三無主義

 ~ディスパレートな日々~

映画「無限の住人」

2017年04月29日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「無限の住人」を観た。
http://wwws.warnerbros.co.jp/mugen/sp/

 モノクロの出だしはなかなかだったが、そのあとがいけない。可哀想な妹を語る兄の複雑な心情をまったく感じさせない棒読みの台詞。このシーンを観た段階で、この映画はこれまでの木村拓哉の演技から1ミリも抜け出していない、つまりキムタク率100%の作品だと気づいてしまった。
 そうなると興味は他の出演者やストーリーとなる。大勢を相手の殺陣シーンはそこそこの迫力で、その後の山本陽子の八百比丘尼とのやり取りもまあまあ。それから先は豪華な競演陣が次々に登場しては消える展開だったが、どの登場人物も人物造形が浅薄で、それぞれの人生を感じさせるものがない。その中でも一番底の浅い人物が主人公なのだから、これはもう救いようがない。ストーリーも一本調子で何のヒネリもなかった。

 ただ、この映画で気付いたことがひとつ。既にみんな知っていることなのかもしれないが、木村拓哉の台詞は常に本音だということ。
 大人は世の中に様々な価値観があって、どれが正解とも言い難いことを知っている。そして人間同士には人間関係や立場というものがあり、本音を言い合えばいいという訳でもないことを知っている。だから思っていることをそのまま口にするよりも、言葉を選ぶことの方が多い。
 ところがキムタクはひとつの価値観でひとつの台詞。相克する価値観を止揚するための苦悩などまったく見られない。簡単に言うと、哲学がない。つまり子供の台詞なのだ。彼の台詞にどうしても感じてしまう底の浅さは、そこに由来する。木村拓哉という人に哲学があるのかないのかは知らないが、演じる役柄には残念ながら深い思索が認められない。

 この作品も例外ではなく、主人公の造形にも台詞にも奥行きがないから、作品自体も立体感に欠けるものになってしまった。思い切って台詞を極端に削ってしまえば底の浅さは露呈しなかっただろう。観客が勝手に主人公の心情や苦悩を想像するからだ。昭和の映画はよくこの手法を使っていた。しかしそれには役者の無言の演技力が要求される。キムタクにそれを求めるのは酷しい。
 キムタクだけでなく他の登場人物も説明過多で類型化されていて、本来は演技が達者な筈の脇役陣だが、演じる役柄が平面的で、マンガならそれでいいのかもしれないが、映画としては実写の特性を生かせず、非常に残念だった。
 演出にも問題があったということで、強ちキムタクだけに原因があるとは言えないが、ここ数年観た映画の中で最も不出来の作品だったのは間違いないところだ。

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