ふるさと加東の歴史再発見

少し気をつけて周囲を見回してみると、身近なところにふるさとの歴史を伝えるものがある。

適塾で学んだ村上代三郎①-加東の人

2018年02月05日 05時07分25秒 | Weblog
 今年は明治維新150年にあたり、同時に兵庫県政150年の節目の年です。慶応4年(1868)の5月23日(旧暦、新暦では7月12日)、初代県知事に任命されたのが26歳の伊藤博文でした。
 今の兵庫県の形、県域になるのは明治9年のことで、150年前の兵庫県は、旧幕府領など、今の県域に点在していました。現在の加東市域には旧幕府領や三草藩をはじめ、諸藩の領地がありました。ですから最初から兵庫県だったところや段階的に兵庫県になったところがあるのですが、兵庫県の一番最初が150年前だったということになります。
 さて、150年の歴史をふり返ることで、私たちのふるさとである兵庫県の成り立ちや先人の事績を知るよい機会になります。今日は人物編ということで、加東市の人で幕末から明治初期に活躍した学者を紹介します。
 その人物とは、村上代三郎です。この歴史ブログでは過去2度にわたり紹介してきましたが、代三郎は、大阪の緒方洪庵の適塾の初期の塾生で、後に幕府講武所などで西洋兵学を教授するなど当時を代表する学者の一人でした。
 『新修加東郡誌』によれば、村上代三郎は文政6年(1823)、加東郡上福田村木梨(現加東市木梨)の三草藩の藩医の家に生まれ、幼少の頃から学問好きで村の学者の下で漢学や蘭学の手ほどきをうけていました。18才のとき、大阪の緒方洪庵の適塾に入門し、大鳥圭介や大村益次郎らとともに学問に打ち込みました。代三郎はこの適塾で塾長もつとめるほどの俊才でした。のちに江戸に出て蘭法医学を学び学識を深めています。嘉永4年(1851)、帰郷して蘭学塾を開いています。安政4年(1857)には、幕府講武所の蕃書取調師範として招かれ西洋兵学を教授しています。
 しかし、眼病を患い帰郷します。その後紀州藩や浜松藩に招かれていますが、しばらくして帰郷し、以後はふるさとの木梨で私塾を開き、蘭学、西洋兵学を教えました。
 代三郎のもとには、新政府で活躍した江藤新平らが教えを乞いにやってきました。また、初代兵庫県知事だった伊藤博文も明治4年には、代三郎に新政府への出仕をすすめるためにやってきています。しかし、代三郎は病気を理由に辞退しています。代三郎が故郷に帰ってきたのは、幼くして父を喪い、母の手で育てられた代三郎にとって、故郷を離れることを望まなかった母の思いに応えて木梨村に帰ってきたからでした。
 文政11年(1828)  6歳  木梨村、龍田謙益に入門し漢学を修める
 天保11年(1840) 18歳  大阪の緒方洪庵に就いて蘭法医学を修める
 嘉永2年 (1849) 27歳  同窓の大鳥圭介らと江戸へ
 安政4年 (1858) 36歳  幕府講武所の師範となる(1年で眼病のために帰郷)
 明治15年(1882) 60歳  没 

 明治15年(1882)2月26日付の「神戸新報」に、村上代三郎の物故記事が掲載されています。

 ○彼の旧幕府弘化年間に蘭学を以て登用せられ名を海内に轟かせし播磨国加東郡木梨村平民村上大(ママ)三郎翁も予て病痾に罹られ居しが去る廿日終に物故せら(ここまで)

 加東市木梨の北の丘陵にある墓地に村上代三郎の墓碑があります。「村上木州翁之碑」と刻まれています。
 写真は大阪の適塾(史跡・重要文化財)の前で撮したものです。

 
 
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