教育放談

学校教育についてさまざまな視点から考えようとしています。

暴走政権に歯止めを

2017年06月30日 | Weblog

 この数年間、政治の暴走ぶりと劣化をおぞましいものを見るような憂鬱な思いにとらわ
れながら眺めてきたが、ここに来て、国民の多くにもその憂鬱の正体がわかってきたので
はないかと見ている。
 憲法に記されている通り、閣僚であれ、官僚であれ、公務員は「全体の奉仕者であって、
一部の奉仕者ではない」はずなのに、“私(わたくし)”の都合で政策をいじりまわす、
文字通りの恣(ほしいまま)の姿に慨嘆しつつ、驚きを通り越して怖れをようやく感じ始
めている人々が多くなっているのではないかと思われるからだ。
 どこからどう見ても戦後最低・最悪の政権であると見るのは私ひとりではあるまい。
 小中学生でもわかるような、公民の基本的な考え(民主主義の理念や権利についての考
え、政治の仕組みのあれこれに関する知識等々)について、無知・無視とも言えるような
さまざまな言動を見るにつけ、議員の劣化が甚だしいと言わざるを得ない。
 それは取りも直さず、リーダーの無知と無恥がもたらす傲慢で乱暴な姿勢を見て、下が
それに倣うからこそ生まれた「劣化」であると言っても過言ではないだろう。
 この国の現在のリーダーは、「議論」や「説明」、「謝罪」という言葉の概念についての
理解が浅薄なようだが、浅薄どころか言葉の意味を取り違えていながら、あっけらかんと
自らの誤った理解を他に押しつけるという“やんちゃぶり”を幾度となく露呈している。
 
 支持率が急低下したことを受けて先日(19日)に行った会見でも、表向きは反省とい
う言葉を口にしていながら、 『印象操作のような議論に対して、つい強い口調で反論し
てしまい、政策論争以外の話を盛り上げてしまった』と、まともな議論ができなかったの
は、加計学園の獣医学部新設について自分の働きかけがあったのでは?と追及する野党の
姿勢が原因だというかのような発言をし、まるで反省などしていないということを国民の
多くに知らしめてしまい、「反省」という言葉の意味や重みを理解していない人物である
ことをさらけ出してしまった。
 また、同じ会見の中で、『「信なくば立たず」だ。何か指摘があれば、その都度真摯に
説明責任を果たしていく。』と口にしたものの、先日来からの稲田防衛大臣の憲法違反に
問われかねない発言に野党から罷免要求や臨時国会召集、閉会中審査実施を要求が出され
ても、拒否するといった姿勢からは、“丁寧あるいは真摯に説明”しようという意思は窺
うことはできない。(もっとも、説明をすると言って、何の説明もしないのは、この人物
のいつもの姿だが・・・)
おそらく「説明」という言葉の意味がわかっていないのだろう。
 
 国会が議論の場であり、言葉を尽くして意見を戦わせる場でありながら、空虚な言葉ば
かりが飛び交い、前言を覆しても、それ自体問題ではないという開き直りにも似た「傲慢
さ」「不遜さ」「横柄さ」からは、“国と国民のためにという奉仕する”立場にあるという
自覚が微塵も感じられない。
 前言を翻すと言えば、これは誰が見ても万事休すだろうと思われることを平然と言って
のけたのを見て、驚き呆れてしまった。
 それは他でもない「加計学園」に関する問題について、『権限を一切行使することも、
全く関わることもなく、自分とは全く関係ないところで行われたものだ』と説明してきた
にもかかわらず、その当の本人が『1校に限定して特区を認めた中途半端な妥協が、結果
として国民的な疑念を招く一因となった~。今治市だけに限定する必要は全くない。地域
に関係なく、2校でも3校でも、意欲あるところにはどんどん新設を認めていく』と自分
の権限をもってすれば新設が可能なのだ、とあたかも「自分が関わり認可したもの」と認
める発言をしたからだ。
 これだけでもこの内閣を不信任に追い込める一大事だが、一方でこの政権の持つ恐ろし
い面も浮き彫りになった。
 それは、この発言が安倍氏を庇い支えてきた和泉洋人・内閣総理大臣補佐官とか官房副
長官といった人々の労(それ自体も問題ですが)を全否定し切り捨てるかのような振る舞
いだからだ。つまり自分にとって“都合が悪くなれば”、どんなに協力、支持、支援した
存在であっても、いとも簡単に切って捨てることに何の痛痒も感じない特権意識をバック
ボーンに持った人物が首相だということを自らさらけ出してしまったのだ。

 それはともかく、論理の矛盾どころか、白を黒と言い換えても、それ自体何の問題もな
いとする自己肥大の感覚、正当に関する感覚の欠如が、この暴走政権のエネルギーの正体
だと言っても過言ではないと私は見ている。
 失言があっても「撤回」や「謝罪」をし、いっときの風が収まればまたぞろ同じような
失言が繰り返されるのも、根っこにあるエネルギーとベクトル、つまり本音が撤回された
り修正されたりすることがないからであることは明々白々。
 そうした政権のもとで乱暴な手法で急ぎ成立させられた各法は、いずれその時々の恣意
的な理由を盾に、国民と国を窮地に追い込むようなものになることも想像に難くない。
 文字通り、権力を「私(わたくし)」して「恣(ほしいまま)」にしようとする政権で
あること窺わせるような場面をイヤと言うほど多く見てきたからである。
 成立時に言い訳のようになされる『国益』『国民の安全のため』という言葉を迂闊に信
じてはいけない、と気づき始めた国民の意識の変容が不支持率の増加につながっているの
ではないだろうか。
 
 説明することを「自分の主張を一方的に言い募ること」と勘違いし、議論を「自分の説
を受け容れさせる手段と場」という誤謬に立脚しているからこそ、問題点を指摘されると
イラ立ち、声を大にして議論とは無関係な相手の瑕疵を言い立て、野次を飛ばしてでも自
分の正当性を押し通そうと強引な手段に出るのだ。
 それは自分の主張が通らないと、『なぜボクちゃんの言うことがわからないのか』とば
かりに手足をジタバタさせて我を通そうとする“わがままなお坊ちゃん”の姿そのもの。
わがままで冷酷だからこそ、自分に寄り添ってくる者を大切にし、その一方でお友達であ
ってもいったん都合が悪くなれば容易に切って捨てることができるのだろう。
 そんな危うい感覚で一国の政治を司り、特権意識をベースにした「都合の良い仕組み」
をつくりあげることに走られたのでは、この国が戦後70年にわたって営々と築き上げて
きた平和国家、民主国家などたまったものではないし、先人にそして私たちに続く子々孫
々に申し訳が立たないだろう。

 人々は損得に対する感性だけで生きているのでもないし、そうした感性に共感するわけ
ではない。それ以上に正邪に対する感性を大切にし、正であることを喜んで受け容れよう
とするまっとうな感覚を大切にしようと生きているのだ。
私たちが「若者たちがスポーツなどにひたむきに取り組む姿」や「ドラマや映画で前向き
に生きようとがんばる姿」に共感し、応援し、感動を覚えるのは、そうした感性を精神風
土の根っこに持っているからだ。

 だからこそ、一国主義に走ろうとする姿勢やカネをちらつかせて経済効果だけを言い募
る姿勢(アベノミクスも成果を出してはいないが)に疑いを持ち始め、支持率の低下とい
う現象につながっているのだと思われる。
 この戦前・戦中の時代をノスタルジックに希求する、特権意識を背景にした憲法違反の
政権にノーを突きつけ、後世に禍根を残さないためにも、今できることを見極め、しっか
りと「正しさ」「よさ」に向かう本来の感性を尊重して、意見を主張していかなければな
らないと痛感する次第である。

ジャンル:
ウェブログ
コメント   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« これが答弁? | トップ | 都議選で自民党大敗 »
最近の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事

トラックバック

この記事のトラックバック  Ping-URL