ったらどうでしょう。どちらが私でしょうか。脳を切り刻んだらどうでしょうか。どれが私でしょうか。脳の中のどの部分が私なのでしょうか。そもそも、体の中の物質は、3年に一回全てが入れ替わっています。では、3年後の私は私ではなくなっているのでしょうか。
赤いとか熱い悲しいとか感じている存在が私です。では、赤いとか熱いとかは物質でしょうか。赤い色は、心の外の世界には存在しません。物質の表面に当たって反射する光の波長が存在するだけです。では、音はどうでしょうか。心の外の世界には、色々な波長の空気の振動があるだけです。私たちが感じている音はありません。味はどうでしょう。同様に味もありません。臭いはどうでしょうか。臭い感覚は外の世界にはありません。硬い柔らかいと言う事は、在るでしょうか。それもありません。次々に心が作り出している感じを捨てて行きます。最後に残るのは、この範囲にあるものが存在している、そして時間が経過しここに移動したと言う、時と空間の直感だけです。
しかし、貴方が感じている時空間も、決して心の外にある時空間を、直接感じている訳ではありません。心が作り出した時空間を、感じているのです。仏教では色即是空と言います。貴方が見ているものは、心が作り出したもので、決して心の外にある存在ではありません。心が作り出したものは、消えたりもします。現れたり消えたりするので、是と言った実態はありません。つまり、有でも無でも無く空なのです。物質は無から有は生じません。有か無かのどちらかです。耳から聞こえる音も、鼻から匂う匂いも、舌の味も、肌から受ける触感も5感は全て空であると言っています。概念や意思も空なる存在です。ですから、赤いとか熱いと言った感じは、物質ではありません。幾ら科学が発達して全てを見ることが出来る顕微鏡が出来たとしても、脳の中を覗いたところで、熱いと言う感覚を見ることは出来ません。触ることも出来ません。ただ、私が感じるだけです。
この世の中には、物質でないものも存在しています。もし物質だけであったら、どうでしょう。ロボットは物質だけで出来ています。科学が発達し高性能なロボットが出来たら、人間と同じ反応をするでしょう。世間話をして冗談を言うでしょう。やかんに触れると熱いと言うでしょう。しかし、私たちが感じている熱さを、感じている訳ではありません。何かを感じていると言う事は、人間は物質だけから出来ているのでは無いことを証明しています。
心は外界に出来る限り似せて、心の中に世界を作り出しています。例えば部屋の中で、テレビを見ている様なものです。テレビは、実際の現場に似せて場面を作り出しています。しかし、決して現場そのものを見ている訳ではありません。あくまでも、テレビが作り出した場面を見ているだけです。部屋の中にいる限り、外の現場を直接見ることは出来ません。
花瓶を見たとします。眼が光の刺激を受けて、神経の中を信号が流れ、脳に到達します。脳がその信号を受けて、脳の中の物質の一部が花瓶に対応する動きをします。私は、その花瓶に対応する物質の動きを感じて、花瓶を感じるのです。カメラが光の刺激を受けて、ケーブル及び電波で信号が流れ、テレビに到達し、その信号をテレビが受けて絵や音を作りだし、それを私が見ているのと同じです。
テレビを見ているのが自分です。決して、テレビが自分なのではありません。では、脳と言う物質が私なのでしょうか。花瓶を感じているのが、自分なのです。脳と言う物質そのものが、花瓶を感じているのでしょうか。もしそうなら、そこらに転がっている石も何かを感じているはすです。本当に陽子と中性子の周りを電子が回っている存在が、何かを感じているのでしょうか。熱いとか悲しいと言う感覚は、決して物質ではなく、精神的な存在です。その様な精神的なものを感じている私は、物質ではなく精神的な存在なのです。決して、石や木が何かを感じている訳ではないのです。
テレビが壊れても、修理すればまた見える様になります。見ている私が壊れた訳ではありません。もし見ている私が壊れたのであれば、幾らテレビを修理しても元通りに見える様にはなりません。テレビを修理して、元通りに見える様になったと言うことは、私自身は何も変わってはいなかった事を証明しています。同様にもし病気で脳が壊れて、何も感じなくなったとしても、医学が発達して、脳を直す事が出来る様になれば、また私は前と同じ様に感じることが出来る様になるでしょう。この事は、私は何も変わっていなかったことを証明しています。病気をしても、年を取ってボケても、そして死んでも脳を元の状態に戻せば、元通り感じることが出来るので、私自身は何も変わってはいません。ただ脳が信号を送らなくなったので、何も感じなくなっただけです。テレビが壊れて直せなくなっても、新しいテレビを買えば元通りに見ることが出来ます。脳が死んでなくなっても、新しい脳が私に信号を送る様になれば、また元の通りに感じることが出来ます。
仏教ではこの事を、不生不滅・不増不減・不清不穢と言っています。私自身は、生じるものでも無くなるものでもありません。増えるものでも、減るものでもありません。清くなるものでも、穢れるものでもありません。宇宙の初めから存在しており、宇宙の終わりまで全く変わらずに存在するものです。
死んだ後の状態は、生まれる前の状態と何一つ変わりません。何か違いを指摘できるでしょうか。生まれる前の状態から、人は生まれてきました。死んだ後の状態から生まれることは、何ら不思議なことではありません。私自身は、死んだ後も何ら変わらずに存在しています。ただ、信号を送る脳が無くなったので、何も感じていないだけです。そして、新しい脳が信号を送り出したとき、私は又前と同じ様に感じるでしょう。ただし、人間の脳とは限りませんが。
私が感じている感じは感じ取る事が出来ます。しかし、それを感じている私自身を感じる事ができるでしょうか。達磨はインドから中国に来て、皇帝に「お前は誰か。」と尋ねられました。すると「そんな事は、私は知らない。」と答えました。私自身はどの様にしても感じ取ることは出来ません。
心の中の世界そのものが、私の一部なのです。心の中の世界に居る一人の私が、私なのではありません。仏教では、その1人を小さい私と呼びます。心の中の世界に居る敵も、私の一部なのです。ですから、キリストは汝の敵を愛せよと言ったのです。
人間より遥かに高性能な脳が私に刺激を送る様になれば、もっと豊かな世界が心の中に広がるでしょう。そう言う意味で、現在私が感じている世界は私の一部にしか過ぎないのです。限界はありません。脳と言う物質がどんどん進化して全知全能な物質になり、私に信号を与え出したら、私は全知全能になるはずです。仏教では、仏に成るのではない貴方が仏なのだと言っています。貴方は、自分の存在を疑えますか。デカルトは、全ての事を疑って見ました。しかし、考えている自分の存在だけは疑えないと言いました。