ひょうたん酒場のひとりごと

ひょうたん島独立国/島民のひとりごとをブログで。

被爆者は国宝

2017年06月20日 14時44分40秒 | 日記
この前の土曜日(17日)、原爆の語り部・Sさん(女性)が、高校生を相手にして原爆体験を語る「会」に参加した。当のSさんから、その開催を知らせてきたのだ。

これまでSさんには、2度取材させて頂き、原稿にもさせてもらっている。大よそのことは知っていたが、今回は、お会いするのが久しぶりだったことと、高校生が相手で、マスコミの取材も入るということにも興味を持ち、参加となった。

最初の取材当時は82歳。今年ちょうど90歳になるというから、“あれから8年経つのか“と、一瞬、時の流れを思った。が、ご本人は、骨折で、入院先から出かけてきたということで、車椅子に乗ってはいるものの、いたって元気風に、最初は見えた。

ただ、話し出して…、その声が、以前より元気なく、そうしてみれば、車椅子の中の身体も、若干、小さく、細くなったように感じられたのもまた事実であった。

肝心の高校生の聴衆が3人。他には、我々のようなSさんに縁の人間達、会を主催した平和団体の関係者や取材関係者(2社)といった面々で、“昨夜は緊張で眠れなかった”という、その分だけ、3人という目の前の現実に、今一つ話に熱が入らないということもあったのかもしれない。

それでも、通常1時間はかかるという話を40分程度に凝縮させ、高校生からの質問にもしっかりと応じている。“最後になるかもしれない”という語り部を全うした。

ところで、この会に、もう一人被爆者の男性も出席されていた。88歳になるといい、Sさんが爆心地から約2キロ、まさに、かのきのこ雲に覆われた地点での被爆だったのに対して、この男性は約4キロでの被爆だったという。今、男性氏は振り返る。

「Sさんは全身ケロイド状になったけれども、私は表面的には何ともなかった。しかしながら、被爆者であることには変わりなく、いつ、がんや白血病のような症状が出て来るのか、時限爆弾を抱えているような心境でこれまで生きてきた」

「子どもが生まれた時に被爆者であることを初めて妻に伝えた。“知ってたわよ”と返された時には心底ほっとした、それほど隠すことを宿命だと受け止めなければならなかった。そしてこの血は自分の子供達や、その孫達に、被爆者2世、3世として確実に受け継がれていく。」

「今、私達は、戦争や原爆で亡くなった犠牲者の代わりに生きている、代わって生きる責任があるとの想いをずっと抱き続けてきた。高校生諸君には訴えたい。被爆者であろうとなかろうと、人間には生きる責任がある。だから多様な生命を共有しようじゃないか。」

「私達しか戦争や核に反対と言える者はいない、といった強い信念で、過去、核禁止の国際会議にも出席してきた。今、ニューヨーク国連本部で核兵器禁止条約の交渉会議が進んでいるが、それに日本政府は欠席を表明した。断固非難する。人類がよりよい環境で生きられるよう、2度と被爆者を出さないようにする責任が私達にはある。そのために一緒に頑張ろう、頼むぞ高校生諸君。」

年齢に似合わない野太い、大きな声で訴え続けた男性氏、最後にはこうも言った。

「今なお生きてる被爆者は国宝。核開発が可能になるような国になったら、国宝どころか、ただのクズ…。」

被爆者の不屈の精神が込められているようで、重く響いた。

大阪原水協事務局長、及び京都造形芸術大学客員教授の肩書を持つ男性も参加していた。同大には、文明哲学研究所なる、核廃絶に向けた拠点があるという。ネットで確認することを約した。

(シャープ)ブンゴウ
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