ひょうたん酒場のひとりごと

ひょうたん島独立国/島民のひとりごとをブログで。

何と、何と、またもや家族葬

2012年01月11日 15時42分58秒 | 日記
先月の義父の逝去からやっと3週間が経ったばかりの今月7日、今度は義母が逝った。84歳だった。かくして、ここひと月内に2つの葬儀を出す仕儀に。

義母は認知症を患い、グループホームに入所して7年目に入っていた。これまた義父にしたのと同様に、女房は決まって週1、私は時折、訪っていたのだったが、ここ1年は我々の顔を見ても殆ど無表情、誰が誰かの識別はつかなくなっている感じであった。

死因は、誤嚥下窒息死。仰々しい名称であるが、要は食べ物を飲み込む力が弱くなっていて、その日の昼食時、うまく喉を通らすことが出来ず、詰まらせたらしい。救急車で運び込まれる途中に心肺停止となり、おそらくその時点で息絶えたと思われる。私と女房が病院に駆けつけた時は既に骸となっていて、すぐに医者から死亡時刻を告げられた。1時20分。施設よりの異常発生の連絡を受けてから1時間と経っていなかった。

義父もあっけなかったが、義母はそれ以上にあっけない死に際ではあった。女房が言うには、生前、俗に“ぽっくり寺”と言われる近くにあるお寺にせっせとお参りしていたからその効き目があったのだろう、と。

それはともかく、“ほんとに仲が良かったんだね”ということばは、お悔やみを頂いたほぼ全員から頂戴した。また、すでに正常でなくなった頭脳状態にあっても、連れ合いの異変を知るようなテレパシーを感受することはあるらしい、といった説にも接している。いずれにせよ、本当に通じ合いのあった夫婦関係を象徴するものだったことは間違いないだろう。葬儀で導師をして頂いた我々に縁の寺の住職には、「こんなに短時間にご夫婦が手を携えるように逝かれ、葬儀をするのは初めての体験です」と言われている。

長年徳島で、小学校の教員をしていた。式後、女房が義母の遺品を整理している中に、その頃の教え子の成績や素行を事細かく記した閻魔帳や、それ以前の女学校時代の成績表なども出てきて、几帳面で教育熱心だった義母の一面を改めて知る思いだった。

今回も家族葬だったにも拘わらず、そうした30数年前の教え子の中のお2人(1年生の時に受け持った男性と女性)が駆けつけてくれた。共に奈良の地に住み、義母が発症する10年前くらいまではいろいろと彼らの相談を受けたり、あるいは何かがあれば一緒に出掛けたりと、ずっと親交を保った方達である。

立て続けに実の両親を亡くし、心身共に参っていた女房にとって、出棺の際、涙で頬をくしゃくしゃにしながら我々の家族と一緒に棺に花を添えてくれたそんな彼らの存在が、“教師名利につきる”とばかり、同じ教師としての思いが重なったのか、一番の慰めとなったようではあった。

式は義父の時と同じく地元の葬儀社・K社で取り行った。その折、懇切丁寧に取り仕切ってくれた、かの若い男性に今回も敢えて担当して頂いた。“葬儀社と親しくなってっもねえ‐‐”という、娘の弁はあったりしたのだったが。

(シャープ)ブンゴウ
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言葉の力

2012年01月05日 15時44分54秒 | 日記
この年末年始には、実に頻繁にこのフレーズを聞いたような気がする。世界に目を向ければ、ニューヨークのウォール街を占拠し、格差社会の不条理を訴えた“99%”ゾーンの若者達にしても、あるいはチュニジアの動向に触発され、ジャスミン革命を呼びかけた中国の隠れ民主化運動家にしても、共にインターネット発信、つまりは言葉を発端としてその共感の輪を広げたという意味合いにおいて、使われた。

日本国内だと、”頑張ろう、東北!頑張ろう、日本!“などは、その代表格とも言えたろう。事実、これによって、昨年の漢字、“絆”は深まり、久しく忘れていた、家族、隣組、地域、等々のいろんなタイプの連帯が復活して“1つ”になれたとされる。なでしこジャパンが実証した。

おそらくそれ自体は結構なことなのだろうし、言葉でコミュニケーションを成立させる人の原点を思い起こさせるようで、尊くもあった。

けれど、それが繰り返し語られ、いよいよ強固になってくると、私の場合には“ちょっと、待てよ”的なあまのじゃく感が擡げてきてしまう。そこに見られる、みんながみんな、諸手を挙げて1つに固まる兆候に何か違和感を覚えてしまうのだ。そういう意味で、大晦日の紅白“歌の力・あしたを歌おう”での、ややオーバーに言えば、全歌手、全曲が同一の方向に収斂されていった様に、それは極点に達している。

要するに、1つの幻想としか言えないイメージに向かって、例えばメディアの総てが発信し、受け取る側は、それに乗り遅れまいと、己の事情はひとまずおいて、ステレオタイプに自分を馴らしていく、あるいは馴らされていく。ついでながら、次元は違うけれども、昨年、選挙で大勝した1地方都市の首長に、国政レベルの政治家の大勢がそれまでの言説を翻して無節操に擦り寄っていったのにも、同じ臭いを嗅ぐのだが、こんな構図にはいずれも醜悪なものを感じ、嫌悪感を抱いてしまうのだ。

かと言って、“では、そこでお前さんはどうするの?”と言われると、たじたじとなってしまうが、しかし、そこに潜む危険性だけは感じ続けていたいと思う。その行き着く先がどんな状態に陥るのか。近くは、半世紀以上前の、ドイツで、日本で、それは既に検証されていると考えるからにほかならない。

私の知見の及ぶ範囲では、言葉は、言語とも置き換えられて述べられもするが、一括りに出来ない多様な側面があるようだ。例えば、若い頃読んだ吉本隆明の『言語にとって美とは何か』では、言葉が指示表出と自己表出という2軸で解析されようとしていた(結論的に、超難解で、私には殆ど理解出来なかった)し、政治的言語と詩的言語という対置の中で、あるいは、日常的言語と詩的言語という概念の下に、これを解明しようとする文芸評論家や哲学者の存在もある。

共通して言えることは、言葉は、基本的には伝達機能と芸術的機能(小説や詩等)とに分けられるらしいということだ。であるならば、今後とも何としてでも後者の機能に関わっていこうとしている私は、今ここにある“危険性”に、”私なりの言葉の力”を形にして、対峙していきたいと思わずにはいられない。

それが、私に出来るせいいっぱいのことだし、逆に言えば今はそれしかない。

未曾有の危機が未だ冷めやらず、なお困難が継続する年の幕開けの、これを新たなる決意と覚悟にしたいという思いでも、いる。

(シャープ)ブンゴウ
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年の終わりに

2011年12月30日 14時22分22秒 | 日記
今月18日のPM2:39分、女房の父親(義父)が亡くなった。享年86歳。先立つ14日に入院したばかり、その4日後のことだから、全く苦しむこともなく、逝った。実は、救急病院に担ぎ込まれた時には、殆ど脳死状態にあったという。

義父は30数年間、我々と同居した。我々夫婦の間に第2子が誕生するのをきっかけに、義母と共に徳島を後にしている。爾来、共働きの我々に代わって、義母と一緒に、2人の孫の世話をしてくれ、成長させてくれた。それに、私にだって、日本棋院2段認定という実力をもって、囲碁の手ほどきを授けてくれたりしている。これがどれだけ私の世界を拡げてくれたことか。

3年前から介護施設・グループホームに入所していた。それより前に認知症をもって介護施設に入所した義母への、在宅時における面倒見の疲れも出たせいか、心身の衰弱が激しく、終には幻覚を見るようになったのに及んで、依然勤めを持っている女房が、施設に入れるという苦渋の決断をしたのだった。

施設に入った義父は、24時間付き添ってくれるスタッフの存在や、同年代の入所者との共同生活の効果もあってか、見る見る回復し、入ってから半年後には、以前と変わらない精神状態になっていた。その義父を、女房は決まって週1回、時に、私や私の家の近くに住むようになった娘が末の孫娘を伴って、この3年間、見舞い続けた。

異変が起きたのは、救急入院の2時間前と言うから、午後の8時過ぎか。介護施設から通報があり、それによると状況的には、義父が自分の個室で脳梗塞を起こして倒れ(この時の音がすごく、スタッフがすぐ部屋に駆けつけてくれたらしい)、脳挫傷を誘って、くも膜下出血状態になった、と。最終的な医師の死亡診断書には直接死因を脳ヘルニアと認めてあったが、この時点で既に脳死状態に陥っていたようだったのだ。

直近まで、多少歩行が覚束なくなっていたことは否めなかったけれど、元気この上なかったし、その意味では突然死に近く、永訣の言葉を交わす時間を持てなかった悔しさは残ったのも確かだったが、かかる次第で、何の苦痛の間も経ずに逝けたことを、年齢に合わせ、女房とは、それだけが救いだったと語り合ったものである。

翌、19日が通夜、20日に葬儀・告別式と、慌ただしく過ぎた。これは偏に、生前の故人の遺志を尊重して家族葬としたい、とりわけ、東京に住む息子に一目死顔を見せたいとする女房の意志に従った結果で、その息子のスケジュールとの兼ね合いから極めてタイトな日程とならざるを得なかった。

結局息子は、19日の深夜に戻り、地元の葬儀社・K社の、通夜で設けらた祭壇に横たわる義父と対面している。これには、私夫婦と娘も居合わせ、何年か振りの、義父を挟み、4人だけの時間を過ごし、それぞれが“世話”になった故人を偲んだ。そして息子は、翌日、11時からの葬儀に出席することもままならず、早朝、そそくさと東京に引き返したのである。

ところで、葬式は、私が初めてとなる喪主を務めたわけだが、当然ながら、初めて知ることが多かった。まず、家族葬とは言っても、一般葬と、式の運び、手順は全く一緒だということを知らされる。祭壇の設営から始まって、棺や骨壺の種類の選択に至るまで、実に多くの取り決めを葬儀社との間でしていかなくてはならなかったのだ。違いがあるとすれば、参列者の数ぐらい。だから、余り言いたくはないが、費用的に一般葬と遜色がない。

次に、こうした一切をコーディネートしてくれる葬儀社の(いい意味での)そつのなさを知る。分厚いカタログを傍らに、こちらの心情と知識不足に配慮して、押しつけがましくなく、普通一般にはこうする、といった形で要領よく、20から30ぐらいはあると思われる必要項目に、決断を促してきた。遺体が病院から葬儀社まで運び込まれたのは、18日の午後4時過ぎであったが、それからすぐに始まったそれらを決める“打ち合わせ”は延々3時間半以上にも及び、終わったのは7時を回っていた。そこに使った神経は、死んだ義父を悼む間も許されないほどで、女房共々、疲れは頂点に達したけれども、これで無事に式を乗り切れるだろうという、安心めいた気持ちを持たせてもらえたのだ。

3番目は、葬儀社スタッフの役割分担が明確に分離していたこと。これはK社に特有なシフトなのかもしれないが、前記、打ち合わせした人間と、通夜、葬儀を進行してくれたスタッフとは別だった。それでいて、きっちりと打ち合わせた内容は伝えられ、実際面の運用でも寸分違わない。かつ、両者とも、あらゆる局面で、かゆいところにまで手の届くような心配りを示してくれていた。もらった名刺を見ると、彼らは共に、“1級”の葬儀コンサルティングの肩書である。訊けば、その肩書は業界のコンプライアンスを自ら高めるべく、業界内に設けられた職能基準ということで、葬儀業界がそんな努力をしていることなども、ついぞ知ることはなかった。

あとは、費用的なことになるが、火葬場に要する分、そして、枕経(遺体の安置室で詠んでもらうお経)、通夜、葬式を通してお坊さんに支払う額の相場、等々も、ある程度リアルなところで知ることが出来たのである。

そして何と言っても、「葬儀と告別式とは厳密には異なっていて(葬儀は故人をこの世からあの世へと渡らせる宗教的儀式であり、告別式は故人と参会者が最後の別れをする社会的儀式)、それは式の途中で切り替わる」「葬儀中のお経の中に現世での故人の行状を述べる口上があるが、あれは真言宗に特有なもので、故人に対しての引導である」等々といったことを、未だ30歳という件のK社スタッフの一人に教えられたりしたのも、この年になるまで知らなかったことに忸怩たる思いはあったものの、新鮮であった。

ついでながら、総ての式が終わった後の、故人の年金の解消やその他の手続きで、これまた“膨大な”提出資料が必要なことをこれまた初めて知り、この面でも最前線に立っている女房からは、目下、大きなため息が出ている。余談ながら、一人の人間の死はそれほど重いということでもあるのだろうが、いずれにせよこの状態では、我々が、義父を偲び、ゆっくり回顧出来るようになる時はもう少し先になるのだろうと思わざるを得ない。

49日を満中陰といい、その日がいよいよ閻魔大王の裁定が下って、故人の極楽浄土に旅発つ日なのだという、恥ずかしながら極め付きの知識をもらって、どうやらそれが終わるまで、そうした時間が来るのは待たなければならないものと覚悟する。

こうなると、何もかもが初めて尽くしの今回だったようでもあるが、それでも差し当たり49日は、年明け、2月4日にやってくる。期せずして女房の誕生日でもある。これも何かの縁か。

(シャープ)ブンゴウ
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大阪のおばちゃん

2011年12月15日 17時51分42秒 | 日記
今月に入って、3、4日と、1泊で小豆島に渡ってきた。紅葉の辛うじて残る寒霞渓、そして、「24の瞳」の岬の分教場が目玉であった。

そこに向かう前日には、昨年8月に行った金毘羅山に詣でている。真夏とは違い、かの石段は上りやすかったが、僅か1年とちょっとの時間しか経ってないのに、土地の記憶が半分くらいしか残っていないことに些かショックを受けた。

それはさておき、初めてとなる小豆島は、件の目玉はもとより、さすが国立公園、というくらい、観光ポイントづくりにおいてそつがない。自然の景観美はそれとして観られるように、またレトロな分教場は存分に郷愁に浸かれるように、そして、ソーメン、オリーブといった地場産品は至れり尽くせりのサービスで首尾よく賞味体験が出来るように、それぞれ整備されていたのである。

そう言えば、さほど多く出かけているわけではないが、国内旅行で最近目立つのは、こうした総合的な観光のインフラ整備が充実してきているということが挙げられないだろうか。それは、単に観光諸設備といったハード面のみならず、土産品の開発、地場農水産物のブランド商品化、といったソフト面にも及び、観光客の消費意欲を喚起する。

このトレンドに従えば、今回の小豆島では、初日、高松での讃岐うどんで舌鼓を打ち、夜、ホテルのバイキングで小豆島で獲れた魚介類を堪能し、2日目、ソーメンとオリーブに辿り着いている。無論、その間、終始目にすることになる海と紅葉の小豆島は、おそらく1級の景観美には違いなかった。

言ってしまえば、観て、食べて、買って、という、旅行における満足度指標は、今回の場合もかなり高かった。

にも拘らず、正直なところ、それがある種感動を伴うものであったのかと言えば必ずしもそうではない。むしろ、今では、そうした満足を与えられるのは当たり前のようになっているし、逆に言えば、それだけ国内旅行の観光における条件整備は何処も高度に成熟してきたということなのだろう。

となると、これからの旅行、何が感動、あるいは心を揺する要因になるかといえば、おそらく人。観光地に住む人だったり、旅行中に出会った人だったり、はたまた同じツアーの人だったり。そしてその意味で、今回はどうやら、一緒に乗り合わせた大阪のおばちゃんらしい5人組がそれを与えてくれた。

彼女達は、今回のバスツアーの最終局面で判明するのだが、我々と同世代のようだった。出発の時点から、例によってアメなどを交換し合い、声もでかく、すでにそれらしき雰囲気を漂わせていたのであった。けれど、初日、彼女達の座る座席は2つに分かれていたために、まあ、通常の、あそこに、“元気なおばちゃん達がいるな”程度の受け止め方で終わっていた。

様相が一転したのは2日目だ。前日からのバスの座席の異動があって、彼女達は我々の後ろ、バス最後尾の座席に横1列に陣取ることになった。が、午前中は、各ビューポイント見学のために小刻みに乗り降りし、そのお蔭で彼女達の存在をさほど気にせずにいることが出来た。

問題は、小豆島からの1時間ばかりのフェリーを岡山の日生(ひなせ)で下り、帰路のバスに乗り込んだところから始まった。

とにかく、喋る、しゃべる、シャベル。途中、2カ所ほどサービスエリアで休憩した時間を除いて、約3時間余り、そのおばちゃん達の、辺りを憚らない大声は留まることを知らず、直前にいる我々は大いに悩まされる羽目になったのだ。

「ゆうべのカラオケは、久し振りやったわー」
「来年は、○○温泉に行こう」
「これハワイに行った時の写真。若く写ってるやろ。そしてこれがその時に買ったネックレス。これ買うの、主人はすごく嫌がったけど」
「年金は私が管理しているの。それを子供たちがせびりにやってくる。けど、主人には内緒で工面してやっているの。貯め込んでいたかてあの世にもっていけへんし、その方が使い勝手があるやろ」

話題は次から次へと尽きることがない。5人それぞれが、聞き手となっていたかと思うと、すぐに入れ替わって話し手となる。それの”永遠”の繰り返しだから、終局が来ないのもむべなるかな、ではあった。

私の頭にどうにもそのおばちゃん達の絡みつくような声が張り付いて離れなくなったと思った頃、バスはすっかり夜の帳の下りた大阪市内に入った。

「いやー、暗いわー。まるで死んでるんちゃう、って感じ。いくら節電言うても、これはあんまりやわ!」

突如、会話が打ち切られ、中の一人から切迫感に満ちた声が発せられた。余りにも切実なその声に、他の連中も「そうや、そうや」と相槌を打っているし、不本意ながら釣られて私も、思わず窓外に目を遣った。

バスは御堂筋を南下、ちょうど本町を過ぎて心斎橋に差しかかろうとしていた。なるほど、御堂筋沿いの各店のショーウインドウの照明は消され、極端な話、街灯の灯りが点っている程度で、歩行している人々の顔さえろくに見えない。

「こんなやったら、怖くて歩けないわ」。これも確かにそのとおりであった。

やがてバスは難波に着いたのだったが、私にしても、こんなミナミの状態は初めて見たような気になっていた。それは強ち、この日が日曜日だからということではなく、まさにおばちゃん達の指摘通りだったのだろう。そして、この節電の行き過ぎを嘆く、お別れ前の、最後のそれらのひとこと、ふたことが引っかかったのだ。

それは、言ってみれば自分達が謳歌したかつての大阪がなくなってしまった、とでもいった喪失感を伴う叫びに聴こえたし、それと共に、それを発するおばちゃん達の心の奥底に、あたかも自分達の遠く過ぎさった青春を限りなく愛おしむ心情が溢れているようにも感じられたからだ。

すると、“ヨーロッパの街にだってこんな夜の風景はあるし、これはこれで落ち着いていいんじゃないの”と思いつつも、何とはなしこのおばちゃん達に共感らしきものを覚え、さらには同志愛にも似た変な親近感が湧いてきて、旅の最後、思わぬインパクトを頂戴したという次第だったのである。

(シャープ)ブンゴウ
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同窓会

2011年11月29日 15時09分06秒 | 日記
3日前の26日、中学の同窓会があり、出席すべく、帰省してきた。茨城県の山間部である。

我々の時代、中学は、村内の2つの小学校が集まることで成り立っていたが、現在は御多分に漏れず少子化で、小学校は1つに統合され、過疎地という地域環境も加わって、そのまま上がっていく母校中学の生徒数も激減しているらしい。

昭和22年生まれの我々の学年は、団塊の走りでもあり、中学では空前絶後の4クラス編成、確か170人ぐらいを数えていた。田舎では珍しい大人数ということもあって、他の学年に比べて、際立って負けず嫌いや、やんちゃな生徒が犇めいていて、何とも慌ただしい学校生活だったことの記憶が残っている。きっと今の生徒達から当時を見れば、人数といい、総てに“我先に”が優先する殺気立った行動スタンスといい、まさに我々は異世界の人種の群れと映るに違いない。

その異人種(だったはず)の輩の同窓会である。地元に残っている連中は、年に何回かは顔を合わせ、花見や飲み会を開いているらしいことを今回初めて知ったのだったが、どうやら遠方にいる我々に連絡があるのは、今回のような、ある意味節目となるような会に限られているようだ。

そう言えば、前回通知を受けたのは3年前、還暦を記念しての同窓会の時だった。そしてその時が、私にとっては中学卒業後2回目の、しかも1回目にあったのは高校3年の時だったし、それ以来だから、実に30数年ぶりに同窓生の顔を見る機会となった。

無論、大学、あるいは就職した後も、帰省した折などには、連絡を取り合って何人とかは会ったりもしていたが、ごく限られた人間達であった。そしてそういった連中にも、3年前に会うまで、少なくとも最後に会ってから20年以上は顔を見ることがなかった。

ついでながら、私の1回目に出席した同窓会以降、そのような大々的な同窓会が開かれていたのかどうか。あるいは開かれていたが、単にこちらまでは連絡が来なかっただけなのか。いずれにせよ、3年前出席した折には、そうした空白の時間があって、殆どの顔が初対面に見えたものだった。もっともそれも、よく言われるように、初めのうちだけであって、話しているうちには、微かに当時の記憶が大体の人間に対しては戻ってきてはいたのだったが。

実は今回は、前回、還暦を迎え、“これからは3年に1度ぐらいは集まろう”とした決議に基づいて開催されたものだった。従って、遠方の私にも開催通知があったという次第だったのだ。

正直なところ、今回の出席には躊躇いがあった。あれから3年、さほど出席メンバーは変わらないだろうと思ったし、前回、夜を徹して飲んで、明くる日、そのうちの数人とは、地元の新しい観光ビューポイントを巡るなどし、久闊を叙して十分堪能した思いがあったからだ。

だが、そんな私に、次のような開催案内状の文面が気持ちを変えさせた。

〈今あっておかないと会う機会もあと2〜3回と思います。会える時に会う、元気な時にあって多くの話をしてください。〉

この何とも終末的な文言に衝き動かされたわけだったのだ。“なるほど、会う機会もあと2〜3回か”と。

集まってきたのは前回と同じくらいの60人弱。これが、同窓生の3分の1くらいの数になり、多いのかどうかは判じ難いところもあるが、この年齢の同窓会にしては立派、殆ど面影を失ってはいるけれど、“さすが異人達の面目躍如”という思いはしたものであった。

初参加の人間も数人はいたということだったが、私はと言えば、前回とは違って、大分見慣れた顔が多く感じられ、変な話、最初から“落ち着いた”気分で会場に座り、飲食することができた。

宴会から始まって、2次会はカラオケ、そして最終的に泊り組は20人くらいになり、男女全員、会場になったホテルの1室に集合した。これが差し当たり3次会だ。

ここで出てきた話が、やはりと言うべきか、健康と病気のこと。とりわけ、ガンについては、1人が胃を切った話をすれば、俺は肺が半分ない、俺は膵臓だ、と続々と続いたのである。極めつけでは、「あいつはあと1カ月らしい」と、“これが最後だから”と今回の幹事連が無理やり引っ張り出したという、宴会の最後に、特別にカラオケを披露して一足早く退席した男子のことが語られていた。

ここに至って、私はようやく先の開催案内の文章の意味が、そしてそれが満更オーバーな言い方ではなかったことを思い知ったような気になった。やはりそんな年齢になっていたのだ。

さらに、そんな文章になったわけがもう1つあったように思われた。

その中の誰かが、“みんな、淡々とした顔で今日は出て来たけど、本当は震災の被害にまだ苦しめられている奴だっている”と、ぽつりと語ったのだ。“ここは茨城。東北3県程じゃないにしても、あの地震では結構ひどい揺れがあった- - 。”

そこで私は、改めて3次会の面々の顔を見渡し、県内在住者が多いことに気付き、愉快な場面を作っているものの、一様に未だ震災を心に深く刻み込んでいるように思われ出して、その恐怖感はいかばかりのものであったのか、そこに想いを馳せずにはいられなかった。

つまり、あの〈会える時に会う、元気な時にあって多くの話をしてください〉というのは、きっと幹事達の誇張でも何でもなく、ひたすら実感だったのだ。

そう思った途端、そんな配慮が出来るようになっていたかつての異人達を前に、そこはかとない安堵感が押し寄せてきたのは何故だったのだろう。

(シャープ)ブンゴウ
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奇跡

2011年11月12日 14時58分50秒 | 日記
去る3日の文化の日、機関紙の編集を請け負っている某協同組合のレクリエーション旅行の同行取材で、岡山は倉敷の伝統的建造物群保存地区(美観地区)を訪れた。同地区はこれで3回目、地区の中央部に位置する大原美術館も訪ったのだったが、こちらは2度目である。

美術館探訪の1度目はかれこれ40年前。結婚して3年目、同行した女房の胎内には、その時ちょうど第1子となる長女が宿っていた。

ということを、私はすっかり忘れていたのだが、行く前日、当の女房から聞かされた。「それで、エル・グレコの受胎告知の複製画を買おうとして買いそびれた」、だから、「今回、土産に買ってきてほしい」。―と言われたら、なるほどそんなこともあったかな、程度には当時の女房の妊娠を思い出していた。

それはともかく、大原美術館は昭和5年に大原孫三郎によって創設されたことは既に遍く周知の事柄だ。が、より厳密には、当時、倉敷紡績の経営者であった孫三郎に、その経済的支援を受けていた画家・児島虎次郎が西洋絵画の収集を提案し、実現させたものであったということは、私的には今回初めて知った。孫三郎にしてもそれを、社会貢献活動の一環とする気概から受け入れたようだ、ということも。

そこで、他ならぬ児島虎次郎本人が渡欧し、1920年初頭の話らしいが、収集に当たって得た成果が今日、我々の前に展示されているというわけだ。

因みに、その後の大原美術館の歴史に即せば、孫三郎没後は、とりわけ戦後、嫡子・大原總一郎が、西洋画に止まらない、日本の近代洋画、さらには日本民芸運動の作家たちの陶器類までにもコレクションの幅を拡げ、充実させていったのだという。そうして集めた作品群が現在、本館、別館、工芸・東洋館に分かれて所蔵、展示されているのである。

件のエル・グレコ「受胎告知」収集にまつわるエピソードを当美術館のHPが紹介している。〈1922(大正11)年、児島虎次郎はパリの画廊でエル・グレコの「受胎告知」が売りに出されているのを見つけました。途方もない値段でしたが、どうしてもこの作品を日本へ持ち帰りたいと考えました。そこで児島は、出資者であった大原孫三郎に、「グレコ買いたし、ご検討のほどを」と、写真を添えて手紙を送ったのです。受け取った孫三郎が、「グレコ買え、金送る」といって送金したのは、児島が手紙を発送してから60日後でした。(略)。現在、このエル・グレコの「受胎告知」が日本にあることは奇跡であるとさえ言われています。当時のヨーロッパの情勢、児島の絵を見る確かな目、孫三郎の英断、二人の揺るぎない信頼関係、どれが欠けてもこの奇跡はなかったかもしれません。」

今、1600年前後に描かれたとされるそのエル・グレコ「受胎告知」は、当美術館の目玉にふさわしく、ピンスポットを浴びるという形で、他の作品とは別格扱いで美術館本館に展示されている。

そして私も、その複製画を小さい額の写真立て仕様で、40年ぶりに女房の手元に届けるという奇跡?を起こしたのだ。(こんなに忘れずに女房の言うことを憶えていたなんて、近頃の私からして、奇跡以外何物でもない)。

ついでながら、今回は時間の都合もあって、本館の西洋画だけしか見ることが出来なかった。そこでの展示作品は、受胎告知を例外的に、その多くが1800年代後半から1900年代前半に描かれたものである。モネやゴーギャン、ルノオワール、ユトリロ、モディリアニ、等々といった、名立たる作家達の、これまた一度は美術の教科書や雑誌などで目にしたことのあるに違いない著名な作品の現物が並んでいたのだったが、それら重厚な写実的作品群に混じってあった、1900年代中頃に描かれたカンディンスキーやピカソなどの前衛、抽象的な作品にも、何故か、負けず目を奪われている。

完璧な(但し、私の知見の及ぶ範囲での)現代の抽象画に比べると、印象派やフォービズムなどの重々しい色遣いの残滓は残るものの、そのフォルム自体に、何かからの解放を予感させるものが確かに内在しているように思われたからに他ならない。

ある意味、時系列的に見ていくと、それ単体で見るのとはまた違った発見があるようにも思われ、私なりにその気付きが得られたことも今回の奇跡、否、収穫と言えた。

(シャープ)ブンゴウ
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遂に100を切った!!

2011年10月21日 12時10分04秒 | 日記
ゴルフ再開後、雌伏3年、遂に宿願の100を切った。昨日(20日)のことである。

思えば、このブログに「再び100を切るぞ」と書いたのは09年6月のこと。その前年(08年)の10月から、それ以前の数年間、殆どコースに出ていなかったのを、〈ふとしたきっかけで出来上がったメンバー(3人)と共に、1月に1回程度の割合で回っている〉とした上で、過去に記録した私のベストスコア・96に何としてでも近付くか、それを追い抜きたいという思いを籠め、そのような決意文を認めたのであった。

背景には〈ハーフ60をタタき、グロス115すらもオーバーというような体たらく〉なその頃の自分を嘆き、私よりも2〜3歳上の〈他の3方が悠々と100を切り、お一人などは90も切るかもしれない、といった勢いあるレベルを保持〉しているのを目の当たりにして、〈屈辱感に燃え上がるようになってきている〉からでもあったのだ。

実はその後も、この〈115すらもオーバー〉といった状態はずっと続き、5カ月前には確か3度目ぐらいになるハーフ60をタタくのである。この時も、よって仲間内ルールに従って、食事の折に生ビール1杯ずつを献上させられる羽目に陥っている。

その依然抜き切らぬ低迷さ加減に、当時の屈辱感が改めて甦り、愈々危機感が募ってきたと言えるのだろう、それからというもの、殆ど通うことを止めていた打ちっ放しのゴルフ練習場で、余程のことがない限り毎週日曜日、汗を流し始めたのである。

頃は初夏に向かい、人一倍汗かきの私にとって、練習場は季節の爽快感などとは皆無であった。因みに、さらに暑さが厳しさを増す7月、8月と、この苦行は貫き抜くのだが、かいた汗の量は如何ばかりだったか。今から思うだにぞっとする。

多分、それの練習の成果が徐々に出始めたのだと思う。6月のコースでは、前ハーフをぎりぎり49で回り(しかし後半は58と、結果、前半の蓄えが台無しになってしまったのだけれど)、実に久方ぶりにハーフ50を切ったスコアを前に、“練習は嘘をつかない”といった、プロのアスリートがしばしば使う台詞並みの感想と、いっときの歓びに近い感慨を抱いたりしたのだった。さらに7月と9月のスコアも(8月は暑さを以てコースに出ず)同様なケースで推移する。

そして今回、遂にこの結果―前半・51/後半・46/グロス97―がもたらされたのだ!!

これを、プロのトーナメント評風に振り返ってみると、特に後半の出だし3ホールをパー(5)、バーディ(3)、パー(4)という、自分の記憶にはない“幸運さ”で走り出せたのが大きかった。そして、これに加え、全体的には、いつも失敗の多い寄せとパターで善戦したことも上げられよう。反面、ティーショットでOB3回、セカンドショットはまあまあながらバンカーでのミスがこれまで通り、と、なお反省点も多くありはしたのだったが。

そしてこれから。それら反省点を確実に克服して、いずれは、“今度は95を切るぞ!”と雄叫びを上げたい。

―ところではあるが、ここで冷静に現在の実状を見つめると、一時から比べドライバーの飛距離が確実に落ちているし、練習場に通うのも、実は、感覚をつなぎとめるためだけのものであって、それでかつてのように技術の向上が図れるというものでもない。

つまり、体力的にも技術的にも、ゴルフ自体の伸び代が私に残っているわけでは決してないのだ。ならば、どうして95切りを達成するのか。

ゴルフは一面、メンタルなスポーツと、他の競技以上に言われることがある。これは必ずしもプロの専売特許ではない。我々アマチュアにだって言えると思っているし、そしてここの部分にならまだまだ私にも伸び代はある、強くなれる、故にチャンスはあるんだ、と。

そのことを今回は実感させてくれ、具体的な手応えとして授けられたことが素直に嬉しい。非常に月並みな言い方だが、今のある面での私には、結構な思いで“たかがゴルフ、されどゴルフ”なのである。

(シャープ)ブンゴウ
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三輪山の温もり

2011年10月11日 11時20分21秒 | 日記
9日は、NPOの第8回山歩きの会、三輪山行であった。ここは前回の二上山同様、登山としてはさほど難関ではないが、何かと謂われの多い山なのである。

まずは、何と言っても山全体がご神体になっているということ。大神神社(おおみわじんじゃ)のHPでは、次のように紹介する。

〈三輪山は、奈良盆地をめぐる青垣山の中でもひときわ形の整った円錐形の山であります。古来より神の鎮まりますお山として、『古事記』や『日本書紀』には、御諸山(みもろやま)、 美和山(みわやま)、三諸岳(みもろのおか)と記され、大物主神(おおものぬしのかみ)の鎮まりますお山、神体山として信仰され、 三諸の神奈備(みもろのかむなび)と称されています。高さ467メートル、周囲16キロメートル、南は初瀬川(はせがわ)、北は巻向川(まきむくがわ)の2つの川によって区切られ、その面積はおよそ350ヘクタールとなっています。山内の一木一草に至るまで、神宿るものとして、一切斧(おの)をいれることをせず、松・杉・檜などの大樹に覆われています。〉

よって、氏名・住所を記入して300円を徴収されての入山ということになるわけだが、併せて厳しい入山規定に従わなければならない。入山を受け付ける境内の摂社(狭井神社)の社務所脇、登山道入り口にある〈「神体山」登拝者へのお願い〉の中には、〈厳守事項〉として、火気厳禁、カメラの撮影禁止、飲食禁止、草木等の採取禁止、等々が掲げられ、そして受付時間は午前9時から午後2時まで、さらに午後4時までには登拝口に戻り、受付時に渡される入山許可証(鈴の付いたたすき)を返却しなければならないとある。なお〈注意〉として〈山内には御手洗いはありません〉とも。つまりは入山する前にトイレは済ませておこうということなのだろう。

この何とも厳格な山内、登山(登拝)道は約4キロ。登り下り、平均するとほぼ2時間程度を要するとのことであったが、思わぬ厳しい坂道があったりして、我々は2時間20分ほどを費やした。そしてこの入山時間にしても、“2時間内には下山を”とガイドブックか何かでは目にした記憶があり、けれど戻ってから改めてパソコンを当たっていると〈3時間以内に下山しなければならない規定が定められている〉といった記述に新たに遭遇したりして、従ってこの点については特にその入山規定に触れられていなかったのでどちらが正解かは判らない。

これまた定かではないが、パソコンから得たこの山にありそうな謂われがもう1つ。〈下山以降も山中での情報を他人に話す事を慎むのがマナーでもある〉そうなのだ。

と言われてしまうと、これ以上、何も書けなくなってしまうのだが、そこはそれ、この際は寛容な大物主神であることを念じて、今少し感想を2、3。

人の手の触れることを拒む山内では、とりわけ木立(杉、松が目立った)が鬱蒼と生えているのが印象的だ。その、幹の根っ子部分が這い出し、縦横に伸びて大地にがっちりくらいついている様は年輪を感じさせていたし、そうした樹木の木肌に瞑目して両手を添え、パワーをもらっている風の若い女性の姿があったりして、自体、この山が御神体であったことを幾度か思い直させられたりもしたのである。

これも若い女性であった。裸足で登っている人を私は少なくとも3人、目にしている。一行の他のメンバーも盛んにこれを言っていたから、意外とそんな人は多いのかも知れない、と、帰路、思案を巡らしていたのだったが、案の定、これまた帰ってからのパソコンに〈三輪山に対する礼儀なのだろうか、それとも三輪山からパワーをもらうためだろうか、素足で山道を降りてくるのだ。自分たちが神域に入っていることを教えられる光景だった〉といった件(くだり)を見つけ、改めて、この山に入るに、これはかなり浸透している習慣なのかと思ったりもするのである。

確かに、一部岩場になっている個所はあるものの、概ね御神体の登拝道は、粘土質系のしっとりとした土の階段で整備され、裸足でも大丈夫、否むしろその方が登りやすいのかもしれないと思わすものがあった。そしてその在り様への踏み込みは、私にとっても、例えば母親の胎内を浮遊するのはかくなるものかといったようなある種温もり感を伴って感じられ、いっとき、何とも不思議な感覚を抱かされたのは間違いない。

ところで、三輪山はまた、あちこちにある岩石(盤座)についても語られる謂われが多いこともパソコンで教わった。ある一文の抜粋である。〈イワクラ(磐座)とはそもそも何であろうか。これについては諸説あるが、まずは大神神社元宮司の中山和敬氏の言に耳を傾けよう。「磐座はかならずしも、天然現象である岩石・巨石、またはその集群を見つけて、これを直接に畏敬し、そのものを神とするものではない。日本人は古来、そこを神座と心得、神を招き奉ってはじめて祭祀を行ない、崇拝をするのである。したがって山が高いからとか、巨石なるが故で信仰の対象としたものではない。磐座はけっして驚くほど大きいものではない。中には一個のみで威厳を備えているもの、巨石群、重なり合っているものなどがある。」〉

このようなことから、三輪山自体が御神体ということは即ち三輪山の頂上奥にある磐座こそを御神体と考えるべし、とする説もあるほどで、事実、奥津磐座(おきついわくら)と呼ばれる山内のその場所には、高さ2m級とも言われる岩が無数に点在していたのであった。

〈神が降臨される際、この山のどこかに降りられる、そういう場なのだ。三輪山には今も、奥つ磐座(いわくら)、中つ磐座、辺つ磐座と呼ばれる古岩がある。これら磐座とは、神の第一の依り代である。降臨された際、まず依られるもの(神座、かむくら)である。〉(PCからの抜粋)

今この時間、そのような然るべき由緒を知った上での登拝だったなら、さらに五感を研ぎ澄ませ、霊気を押し頂くものとなっていたのに違いない、と、後の祭り的な感想を持つにつけ、今回、事前に何の予習もせずに山登りだけを意識してしまっていたのが惜しい気がするし、残念に思われてしまう。次回以降への宿題といったところか。

因みに奥津磐座のあの岩の光景は、ハワイのかのヘイアウのそれに酷似していて、同じアニミズム信仰として共通する因子があるのかどうか、少なからぬ興味が湧いている。

(シャープ)ブンゴウ
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「希望」プロジェクト

2011年10月03日 11時41分13秒 | 日記
先般、例の私の属するNPOの会報(『MESSE21』)9月号に次のような紹介記事を掲載して頂いた。

〈■共同執筆本『希望』(旬報社刊)に、副代表が参画。
 去る7月25日に標記の単行本『希望』が東京・旬報社より発刊されました。 因みに本図書は、副題に「北から南まで、いまを生きる63人の軌跡。希望の“ありか”を探るインタビュー」と記されているように、様々な苦労や困難を抱えつつも、なお夢や〈どこかに展望を持ち、何かを信じて格闘している〉(表紙カバー)人々を、全国20人の執筆者が分担してインタビューし、原稿化したものです。
 これに、当NPOのライターでもある副代表も参画。過去、『TOS・TAG』にてご紹介した、原爆の語り部・末広千鶴子さんと、両肘の無い書家・小畑延子さんのお2人を再取材、今回の発刊趣旨に即してまとめ上げました。
 本書の前書きにあります。「‐‐本書には、じつに多様な人びとが登場する。著名な人も無名な人もいる。インタビュアーも若手から年配者まで多様である。これらのインタビューは、つねに『あなたの希望は何ですか』を問うことを念頭に置いて行われた。‐‐だからこそ、インタビュアーたちは、人と人を『つなぐ』ことに、それぞれの人びとの『希望』を聞き取ることに心血を注いだ。言い換えれば、インタビュアーたちは自らが希望を探す旅を続けた。本書はそうした旅の成果である。」
 A5版・436頁。厚手の表紙で、重厚感の漂う装丁になっています。定価「2400円+税」と少々高目とは思いますが、全国書店で販売されていますので、ご購読をお勧めします。〉

ここで副代表というのが即ち私であり、つまり、私も参加した共著本の刊行案内をしてくれたのだった。

そうしたところに、一昨日、その旬報社の今回企画の編集担当氏からメールが入った。「希望の近況」と題し、目下の同書の販売状況と、及び刊行以来2カ月間に地方紙も含む各種メディアで取り上げられた主な記事を添付する形で、その反響とを伝えてきたのである。

それによると、「重厚長大な単行本として、出版業界の現状からすれば随分と健闘している」こと、そして販売も、「初版のほぼ7割方に到達し、しかしこれから返品との闘いになるので気が抜けない」こととが記されていた。

正直、これには驚いた。定価が定価だし、しかも内容は深いけれども地味、従ってそんなに多くの人に買われるだろうとは思っていなかったからだ。

そもそもこの企画は、当時北海道新聞の記者で、この6月、ジャーナリストとして活動を開始されたという高田昌幸さんという方の呼びかけで出発した。ついでながら高田さんは、1960年生まれ、ロンドン駐在の経験があり、2度に亘って、取材班の一員として加わった報道が日本新聞協会賞や日本ジャーナリスト会議(JCJ)大賞、菊池寛賞、新聞労連ジャーナリズム大賞などを受賞した経歴の持ち主でもあるということで、いわば実力派記者なのは間違いないようだ。

私は、直接の面識はないが、とあるルートを通じて知った今回の企画への参加申し入れをきっかけに、メールでのやり取りをするようになった。昨年の3月来のことである。

その時点での高田さんのこの企画への趣意(一部)だ。『‐‐‐。この広い日本では、実は我々取材者の目の届かない場所で、地べたに足をつけて、踏ん張って、そして希望を持ちながら明日への道を切り開いている人々も大勢います。有名かどうか、成功しているかどうか。そういったことに関わりなく、何かを信じて、どこかに展望を持って、日々格闘している。そういう人々が間違いなくいるはずです。‐‐‐。それを活字にできないか、そうした人々の声を集めて1冊の本にできないか、その結果、少しでも多くの人に希望と勇気をお裾分けできないか。私は、それをぜひ実行してみたいと考えています。テーマは「希望」です。‐‐‐。』

当然のことながら、今回の刊行はこの高田さんの編集構成に拠っている。無論、各ライターの取材・文章表現に際しても、高田さんのディレクションが領導した。

“添付資料、拝読させて頂きました。たくさんのメディアに取り上げられ、しかも好反応で何よりです。今の時代に、企画(ディレクション)が良かったのだと思います。”

私の送った出版社・編集担当氏への返信コメントである。そんな風に書いたのは、仮に、担当氏の送ってくれた「近況」通り、私の予想に反し好反響なら、それはとりもなおさず、高田さんのそういう「ヒューマン・アイ(eye・愛)直球勝負のなせる業」を実感したからに他ならなかった。

(シャープ)ブンゴウ
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ブッダ航空の悲劇

2011年09月27日 11時20分22秒 | 日記
2日前の25日朝、ネパール・ヒマラヤ遊覧飛行帰りのブッダ航空機がカトマンズ近郊で墜落、乗っていた19人全員が死亡したという。前回ブログでネパールの文字を入力したばかりであり、何とも奇縁な感じがしないでもないが、いずれにせよこのニュースに少なからぬ衝撃を受けている。

過去、他ならぬ私もその遊覧飛行機には搭乗したのであり、のみならず、遊覧飛行はその旅行中での深い感動をくれた確かな時間の1つだったからである。

旅行メモを紐解いてみると我々が搭乗したのは昨年の1月22日のことだった。前日の晩の記述。

“明日のモーニングコールは5時45分。6時15分からレストランで朝食。6時45分にホテル出発(遊覧飛行オプション班・1人20,000円)。空港まで15分ぐらいという。ただし、飛行時間がずれることもあるらしい。朝、空港での待ち時間は寒いとか。18人乗りの飛行機だが、窓際でないのが2席。だから16人が乗る。真ん中が通路で両サイドに座席。遊覧するのでそれで見る分には問題なし。そしてエベレストだけは操縦席から見ることができるという。飛んでる時間は50分ぐらい。”

そして当日のメモ。“7時5分前、空港着。7時35分、離陸。‐‐カトマンズから飛び立ったから、往路、ヒマラヤは左側の方に見えたし、帰りは右側の方に見えた。‐‐エベレストの前で旋回する時に、操縦席の方に呼ばれた。‐‐機内ではガイドさんがヒマラヤの山々を英語で説明。‐‐8時半無事着陸。約55分間のフライト。すごかったなー!という声が機内から一斉に上がる‐‐”

さらに、旅から帰って書いたこのブログでの、このような遊覧飛行の模様は、次のように認めていたのである(「ネパールから戻って」H22.1.28)。

〈最後の仕上げは、ネパール5日目、1時間弱に及ぶ、ヒマラヤ遊覧飛行。地上から見上げるだけだったかの連峰が、飛行機の窓外に間近に鎮座している。16人乗りの飛行機、その乗客1人、1人に、交代で操縦室(コックピット)にも入れてくれて展望させてもくれる。そんなこんなで、文字通り、清澄な自然美に圧倒され、あっと言う間の1時間。これで2万円は決して高くない。降りた時に渡された搭乗記念証明書には、“I did not climb Mt Everest…but touched it with my heart!”と記されてあった。実感だったのである。〉

さらにさらに。この8月に書き上げたばかり、その旅を題材にした私の創作の中では、この部分を次のように昇華させていたのだった。

『“あっ、あそこに慧海がいる。”
 到頭そんな幻覚までもたらされたのは、ポカラからカトマンズに戻り、ほぼ一時間をかけての、連峰の見納め、今回の目玉企画でもあったヒマラヤ遊覧飛行中のことである。旅程五日目になっていた。定員が二十人弱、真ん中に通路があって両サイドに一人席が縦一列に並ぶという超小型機から望むヒマラヤ連邦は限りなく近く在った。しかも視線と同じ位置に朝陽に輝く冠雪の頂を捉えることになり、従って、峰々の切っ先から裾に降りる雪面の所々に顕れ出ている出っ張りや窪みも、その陰影共々、隅々まで見て取れる。総てがこれまでとは異なる連峰のリアリティなのであった。
 約三十分ほどの飛行で旋回に入る。エベレストに近付いた地点で折り返すのだったが、いざその時になると、機内の客は一人ずつコックピットに招かれ、愈々間近になったエベレストの雄姿を拝観することになる。慧海を幻視したと思ったのは、そうして私の番になり、コックピットに入ってエベレストを確認した時であった。
 操縦室では、頭髪を後ろで束ね、きりっとした面立ち、黒っぽい制服に身を包んだ痩身の女性副操縦士が待ち受け、狭い座席に座ったまま、その後ろに立った私に何事か英語を交えながらエベレストの方角を指し示す。それに従い視線を送った先は紛れもなくエベレストであった。
 私は数十秒間それに見入っていた。と、その私の視野に雪渓の切り立った斜面に刻まれている極小の茶褐色の“点”が目に入ったのだ。それは即ち、雪中に飛び出た岩みたいなものに違いなかったのだろう。が、にも拘らず私にはそれが、ヒマラヤ越えで雪肌にへばり付く慧海、入蔵目前の慧海の姿そのものに視えたのだ。
“〈断事観三昧〉で歩んでいるのか?”
 道なき道、あるいは分岐路でどちらの道を行くべきか迷った時、ひとしきり瞑想に委ねて選択したという慧海の究極の選択手法にも思いを巡らせながらである。』

この文章の前後関係についての説明は省略するが、創作全体においてもこの部分はクライマックスに当たる場面であり、だから、それだけ遊覧飛行は私にとってインパクトが強かったとも言ってよかった。

と同時に、一歩間違えれば私にしても今回のような事故の当事者になる可能性はあったという、新たに確率性の問題として想起すると、やはりぞっとする。

亡くなった19人のうち、乗務員が3人、と。ひょっとするとその3人は、我々搭乗の際のあの操縦士であり、優しく丁寧だったキャビンアテンダントなのかも知れない。

そんなことを想うにつけ、こうなるとあれは、命がけの感動の瞬間だったのだと改めて思わずにはいられない。

ひとまず、尊い体験をくれたブッダ航空の、今回の悲劇に合掌。

(シャープ)ブンゴウ
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