ふるさと加東の歴史再発見

少し気をつけて周囲を見回してみると、身近なところにふるさとの歴史を伝えるものがある。

河高八幡山上の石棺仏

2012年02月12日 05時48分19秒 | Weblog
 2月11日建国記念の日。この日、加東市では2つの祭りが行われました。加東市河高の八幡神社の厄除けのお祭り。そして、上久米の東光寺の大日祭。河高の厄神さん、上久米の大日さんと昔から親しまれてきたお祭りです。
 河高の厄神さんでは、地元出身の成功した方や厄年の人たちがお金(硬貨)をまき、それを子どもたちが拾うという行事が行われることでも知られています。
 八幡神社から山上へ坂道を登っていくと、山頂には、むき出しになった大きな岩盤とその中央に注連縄が張られた巨大な岩が立っており、その頂上に小さな祠が安置されています。
 その巨岩の脇の岩の下に四角の板状の石があり、小さな仏様が刻まれています。これが毘沙門天石棺仏です。古墳の石棺の一部に仏を刻んだものが石棺仏です。まるで岩を支えるように、また、岩の下で雨露を避けるように石棺が置かれています。






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冬の朝−月と鳥

2012年02月11日 05時29分37秒 | Weblog
 冬の晴れた早朝、空には白い半月がかかり、電線に鳥が羽を休め、そして、飛んでいく。その瞬間の写真です。それだけのことですが、かつての職場に島根県の人がいて、ここは冬でも傘を持たんでいいし、洗濯も外に干せるし、明るいわ、とよく話していたのを思い出します。冬の空気はとても冷たいのですが、青空と日射しがあるのが播磨瀬戸内の冬です。
 今日は建国記念の日。紀元節です。玄関に国旗を出して祝いましょう。
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冬の夕日−家原から

2012年02月10日 04時49分25秒 | Weblog
 立春も過ぎましたが、全国的に厳しい寒さが続いています。日本海側は大雪ですが、中国山地を越えた瀬戸内側の播磨平野は冷たい風が吹きますが、晴れの日が続きます。
 この写真は今年の1月のはじめ、夕方、加東市の社から家原の観音寺から西へ向かって歩いているときに撮影したものです。平坦な地形が広がり冬の田圃が続いています。その遙か向こうの青野原台地に夕日が今まさに沈もうとして、辺りは茜色に染まっています。
 加古川の河岸段丘が東に段々と高くなっており、社の市街地はその段丘の上に形成されています。もう一段東の高台は嬉埜台地になります。したがって西を望めば広々と視界が開け、遠く青野原台地を水平線として姫路方面が見渡せます。夕日がきれいに見える町の条件が揃っているのです。このブログでも嬉野台地から、山国の台地から見た雄大な夕日を何度か紹介してきましたが、今日は低い平地から見た夕日を紹介します。
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もう一度、貝原の道標

2012年02月09日 05時55分47秒 | Weblog
 加東市貝原。現在、国道372号の野村河高バイパスの工事が進められていますが、加古川を跨ぐ新橋、加東大橋の東詰から少し下った交差点に貝原薬師堂があります。
 この薬師堂の境内にはムクの大木があり、このブログでも紹介しました。さらにけやきの大木もあり、小さな祠も祭られています。そのけやきの大木の根元に、まるでもたれかかるように2本の石柱があります。
 一本は道標、もう一本は玉垣のようです。以前にも紹介しましたが、道標には「右 きよみづ」「左 □(志)ん町 たか郡」と刻んであります。また、「加東四国 第三十三番霊場」「文政七申四月立」「四国同行中」と各面に刻んであり、西国三十三ヶ所霊場の巡礼や加東四国八十八ヶ所巡礼に関係のある道標だったのでしょう。
 文政七年ですから西暦1824年。今から188年前に立てられた古い道標です。第三十二番の鳥居の観音堂からこの薬師堂、加古川を渡って、次の三十四番の河高へと人々が巡礼の旅を続けたのでしょう。今は境内のケヤキの大木にもたれて休んでいますが、新しい道路ができて、古道のあったことを知らせるためにもう一度起きてほしいような気もします。
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朝光寺の石仏

2012年02月08日 05時36分17秒 | Weblog
 加東市畑の国宝朝光寺には多くの石塔や石仏があります。道路から本堂と鐘楼に向かう小径の左手に写真の石仏があります。年代や詳しいことはわかりませんが、朝光寺を訪れるとき、いつもこの石仏の笑顔に心がほっとします。笠を被ったお大師様と弟子らしき3人が刻まれています。西国巡礼に関係しているのでしょうか。台石には「花山院 加西郡 別府村 □□・・」と刻まれています。
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朝光寺多宝塔と古瓦

2012年02月07日 06時11分12秒 | Weblog
 朝光寺(加東市畑)の国宝本堂の屋根葺き替え工事の公開のようすを紹介してきましたが、もう一つ紹介したい写真があります。それは境内の多宝塔とその前に積まれた本堂の丸瓦の写真です。本堂見学の順番を待っている間、多宝塔の前に野積みされた丸瓦を見ていました。
 ところで、この多宝塔は昭和56年に社町の指定文化財となっています。創建は本堂と同じ頃、すなわち文治年間(1185〜89)と伝えられていますが、修理などの状況から江戸中期の様式を伝えているそうです。
中学の教師をしていた頃、朝光寺に写生大会に来たことがあります。生徒と一緒にこの多宝塔を写生したことを思い出します。また、ボーイスカウトでこの塔の下にあるつくばねの滝からロープで降りようとして滝壺に落ち、多宝塔の前でたき火をして衣服を乾かしたことも懐かしい思い出です。境内に国宝本堂、重文の鐘楼、そしてこの多宝塔があり、一度に見ることのできる寺は多くないと思います。
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こども博受賞記念プレート−中東条尋常高等小

2012年02月05日 04時12分15秒 | Weblog
 加東市立東条西小学校のオープンスクールを参観して帰ろうとしたとき、校門脇の二宮金次郎像が目に入りました。この像は、高い台座に乗っておらず、像を上から見ることができる珍しい金次郎像としてブログで紹介しましたが、そのすぐ側にもう一つ石碑が建っているのに気がつきました。近寄ってよく見ると、石碑には銅板のプレートが埋め込まれており、小さな文字が刻まれています。何か大切な記念のプレートで古そうなものだったのでカメラに撮りました。銅板プレートには下の文字と絵、メダルが刻まれていました。

 コドモ博 手工銀賞 中東條校
 コドモ博 童謡銀賞 中東條校

 入賞記念

歓びのことば

こどもを「大人の不完全なもの」と思つてゐたのはあやまりで、こどもには大人のおよばない天分をもつてゐることが見出された。
こどもを大人の「従属物」のやうに思つて来たのもあやまりで、こどもは大人以上に尊重しなければならない事が認められた。
皇孫殿下の御降誕を記念するために、大阪毎日東京日日両新聞の主催で、こども博が開かれたことは、皇室の御繁栄をことほぎまつると共に、大に児童尊重といふことを一般に認めさせる上に意味があつた事と思ふ。
殊に其の創作館はこどもの天真にして純情な心の泉からわきいでた作品を集め、新教育の立場から厳正な審査を施して初等教育上多大の資料を提供せられたものである。
我が中東條校は幸に出品校として先帝せられ、しかも審査の結果は、手工、童謡何れも県下第一位として銀賞に入選の光栄を得た。
実に本校創始以来の盛事である。大に祝すへきである。
茲に聖上の御誕辰を卜して、この記念帳を調へ、関係者に頒布して永久にこのよろこびを記念すると共に、将来一層発憤大成の動機たらしめんとするものである。

  大正十五年八月三十一日

     加東郡中東條小学校長  藤原 □

         中東條尋常高等小学校

         
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国宝朝光寺本堂工事覆いと重文鐘楼

2012年02月01日 06時30分40秒 | Weblog
 朝光寺(加東市畑)の国宝本堂の屋根葺き替え工事のようすを今日も紹介します。7世紀に創建されたと伝えられる朝光寺。12世紀に裏山から現在の場所に移転したとされています。そして、国宝の本堂は15世紀の初めに建立されたことがはっきりしており、その後、江戸時代の17世紀末の元禄年間、19世紀はじめの文政年間、さらに20世紀の昭和10年頃に大きな修理が行われています。今回の修理は21世紀平成の大修理というわけです。
 見慣れた本堂をすっぽりと覆う足場。ものすごく大きく感じます。その脇の重要文化財の鐘楼が小さく見えます。私は朝光寺の建造物の中では、この鐘楼が一番好きなんです。何と言っても気品があります。この鐘楼も12世紀末にこの地に再建されたということです。昭和31年に解体修理が行われています。
 朝光寺が今の地に再建されたのは、源平合戦の三草山合戦のあとです。合戦で荒廃した寺を裏山からこの地に移したということですから、源平合戦とも関係があったんですね。
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国宝朝光寺本堂の屋根

2012年01月31日 05時06分31秒 | Weblog
 昨日は加東市畑の国宝朝光寺本堂の屋根葺き替え工事の公開のようすを紹介しました。最も古い室町時代の丸瓦をはじめ、江戸時代、昭和時代の瓦も展示され、違いを見ることもできました。
 順番が回ってきて本堂を覆う工事用の足場を上り、建屋の中に入ると、眼の前に本堂の屋根が大きく広がっていました。瓦が葺かれる直前の状態まで工事が進んでいました。瓦の下に土を葺かず、杉板を葺いて桟木を架けて瓦を葺くという工事が行われるという説明でした。これによって屋根の軽量化を図ることができるそうです。
 本堂の屋根をこの位置から、しかも瓦が葺かれる前の状態で見ることはもうないでしょう。お父さんに連れられて地元の小学生と思われる姉妹が見学に来ていましたが、ぜひ校区にある国宝を題材とした学習をして、その歴史的な価値や保存活動の大切さを知ってほしいなと思いました。こういう機会を見逃さず体験をさせる、いいお父さんですね。
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国宝朝光寺本堂の屋根瓦

2012年01月30日 05時13分29秒 | Weblog
 29日(日)、加東市畑の朝光寺の国宝本堂の屋根葺き替え工事が公開され、多くの人が訪れました。
私もその一人。11時前にお寺に到着し、見学者順番カード157番をもらいました。入場しているのは120番台の人たち。順番を待つ間、掲示されている葺き替え工事のようすを撮した写真パネルや展示されている本物の瓦を見ながら説明を聞きました。
 一番古い、創建の頃に近い時代の瓦は15世紀、室町時代のもの。文明13年(1481)の丸瓦です。630年ほど前の瓦が目の前にあるというだけで何か感動的でした。おそらく瓦師集団がこの辺りに住んで焼いたものだろうということでした。江戸時代の元禄年間のものもあり、圧巻でした。今回の修理では、一番古い瓦をモデルにして新たに焼いたものを使っているそうです。
 最近の修理は昭和10年(1935)〜12年にかけて行われています。75年ほど前ですから、長生きの人は生涯に二度葺き替え工事を見ることができたということになりますが、私らは今回が一生に一度の体験でしょう。ようやく順番が来て屋根の高さの足場に立ちました。一部瓦が葺かれていましたが、杉の皮が貼られ、桟木が架けられた屋根を見ることができました。
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伝説のくすのき塚−加東市古家

2012年01月27日 05時25分50秒 | Weblog
 東条ダムを左手に見ながら県道小野藍本線を大川瀬方面(東)に向かって走ると古家(ふるけ)の集落に入ります。秋津富士方面の標識が出ている所を左へ入り、北の山の方への道をしばらく行くと、道の脇に石碑のようなものが目に入りました。一角には石燈籠も立っており、その石が祀られているように見えます。これが、あの伝説のくすのき塚かと、車を降りて見てみました。
 くすのき塚とは、太平記で知られる「湊川の戦い」で敗れた楠木一族の残党がこの地までたどり着き隠れ住んだと伝えられています。この塚は、鎧や兜、武器を地中に隠したとされ、地中は空洞になっていて、力を入れて足踏みをするとがーんを響くと言われています。古家はその歴史を中世にさかのぼる古い歴史の集落です。昨年の末に公民館に寄っておられた地区役員さんからもそうした話を聞いたばかりです。道の脇の田圃の中にあるこのくすのき塚の伝説が数百年前の記憶をよみがえらせてくれる。その歴史の厚みに圧倒されます。
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巨大工事の殉難者慰霊碑−昭和池

2012年01月26日 04時55分26秒 | Weblog
 昨日紹介した昭和池の堰堤は源平合戦の古戦場として知られる三草山の麓にあります。扇のように広がる山裾の谷を巨大な堰堤で築いて造られた池が昭和池です。建設の経緯は昨日のブログで紹介した通りですが、その工事で亡くなった人の慰霊碑が堰堤を仰ぐように建てられています。正面に慰霊碑、裏側に殉難者の名前が刻まれています。その名を一つひとつ読んでみると、朝鮮人の名前があります。この工事には朝鮮人労働者も働いていたのです。日本人と朝鮮人の殉難者の名が刻まれています。
 高校時代、池畔でキャンプをしていると、ボーイスカウトの隊長さんが様子を見に来られ、慰霊碑の前でお経をあげてキャンプの無事を祈ってくださった、ということがありました。もう40年余り前のことですが、昨日のことのように懐かしく思い出します。
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旱魃からふるさとを救った昭和池

2012年01月25日 04時57分30秒 | Weblog
 1月8日(日)の早朝、国道372号を鴨川方面へと向かっていました。ふと、昭和池へ行ってみたくなり、三草山の登山口になっている堰堤の下まで乗り入れました。車が1台ありました。きっと早朝登山をしているのでしょう。それにしても殺風景な駐車場です。私が中学生の頃にキャンプや遠足で来ていた頃と変わりません。
 ただ、堰堤を登る坂道のところに1枚の看板が建てられていました。東条川疎水に関する説明と、昭和池が造られた経緯や池から送られた水が台地の開発や水田を潤し、旱魃からふるさとを救ったことが書かれていました。このブログでも紹介しましたが、嬉野台地の今はもう使われていない昭和池からの用水路にもこのような看板が建てられています。
 昭和池築造の経緯は次の通りです。大正13年(1924)、この地方は大かんばつに見舞われ、これをきっかけに農業用水の水源を確立する必要性があるとの声が高まり、県営事業として巨大溜池が三草山渓谷に造られることになったのです。そして、昭和3年に工事が始まり、9年に完成、昭和池と命名されました。巨大な堰堤は、高さ約30メートル、幅(長さ)約200メートルの巨大な土堰堤です。
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冬の朝の蟲除守護名号堂

2012年01月24日 04時43分20秒 | Weblog
 加東市西垂水の集落の北の広々とした田圃の中にお堂があります。境内はきれいに掃除されており、境内の真ん中に一本の背の高い石柱が立っています。
 石柱には「加東郡霊場八十八番奥之院 蟲除守護名号堂 大正七年三月十五日 願主 上月宗兵衛」と刻まれています。大正7年3月15日は、加東四国八十八番霊場の開創された日です。 冬の朝、ピンと張り詰めた冷たい空気をほぐすように朝日が差してきました。  
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旧社町が町制実施100周年

2012年01月23日 04時30分20秒 | Weblog
 今年は旧社町(今の加東市立社小学校区)が町制を実施してからちょうど100年目にあたります。明治45年(1912)3月、社村は町制実施の認可を受けて、6月1日に社村から社町に改称して町制を実施しました。それから数えて今年が100年目ということです。
 兵庫県では、明治22年に市制町村制が実施されました。当時は神戸市、姫路市の2つの市と26町、402村が発足しました。旧加東郡(今の加東市と小野市域)には、15村が発足しました。加東市域では、社村、福田村、米田村、上福田村、鴨川村の5村が誕生したのでした。そのうち、社村がいち早く町制を実施したというわけです。
 7月7日に町制実施祝賀会が開かれています。そのようすは、当時の地方新聞(「神戸又新日報」、「神戸新聞」)に次のように報じられています。この歴史ブログの初期の頃に一度紹介しましたが、再掲します。


町制の実施と役場
 佐保神社の参道を南に向かって歩いて行くと、「明治館」の塀につきあたります。その曲がり角あたりに昔、社町(昭和の合併以前の社町)の役場がありました。ここに役場が建てられたのは、明治45年7月のことでした。
 加東郡社村は、この年の3月に町制実施が認められ、6月1日をもって加東郡社町となっています(これが旧社町)。それまで役場があった場所に加東郡公会堂が建設されることになり、これにともなって隣接地に新庁舎が建設されることになったのです。
 町制実施記念式典はこの新庁舎の落成式を兼ねて行われました。まず、佐保神社で町制実施奉告祭が執り行われ、続いて新庁舎講堂で多くの出席者のもとに式典が開かれました。式は、国歌吹奏、勅語奉読に始まり、松本町長の式辞、山県加東郡長の告辞などが続きました。出席者を見ると、郡長、郡書記、裁判所長、税務署長、県会議員、郡会議員、町村長、会社銀行重役、新聞記者、町会議員、区長、功労者など地域の有力者ら約160人となっています(「神戸又新日報」)。
 余興には、餅まき、自転車競争、相撲、小学生の旗行列、煙火(はなび)の打上げ、提灯行列、芸妓の踊りなど多彩な催しものが繰り広げられ、さらに一般町民には祝酒が振る舞われるなど「町内空前の賑い」(新聞)だったようです。

 旧社町の町制実施から100年。その節目の今年、その歩みを振り返り、未来を構想するような機会、企画を立ててみたいですね。写真は旧加東郡公会堂で昭和初期の頃のものです。現在は明治館として各種催しなどに使われています。


 
 
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