東京は愛せど、なんにもない

たとえあなたがたの思想が敗北しても、あなたがたの思想の誠実が勝利を得なければならない (ツァラトゥストラ)

エルフェンリート(アニメ)

2009年09月14日 | 感想
けっ、またアニメか。と思った人はまずオープニングを見てほしい。

Elfenlied Opening

映像モチーフはクリムト。全ラテン詞のこの歌の題名は「LILIUM」(日本語でユリ)だ。

ユリの花言葉は純潔。

クリムトの主題はエロスと死。

二つの大戦に挟まれた戦間期のウィーンでは、芸術・科学の分野でほとんど奇蹟的ともいえる成果が花開いた。
音楽の新ウィーン学派、クリムトやエゴン・シーレの表現主義、シュレーディンガー、ハイゼンベルク、そしてハイエク。
混乱と動揺の中、この街で西洋的理性への懐疑が生まれた。
(この段落は「ハイエク」池田信夫の最初をまとめた)


代表的な事件を一つ、今度はウィキペディアから抜粋

クリムトは1894年にウィーン大学大講堂の天井画の制作を依頼される。
『学部の絵』と名づけられたこの天井画は『哲学』、『医学』、『法学』の3部からなる。
人間の知性の勝利を高らかに歌いあげるという依頼者が意図したテーマに反し、これら3枚の絵は理性の優越性を否定する寓意に満ちたもので、その是非をめぐり大論争を引き起こした。



翻ってアニメの舞台の古都・鎌倉。


安寧の中の我々は、やはり奢りたかぶっているのではないか。
研究室の面々は我々人類の寓意だろう。
生命体をコントロールして我々の行く先を作り上げる-そんな傲慢。

隔離された研究棟が象徴する人間の理性の優越性・・・それを軽々と乗り越える研究対象たち、そして人間の葛藤。


生殖・恋愛・死。
それらのことすら満足に解決できない我々が「高次の」存在などとはやはり傲慢。

ここでのエロスとは生への衝動、嫉妬や動揺といった端的な恋愛、繋がりへの欲求。

純潔とエロスとはなんぞや、という問いを、このように解釈すれば、このオープニングも自ずと理解できよう。

エロスに対する純潔な思い、それがこの物語の本質であり、全てである。

出来すぎたオープニングテーマに沿って物語を当てはめた、そして見事当てはまった。

もしこの物語を見て、繋がりへの思いに涙したら、また人間の愚かさについて考えてみようじゃないか。
そうでなくても今日も明日も繋がりへの思いに涙している我々なのだから。

「生物と無生物のあいだ」(福岡伸一)

2009年02月22日 | 感想
何千(何万?)個目の感想になるのだろうか。

みなさんご存知、「生物と無生物のあいだ」である。

忙しい人は最後の一章(第15章)だけ読めば著者の言いたいことは全てわかる。

すなわち、生物と無生物の違いは、生物は「動的平衡」を保つ「システム」なのに対し、無生物にはそのようなものがない機械的なメカニズムに過ぎない、ということだ。


このような話は別段新しいものではないが、著者の研究生活に裏打ちされた説得力と理系人としてはかなり人文系の文を読み込んだのだろう美文が、本書に説得力を与えている。

「動的平衡」という考え方は、
ハイエク的な「感覚秩序」あるいは「自生的秩序」の問題である。

人体と社会のアナロジーは古くて新しい。

今後も常に人智の最先端であり続けるだろう。

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名著には違いないが、主題にいたるまでが長すぎて主題をもう少し掘り下げたほうがより哲学的、学際的になってよかったのではないだろうか。よって星四つ。

ひぐらしのなく頃に(感想)

2008年12月14日 | 感想
第一期 ひぐらしのなく頃に

繰り返される惨劇、怖いもの見たさに
回を進めさせる技量は素晴らしい。

第一期は要するに「猟奇アニメ」だ。
随所に不振と不安が散りばめられている。
八つ墓村のイメージ。

圧巻はラストの圭一の「気づき」だ。
違う世界の、違う惨劇に彼らは気付いた。

そしてレナは残り、第二期へ繋がっていくのである。



第二期 ひぐらしのなく頃に~解~

第一期のぶっとんだ最後から
ひとり助かって大人になったレナと
赤坂・大石の再開から話は始まる-

第一期と違って怪奇ホラー色は一気に失せ、
何度も何度も昭和58年6月に惨殺される運命を持つ少女の
ミステリーに軸は移る。

「仲間の大切さ」という少年少女向けの
わかりやすいメッセージに混入して、
繰り返される生と死、
そして謎解きという
大人向けの思考実験と娯楽がスリリングに楽しい。

「ひぐらしのなく頃に」という物語自体が
繰り返される生と死の壮大な実験的アニメならば、
もう少し、繰り返される世界についての洞察が
あってもよかったのではないか。

・・・いや、もしかすると商業的アニメの、
これが限界なのかもしれない。

テレビコントの限界を見つけたように、
テレビアニメの限界を見つけたような気分になってしまった。

私がこれまで見てきた深夜アニメはどれも、
この限界に違う形で挑んで違う形で敗れ、
そのたびに新しい意義を、地平を開拓してきた。

「ひぐらしのなく頃に」はここで終わってしまったが、
限界に敗れたのが問題ではなく、どう敗れたかが問題なのだ。


「たとえあなたがたの思想が敗北しても、
あなたがたの思想の誠実が勝利を得なければならない」 
(ツァラトゥストラよりニーチェ)


そういう意味で「ひぐらしのなく頃に」は誠実なアニメであった。
少なくとも深夜アニメを忌避しない人にはオススメである。

ショーシャンクの空に

2008年11月03日 | 感想
安易な妥協をしなかった感動作、というだけでもう五つ星。

とにかく見てない人は一回見てみてくれ、という程度の名作。

レベルでいうと今まで見た映画のベストいくつかカウントできるくらい&
場所と金があれば是非DVDをほしいくらい。

ベタだが、ご都合主義では決してない名作。

ツタヤの帯に「定番過ぎてごめんなさい!」と書かれれば借りる気が削がれるのだが、どうだろう?

主題は「希望」「友情」。

これだけでベタなのはわかってもらえると思うが、内容は重厚かつ軽快、である。
この辺りの軽重バランスをうまく保った点も大いに評価できよう。

主人公アンディーと後に友人になるレッド。

アンディーは60年前の銀行の副頭取に(たぶん20代で)成れるほどのインテリ。機転が利いてる。

レッドは調達屋。ムショの中の世話役ってところか。

アンディーが決して希望を失わないことへの試練がショーシャンク刑務所で次々に起きる。
もちろんアンディーは塀の中でも希望を失わない大切さを皆に教えようと様々なことをする。

・・・とたぶんこのくらいならよくある話である。
私にとってこの名作の一番おいしい部分は存在感あるレッド(モーガン・フリーマン)の名脇役ぶりだろう。

サバイバルものを見ると結局、この主人公だから生き残れたんだよね、と思いがちだが、
アンディーの場合、レッドや仲間たちの存在は決して小さくは無かったろう。

むしろ、そういう意味ではこの型破りなインテリの新参者を暖かく迎え入れたレッドのような<善き人>こそ、
我々の生涯で求め続けられるべき<希望>なのではないか。

<善き人>とは常識を持った庶民のことである。
酒を飲んで管を巻き、上司に媚び、巨人の監督に文句を言い・・・
そう、彼は何処にでもいる普通の人なのである。

なのであるはずなのだが、どうだろう。

我々が本当に大人になって厚い友情を持った<善き人>にめぐり合えているだろうか。

もちろん、我々自体が<善き人>である、という選択肢もある。

そうであったとして、我々は<希望>を抱いている人を遠くからさり気無く、そう、レッドのようにサポートできるだろうか。


実は、初めの紹介部分にかなり私見を入れたところがある。
この作品の主題として一般的に言われていることは「希望」。
「友情」というのは私見としてこの映画の主題だと思われることだとして書いたのだ。


坂本龍一は「友達付き合いなんて時間のムダ。暇人がやること」といったそうだ。
それも一理ある。私も世間的な友達付き合いなんてほとんど例外なく時間の無駄だと思っている。


それでも、「何か」のために友達付き合いをやめなかった。

ショーシャンク風に言うと、その「何か」とは「希望」なのだろう。


繰り返すが、この作品を見たことが無い人は一度見たほうがいい。

ベタ、だが感動的だ。

「ローマ世界の終焉―ローマ人の物語15」(塩野七生)

2008年04月19日 | 感想
今年6冊目。
4ヶ月で6冊というのは常識的に考えても少なすぎるだろうな。

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「やっと」と言うべきか「とうとう」というべきか。
正直、去年出たこの巻を読むことはためらわれた。
「あの」ローマ人の物語が終ってしまう。
中学時代に松山の中央図書館で第一巻「ローマは一日にして成らず」を何気に手にとってから、
もう何年が経っただろうか。
毎年、次の巻が出るのを首を長くして待っていたのを思い出す。
ただの本と言ってしまうには惜しい、私の多感な時期に多くの収穫を興奮を、感動をくれたシリーズ・・・

この本に出会わなければ世界史はただの暗記科目で終っただろうし、
地図上に現れては消える国や文化の意義を深く考えることなどなかっただろう。

そして、ある日静かにローマは消滅する。
ゆっくり積みあがった砂の山が風に吹き飛ぶように。

そして、最終的に「ローマ人として存在できる基盤」を破壊したのが、
同胞の東ローマ帝国であったという皮肉も、いかにも塩野らしい描き方である。

とにかく、一度15巻全部読んで欲しい。
私ももう一度読み直す。

「ローゼンメイデン トロイメント」(アニメ第二期)

2008年02月17日 | 感想
「これは名作。第一期をはるかに超えて面白い」が書き出しになる予定だったのだが、最後の二話が消化不良気味で不満。

主に、ジュンと真紅を通して人間の成長を描いたのが第一期なら、
ローゼンメイデンたちの対立や葛藤と言った微に入り細に入る心理描写が巧みなのが第二期だ。

ただ、10話までは間違いなく良作。
それとオープニングとエンディングがカッコ良過ぎ。これはすごい。


ここからネタバレを含む感想を書こうと思ったのだが、一応、未完っぽいラストだったので、完結してから書こうと思う。

「金融政策の話」(黒田晁生)

2008年02月16日 | 感想
今年三冊目。

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中央銀行のパンフレット(と言われるのを著者は嫌がるだろうが)としてよくできている。
経済学部卒なら金融の授業の復習になってよいのでは。
下手に日銀が出した本を読むよりもこっちの方が取っ掛かり安い。
著者自身の中央銀行像・論が前面に出ているので、それを追っていけばよいからだ。

読み飛ばしたものの、それは詰まらないからではなくて既知のことが多かったから。
たまにはこういう本で復習しておかないと鈍ってしまう。

「確率的発想法」(小島寛之)

2008年02月03日 | 感想
今年二冊目。

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大阪府池田市石橋。
私の「ありえた未来」はそこにある。
この地の大学受験が浪人も末期になった私の頭に過ぎった。



本書は、前回紹介した「使える!~」とは異なり、万人に薦められるような内容とは言いづらい。
というのも、本書のメインテーマに繋がるのは、ナイトの不確実性を元にベンサム、JSミル、ピグーそしてロールズへと結びつけていく過程であり、これはさすがにミクロ経済学の初歩を知らない人間には厳しいのではないだろうか。

では、本書のメインテーマとは何か。
それは「ありえた未来」である。

私があの時、阪大に進んでいたら、姉と同居していたら、実家が資産家だったら、身体障害者に生まれていたら、モザンビークに生まれていたら・・・
これらの「ありえた未来」とともに、過去の過誤を想定し、自らの運・不運を思うことは、同時に世界の「不平等」について考えることに繋がる。

本書の政治的立場には同意しないが、「ありえた未来」にたいする数理経済学的視野、そして人類の厚生に関するわかりやすい入門書としては非常に良くできている。

「ローゼンメイデン」(アニメ第一期)

2008年02月02日 | 感想
ローゼンメイデンをゴスロリの萌えアニメと思って鑑賞すると、たぶん失望を味わう。

ここで描かれるのはヒネた秀才の不登校児がどのように、少しずつ現実に戻ろうと心を開くか、という過程を・・・などと書くと非常に道徳的で堅苦しい作品のようだが、人形に振り回されるネクラなガキというコミカルな部分がそのような印象を抑えるのに成功している。

例えばこれが、ラブコメのように「救い主」が人間なら、視聴者は「自分もあんなかわいい子がいれば努力するのに」というように作品世界を羨望して視聴者の現実への復帰は断たれてしまうのだが、この物語が秀逸なのは、敢えて人形であることを強調して、現実への復帰を「本人次第」と放置する姿勢ではなかろうか。
(もちろん人形でも宇宙人でも二次元ならところかまず恋してしまうような重症の人間には無意味だろうが・・・)

もちろん、人形たちの愛憎劇からジュンが現実社会への復帰や人間としての優しさを学ぶ契機も生まれるが、それでも「自分を救うのは自分」というコンセプトは、いわゆる安易な「非日常アニメ」が多いなかで特筆すべき点だと思う。


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ウィキペディアよりあらすじ

引きこもりの日々を過ごす少年・桜田ジュン。彼はネット通販で買った商品を、期限ギリギリでクーリングオフしてスリルを楽しむという、鬱屈した性格の少年であった。

ある日、彼は怪しげなダイレクトメールを受け取る。そこに書かれた、「まきますか まきませんか」との問いに、軽い気持ちで応えてしまう。すると翌日、薔薇の装飾金具の付いた重厚な革製の鞄が送り付けられて来た(アニメでは、ジュンの部屋に本人も気付かないうちに忽然と現れた)。

鞄を開けると、中にはまるで生きているかのように精巧に作られたアンティークドール(少女人形)が収まっていた。興味半分にジュンが螺子を巻くと、人形は目覚め、「ローゼンメイデン第5ドール真紅」と名乗り、ジュンに対して、自分と契約して下僕(アニメでは家来)となる事を要求する。

最初こそ真紅の尊大な態度に反発したジュンだったが、突如窓ガラスを割って侵入してきた人形に命を狙われ、訳も分からぬうちに真紅と止む無く契約を交わしてしまう。こうして、真紅に関わる事により薔薇乙女達の争いに巻き込まれてしまったジュンは、様々なドール達やその関係者達との出会いを通じて、その心を成長させていく事になる。


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男として他人に受け入れられないアニメを何故、そんなに見るのかと言われそうだが、見始めたのに深い理由はない。
今回は言い訳を入れさせてもらう。

今回、新たにアニメを見るに当たっての選考基準は以下の通り

・ネット上に英語版があること
・ロボットアニメじゃないこと
・格闘アニメじゃないこと

どうも私は所謂「男の子作品」が大の苦手であるらしい。
思い起こせば幼少の頃、読んでいたマンガ雑誌はジャンプではなく、りぼん。
マンガは「ドラゴンボール」「北斗の拳」じゃなく、「ちびまるこちゃん」「お父さんは心配性」・・・と妹が欲しかったという姉の趣味そのままに育ってしまった。

私はガンダムとか北斗の拳とかスラムダンクとかドラゴンボールとかワンピースとか「男の子」が絶対見て育つべき作品に対する造詣がほとんどない(読んでも忘れる)。
ちなみにゲームはテトリスとソリティアしかできないので、RPGの知識も皆無である。

・・・というわけで消去法的に男臭さが薄い作品を選ぶことになる。

以上、言い訳。

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「使える!確率的思考」(小島寛之)

2008年01月21日 | 感想
あけましておめでとうございます。



今年一冊目。
「新書をまた読んでみようプロジェクト2008」開始。




題名だけを見るといかにも俗っぽいサラリーマン用啓蒙書を思い浮かべるだろう。
しかし、それはすぐに打ち破られることになる。

中学時代から数学ができなかった(全国平均以下だった)人は始めから読んだ方がよいが、私が想定する当ブログの読者であれば、まず標準偏差の説明を最初に読むことを強く勧める。


平均と標準偏差の違いがサーフィンを例えにして非常に明快に語られるところから著者の力量を感じていただきたい。


ベイズ統計、マルチンゲール、モンテカルロ法・・・本書では、最近注目の数学的トピックスが逃さず、しかも俗っぽさを感じさせずに上手にまとめられている。


貨幣とは何か、未来という不確実性に人間はどのように立ち向かっていくものなのか、立ち向かうにはどうすればいいのか、と言った、普通の数理経済学書が敢えて書かない部分をキレイに解説してくれる非常にためになる良著。
ナイト、ケインズ、フリードマン、ルーカスといった不確実性に立ち向かっていった経済学の巨人たちについても、強い敬意を示しつつ、敢えて深く立ち入らないようにエッセンスのみ書き起こしているところにも好感が持てる。



ただし、この一冊だけでは理解は不十分だろうから補完的に他著に当たる必要はあるだろうし、そのための案内も随所で行われている。

また、理系の人には物足りない内容かもしれない。

理系の人が経済学に面白さを感じられるか自信が持てないことが残念だが、それでも、これで700円は誰にとっても高い金額ではないだろう。

「日米開戦の真実 大川周明著『米英東亜侵略史』を読み解く」(佐藤優)

2007年10月16日 | 感想
本書は大川周明による1941年12月のラジオ放送を元にした「米英東亜侵略史」と、それに対して鬼才・佐藤優が現状の世界情勢を踏まえて解説するというものである。

大川周明といえば、偉大な思想家としてよりも、
東京裁判で東条英機の頭を叩いて不起訴になったセコいヤツ、という認識の方が強いのではないか。

私も以前、松本健一の本などで存在は知っていたのだが、いまいち実像を掴みかねていた。
(ちなみに松本健一が評伝にする人物たち自身は非常に魅力的だが、全部において松本の書き方がつまらな過ぎる。松本は事実関係だけに終始して、思想のダイナミズムを汲み取れていない―つまり頭が良くない―のだ。松本以外の人物が同じ人たちを評伝にすれば私はきっと大喜びで読む。)


真珠湾攻撃当初の熱狂をよそに、「戦前」という言葉から我々が想像できないほど理知的で説得的な大川の口語りが現代に蘇ったことはとても大きな意味を持つ。

佐藤の言うとおり、大川の筆致を見る限り、大川が極東国際軍事裁判に出廷して日本の正当性と米英の不当性を訴えたなら米英の大義と日本の大義を互角に持っていっただろう。

まず、大川の部分に関して言えば、世界史を一通り学んだものにとっては常識的な議論ばかりである。
ただし、我々が忘れがちな「欧米による東アジア進出を(結果的にせよ)阻止した日本」という図式がある。

しかし、この議論を敷衍して出てくる「アジア解放のためのアジア一時占領」という日本の論理は、佐藤の指摘を俟つまでもなく、他国に受け入れられる性質のものではない。

戦前の京都学派が陥ったこの論理の罠に対して、
「東アジア共同体」という枠組み自体が不可能であると佐藤は指摘する。

私はこの指摘に全面的に同意する。

また、大川の天皇観について「多元世界を担保する普遍的原理」とし、大川を日本のアジア征服、排外国粋主義などと無縁の存在として、多元世界のなかでの各文明圏の棲み分けを主張した人類共存の思想を提唱したと評価する佐藤の力量はさすがと言える。


・・・本書で惜しむらくは、北畠親房と大川周明という稀代の思想家たちを取り上げて有終の美を飾れるはずにも拘らず、藤原正彦の与太話を真に受けたり、アメリカ=新自由主義=弱肉強食=普遍主義といったあまりに単純な理論構成に陥っている部分である。

佐藤が擁護するする「日本」という文明圏の素晴らしさは、古来はインドの仏教、中国の律令体制・儒教・漢字、近代の法制度・科学技術といった「普遍主義」の産物を独自の形に取り込み、発展させることに成功したことに尽きるのだから。

しかし、佐藤ほどの論客でもこのような一段階論理の罠に陥ってしまうことは悲しいが、それだけ、普遍と独自の融合という私自身の課題が
ますます重要さ、緊急さを帯びてきているということの証左でもあり、非常に励みになった。

とはいえやはり、これらの部分はカットしておいた方が後世の評価のためによかった。
佐藤優は外交を語らせたり思想を解説したら一流だが、政治経済現象の記述が稚拙であることを編集サイドも正確に認識しなくてはならないだろう。

涼宮ハルヒの憂鬱をいきなり全部見た

2007年09月29日 | 感想
ハルヒは俺の嫁
ハルヒ、テラカワユス
ハルヒktkr


最近のアニメがこんなんばっかりなら俺もうアニヲタになっていいよ(本気)。


-------------真面目に感想を。

本当の感想はあと20回ずつくらい見てから書く。

「涼宮ハルヒの憂鬱」という名前はアチコチで聞いていたので知っていた。
内容的には「すごいよ!!マサルさん」のようなものでトンでてイタい人たちに主人公が冷静に突っ込みを入れ続けるというものだと思っていた。
実際、ほんの少し似ているのだが、大きく違う点はマサルさんが全く常識の範囲外の人間であるのと比べて、ハルヒは過剰ともいえるくらい常識人であり、しかし、だからこそ常識外の存在に対して夢を描く、というものである。
そういう面ではフーミンのマサルさんへのツッコミがストレートかつノーテンキなのに対して、キョンのハルヒへのツッコミはシニカルだったり、あくまで暴走を止める意図のものであるわけだ。
それゆえにこそ単純に「すごいよ!!ハルヒさん」ではなく、涼宮ハルヒの「憂鬱」になっているわけだ。
彼女は生真面目な常識人でありすぎるため、常識外の存在を夢見る。しかし、日常的に生活している我々の「世界」にそんなものがあるわけがないからだ。

しかし、それではただの退屈している現代人の一人に過ぎない(ハルヒの自己分析はそうなっている)のだが、ここでこの物語を物語らしくしているのは、ハルヒに願望を無意識のうちに叶えるような「なにか」があることである。


また、これら常識内の人間の孤独を「世界」外への渇望ではなく、「世界」内へ回帰させるものは一言で「恋」しかない。
それは広義なものだが、現実世界に没頭できるものがあることだけが我々を世界の破滅願望から遠ざけているのだから。
特に人間同士の恋愛は最大のものであり、キョンの「なぜ俺が選ばれたのか」という問いは自明のこととなる。

つまり、ハルヒは世界の破滅ではなく、人間と人間の恋愛という一般的高校生の欲求を通して世界の存亡を切望しているのだ(もちろんそういうシーンが一度だけある)。

・・・とまあここまで書いて、ハルヒが面白いと教えてくれた星の岡、ニコニコに落ちていると教えてくれた(ほとんどyoutubeでみたけど)新高円寺(元田端)、とてもありがとう。
おかげで新しい境地に達した気がする。悪い意味でかも知れんが・・・

小泉純一郎 ポピュリズムの研究―その戦略と手法(大嶽 秀夫)

2007年09月12日 | 感想
何故、小泉だったのか。
何故、小泉だけだったのか。

この一年間の疑問に初めて真剣に取り組みことになったのが本書である。
読了日が昨日:9月11日(歴史的事件:2001年米同時多発テロ・2005年郵政選挙で自民圧勝)
そして感想を書く今日が、彼の後継首相が低支持率にギブアップした日であることは
あまりにもできすぎた偶然である。

本書は小泉純一郎におけるポピュリズムとはなんであったのか、ということを明確に示している。


何故、小泉だったのか。

この問いに答えるのは実は簡単である。

森喜朗というあまりにもプロトタイプな従来型の政治家がスキャンダラスまみれに陥った後、
日本国民は森とは逆のイメージを求めるしかなかった。

クリーンで力強い―この条件に該当するイメージのある政治家は小泉以外いなかったのである。


しかし、何故、小泉「だけ」だったのか、
という問いに答えるのはかなりの困難を伴う作業ではないだろうか。

つまり過去にもクリーンなイメージを前面に出して躍進したり、最終的に首相までなった人間はいた。
それが河野であり土井であり細川である(菅直人も入れてよいだろう)。

また、国民的人気を長期間持続した人間もいた(例:田中角栄)。

そして、国民にとって痛みの伴う改革を行った政治家もいた(例:橋本龍太郎)。

ところが、国民的人気を長期間持続した上に、
国民にとって痛みの伴う改革を行った政治家は、小泉以外にいないのである。


この本で書かれていることは基本的にポピュリズムの構造と具体例である。
実は小泉の政策は橋本派の壊滅に他ならなかったという点は参考になる。
また、彼の政治手法などを中立的に研究しており、後続の研究のよき里程標になるだろう。

しかし、私としては小泉の本当の狙いにもっと興味がある。
小泉が何を狙って、首相を演じえたのか。
そして、5年にわたる長期に国民を酔わせ続けた「政治演劇」の魔力と魅力。

本来の政治とは何か、そして大衆心理と日本人の構造。
現代日本を研究する上でも小泉はホットかつ永遠のテーマであるし、
本書はそのナビゲーターとなりうる。


次の首相の話をする暇に、前の首相のことを話した方がよい。

Maison Ikkoku 4 [Rumiko Takahashi]

2007年08月27日 | 感想
Maison Ikkoku4(全15巻)では、3に続きどんどん話が流れ、大事件が勃発。
一応収束するところまで描かれている。

この作者は嫉妬の描写が非常に巧い。
単純に怒っているのなら怒りをぶちまけたり、会わないようにしたりすればいいのに、そうではなくわざわざ冷たい態度を披露しようとする嫉妬の不思議さを巧く描写できている。
LIKEではなくLOVEであることの重要な条件としての嫉妬。
会ったり、会わなかったり、避けたり、笑ったり・・・すべての恋愛模様が広い意味での嫉妬で構成されているのかもしれない。
広い意味での嫉妬とは、法的にも血縁的にも何の裏づけもない関係―紐帯の細い糸を確かめられないという焦燥と不安が複雑な回路を通してできたホントに絶妙な感情表現なのだ。

この微妙な感情を上手にhandleできているのは現時点ではMitaka Coachだろう。
Kyokoの態度を嫉妬だと上手に見抜いて、時間をかけて待つことによって、嫉妬を自分への想いに転化させようとできる辺りさすがである。
彼がeducationalyだけでなくpersonalyにもwiseであることは、Kyokoの想いをまったく理解できない若きGodaiの今後の最大の致命傷になりうる(というかこの巻ですでになった)。

そして、自らのTwotimingに悩むGodaiくんである。
Kyokoさんは自らTwotimingを行いながら、男たちにはそれを許さない―しかも自ら手を下さずに。
怒ることしかできないPoor Godai、しかしその純情さが彼を「いい男」にしていることが重要だ。

嫉妬は人を傷つける。しかし、Godaiくんの人間性は嫉妬によって明らかに磨かれていっている。

Godaiくんは"If there wasn't any KYOKO...I'd fall in love with you,KOZUE"と考えるが、

私は逆に"If there wasn't any KYOKO...would KOZUE fall in love with GODAI, SO MUCH?"と思ってしまう。

このような嫉妬の効用は確かに理想論かもしれないが、恋愛の、そして全ての人間関係の本来あるべき姿なのではないか。
ドロドロの恋愛劇をコメディタッチで、しかもリアルに描けることは既に倫理的ですらある。
作者の技量に脱帽せざるを得ない。

Maison Ikkoku 03 [Rumiko Takahashi]

2007年08月27日 | 感想
名作・「めぞん一刻」の英語版第3巻(15巻中)。
これまでを「起」とすると、この巻からは「承」。
いままでゆっくり流れていた水が急流に入ってきます(特に「A FAMILY AFFAIR」以降)。

未亡人Kyokoさんの複雑な心変わりの過程が見事なまでの巧妙さで描写されています。
この辺りの微妙な心理描写、男にはできまい。
また、男の論理でこのあたりのことをよーく考え始めると一気に論理の城が瓦解することになる。女性には割とすっきり読めるようだが。


そして、これまでおしとやかで完璧な女性として「ガラスケースの中のお人形さんのような」描かれ方だったKyokoさんが激しい気性と強気の女性として描かれ始めます。

この辺りを補足すると、一般的に男マンガでのヒロインの役割は主人公に従順な「ガラスケースの中のお人形さん」で問題ないはずなのだ。
それを敢えて読者に迎合せずKyokoさんのマイナス面を堂々と提出するあたりが作者の良識なのだろうし、またこのマンガをしてマンガ史上に残るヒット作にした上、KyokoさんとGodaiくんをしてマンガ史上に残るヒロイン・ヒーローの地位まで押し上げたのだろう。

また、前述の「マイナス面」はもちろん想いが純粋という最大のプラス面に転化され次巻のドラマへと次々にテンションを上げながら進行していくのだ。