ふるさと加東の歴史再発見

少し気をつけて周囲を見回してみると、身近なところにふるさとの歴史を伝えるものがある。

播州清水寺-南朝忠臣赤松氏範憤死の地標柱

2017年04月17日 05時17分55秒 | Weblog
 16日(日)は、好天の下、加東市平木の播州清水寺で桜まつりが行われ、大勢の人が訪れました。
 私も10時30分頃に登山道を車で登り、山頂の駐車場に入りました。すでに多くの車が入っており、第2、第3の駐車場へと誘導されました。
 大講堂や根本中堂、薬師堂など境内の堂を巡りながら、名物のおでんや山菜おこわなどをお土産に買い求めたり、参拝の人々と話したりしました。その中には兵庫教育大学の附属中学校勤務時代の教え子も。
 さて、帰りに山頂駐車場を出て登山道を下る前に、登山道を登りきった地点の脇に立つ一本の石柱を確かめました。
 その石柱とは、「南朝忠臣赤松氏範憤死之地」の標柱です。道路脇の尾根に立つ高さ1メートルほどの石柱には、「史蹟 南朝忠臣赤松氏範父子並一族憤死・・・」と刻まれています。下部は土中に埋まっていて読めません。また、側面には「昭和六年九月二日建立 兵・・・」と刻まれています。「兵」の下は土に埋もれて見えませんが「兵庫県」と刻まれているのでしょう。
 この石柱から尾根沿いに林の中を少し歩くと、赤松氏範一族の墓地にたどりつくはずです。以前に訪れた時には、石碑は新しく建てかえられていました。

 この墓については、平成18年10月2日のこの歴史ブログで紹介しましたが、赤松氏範と清水坂の合戦について説明を再掲します。

 赤松氏範は14世紀南北朝時代の人で、播磨の豪族、赤松円心の子です。赤松円心は、はじめ南朝方についていましたが、のちに北朝の足利方につきます。兄弟4人のうち、氏範一人が南朝について忠義を尽くしました。
 足利義満が三代将軍となり、南朝の勢力はおとろえはじめました。氏範は1386年、最後の戦いに挑むべく、京の幕府を襲いましたが、幕府勢に押し返され、播磨の清水寺に立てこもりました。これを攻めたのは山名の軍勢でした。さらに山名勢が去ってからは細川勢が攻めました。
 氏範はよく戦いましたが、何せ味方は少数、幕府軍は大軍とあって、兵糧もなくなり、遂に覚悟を決めて、寺の北東の峯に一族郎党を集め、自刃をして果てたのです。氏範57歳、一族郎党合わせて137名だったそうです。これが、清水坂の合戦とよばれる戦いです。

 写真は登山道路脇の標柱です。。
コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 朝日を浴びる善龍院 | トップ | 播州清水寺春景色 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事