先月の義父の逝去からやっと3週間が経ったばかりの今月7日、今度は義母が逝った。84歳だった。かくして、ここひと月内に2つの葬儀を出す仕儀に。
義母は認知症を患い、グループホームに入所して7年目に入っていた。これまた義父にしたのと同様に、女房は決まって週1、私は時折、訪っていたのだったが、ここ1年は我々の顔を見ても殆ど無表情、誰が誰かの識別はつかなくなっている感じであった。
死因は、誤嚥下窒息死。仰々しい名称であるが、要は食べ物を飲み込む力が弱くなっていて、その日の昼食時、うまく喉を通らすことが出来ず、詰まらせたらしい。救急車で運び込まれる途中に心肺停止となり、おそらくその時点で息絶えたと思われる。私と女房が病院に駆けつけた時は既に骸となっていて、すぐに医者から死亡時刻を告げられた。1時20分。施設よりの異常発生の連絡を受けてから1時間と経っていなかった。
義父もあっけなかったが、義母はそれ以上にあっけない死に際ではあった。女房が言うには、生前、俗に“ぽっくり寺”と言われる近くにあるお寺にせっせとお参りしていたからその効き目があったのだろう、と。
それはともかく、“ほんとに仲が良かったんだね”ということばは、お悔やみを頂いたほぼ全員から頂戴した。また、すでに正常でなくなった頭脳状態にあっても、連れ合いの異変を知るようなテレパシーを感受することはあるらしい、といった説にも接している。いずれにせよ、本当に通じ合いのあった夫婦関係を象徴するものだったことは間違いないだろう。葬儀で導師をして頂いた我々に縁の寺の住職には、「こんなに短時間にご夫婦が手を携えるように逝かれ、葬儀をするのは初めての体験です」と言われている。
長年徳島で、小学校の教員をしていた。式後、女房が義母の遺品を整理している中に、その頃の教え子の成績や素行を事細かく記した閻魔帳や、それ以前の女学校時代の成績表なども出てきて、几帳面で教育熱心だった義母の一面を改めて知る思いだった。
今回も家族葬だったにも拘わらず、そうした30数年前の教え子の中のお2人(1年生の時に受け持った男性と女性)が駆けつけてくれた。共に奈良の地に住み、義母が発症する10年前くらいまではいろいろと彼らの相談を受けたり、あるいは何かがあれば一緒に出掛けたりと、ずっと親交を保った方達である。
立て続けに実の両親を亡くし、心身共に参っていた女房にとって、出棺の際、涙で頬をくしゃくしゃにしながら我々の家族と一緒に棺に花を添えてくれたそんな彼らの存在が、“教師名利につきる”とばかり、同じ教師としての思いが重なったのか、一番の慰めとなったようではあった。
式は義父の時と同じく地元の葬儀社・K社で取り行った。その折、懇切丁寧に取り仕切ってくれた、かの若い男性に今回も敢えて担当して頂いた。“葬儀社と親しくなってっもねえ‐‐”という、娘の弁はあったりしたのだったが。
(シャープ)ブンゴウ
義母は認知症を患い、グループホームに入所して7年目に入っていた。これまた義父にしたのと同様に、女房は決まって週1、私は時折、訪っていたのだったが、ここ1年は我々の顔を見ても殆ど無表情、誰が誰かの識別はつかなくなっている感じであった。
死因は、誤嚥下窒息死。仰々しい名称であるが、要は食べ物を飲み込む力が弱くなっていて、その日の昼食時、うまく喉を通らすことが出来ず、詰まらせたらしい。救急車で運び込まれる途中に心肺停止となり、おそらくその時点で息絶えたと思われる。私と女房が病院に駆けつけた時は既に骸となっていて、すぐに医者から死亡時刻を告げられた。1時20分。施設よりの異常発生の連絡を受けてから1時間と経っていなかった。
義父もあっけなかったが、義母はそれ以上にあっけない死に際ではあった。女房が言うには、生前、俗に“ぽっくり寺”と言われる近くにあるお寺にせっせとお参りしていたからその効き目があったのだろう、と。
それはともかく、“ほんとに仲が良かったんだね”ということばは、お悔やみを頂いたほぼ全員から頂戴した。また、すでに正常でなくなった頭脳状態にあっても、連れ合いの異変を知るようなテレパシーを感受することはあるらしい、といった説にも接している。いずれにせよ、本当に通じ合いのあった夫婦関係を象徴するものだったことは間違いないだろう。葬儀で導師をして頂いた我々に縁の寺の住職には、「こんなに短時間にご夫婦が手を携えるように逝かれ、葬儀をするのは初めての体験です」と言われている。
長年徳島で、小学校の教員をしていた。式後、女房が義母の遺品を整理している中に、その頃の教え子の成績や素行を事細かく記した閻魔帳や、それ以前の女学校時代の成績表なども出てきて、几帳面で教育熱心だった義母の一面を改めて知る思いだった。
今回も家族葬だったにも拘わらず、そうした30数年前の教え子の中のお2人(1年生の時に受け持った男性と女性)が駆けつけてくれた。共に奈良の地に住み、義母が発症する10年前くらいまではいろいろと彼らの相談を受けたり、あるいは何かがあれば一緒に出掛けたりと、ずっと親交を保った方達である。
立て続けに実の両親を亡くし、心身共に参っていた女房にとって、出棺の際、涙で頬をくしゃくしゃにしながら我々の家族と一緒に棺に花を添えてくれたそんな彼らの存在が、“教師名利につきる”とばかり、同じ教師としての思いが重なったのか、一番の慰めとなったようではあった。
式は義父の時と同じく地元の葬儀社・K社で取り行った。その折、懇切丁寧に取り仕切ってくれた、かの若い男性に今回も敢えて担当して頂いた。“葬儀社と親しくなってっもねえ‐‐”という、娘の弁はあったりしたのだったが。
(シャープ)ブンゴウ
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