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日本のスタイリストの草分け的存在。現在も、広告、CMなど第一線で活躍中。71年、ロンドンで山本寛斎氏とファッションショーを成功させ、その後、「ジギー・スターダスト」期のデヴィッド・ボウイの衣装を担当。鋤田正義氏によるデヴィッド・ボウイやT・レックスの撮影をアレンジしたことでも知られる。エッセイ『家族の回転扉』(『小さな小さなあなたを産んで』読売新聞社所収)で第19回読売「ヒューマン・ドキュメンタリー」大賞を受賞。
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2004年11月
2004年10月
3月24日 ローリング・ストーンズのファッションチェック
3月19日 ことの始まり
3月6日 読売新聞「本よみうり堂」著者来店に
2月12日 フラワートラベリングバンド
2月11日 表参道ヒルズ
1月22日 「表参道のヤッコさん」
1月11日 ホームレス
12月12日 原宿表参道エコ・パーティ、そして、、、
12月18日 雪の名古屋へ
12月16日 Pretty Things
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高橋靖子の「千駄ヶ谷スタイリスト日記」
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「表参道のヤッコさん」が3月5日、読売新聞の書評欄に取り上げられました。今、朝5時出発のロケに合わせたように、日曜日の朝4時40分に配達されました。
読んでくださいね。では行ってきます。

昨日、ここまで書いたとき、予約していたワゴンタクシーがきたので、出発してしまった。
早朝の都内ロケは肌寒かったけど、柔らかい春の陽射しが絶好のロケびよりだった。
時間より早く着いたので、駅前のコンビニで読売をあるだけ、4セット買った。それから、私の本を「オレンジページ」に推薦してくれた女子店員さんがいるという本屋さんの前を通った。閉まっている店の前で、「佐藤さんありがとう」とささやいて、現場にもどる。

ロケが終って、スタジオに入ってから、消音にしたケイタイに友人から「新聞見たよ」のメッセージがたびたび入る。
宇野千代さんの秘書だった藤江さんからは「一生にそんなにないラッキーなことだから大切にしなさい」とあった。作家に寄り添って生きた方の言葉だから本当にそうなのだろう。
実際、発売まえにいくつかの本屋さんを観て回って、こんなにたくさんある本の洪水の中に、はたして私の本が無事船出できるのだろうか、と思った。

出版してから数日後、新宿の紀伊国屋本店で話題の新刊コーナーに発見した時、思わずポロリと涙が出てきてしまった。
その私の肩をポン!と叩いたのは、新宿2丁目のバーのママで、
「ふらりと入ってきたら、ヤッコさんの本があったからデビッド・ボウイのところを立ち読みしてたのよ」とのこと。
思わず「ちゃんと買ってよ!」と叫んでしまった。店内にはなんと3箇所に平積みでおかれていた。

今のところ、都内の本屋さんから、突発的によいニュースがはいってくる。とってもありがたいことだ。
撮影のあと、ワゴンタクシーに待ってもらって、渋谷のブックファーストに寄った。
夜9時過ぎの道玄坂は、人も車も、真昼間のように混んでいる。本屋さんのなかも人々でいっぱいだ。
地下と2階で、この間お話した店員さんを見つけて、コンビニで買った新聞を渡した。

今日中に、なにかしたかった。超精いっぱいで恥ずかしいけど。
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友だちの鳥居ユキさんが「ヤッコ、いっしょに行きましょう」と誘ってくれて、なんだかよくわからないまま、「Pretty Things」というドキュメンタリーフィルムの完成記念試写とパーティについて行った。
ところがこれがとてもラッキーなことだった。

あとで知ったことを書くと、監督でもあり、出演者の一人でもあるリズ・ゴールドウィン(Liz Goldwyn)はMGMの創設者のサミュエル・ゴールドウィンの孫娘。女優の衣装をはじめとしたさまざまな衣装のコレクターとしてもしられているひとだ。
どんな映画が始まるのか、集まった方たちの様子からして、とてもおしゃれであることはまちがいない。
ユキさんと取りとめもない話をしながらほぼ一時間ほど待っていると、映画が始まった。

1920年代から50年代にかけて、アメリカには「バーレスク」と呼ばれるエンターテイメントショウがあった。
誇り高くて、セクシーなバーレスククイーンたちが登場して踊る貴重な当時の映像、年を経た彼女たちへの取材、彼女たちから伝授される踊りをリズ自身が踊る、、、というような流れで映画は進行した。
(リズ自身はバーレスククイーンを日本の芸者にたとえている。これはわかり易いたとえかも)

観終わって感じたのは、とても楽しかっただけじゃない、これは リズが映画にしてくれなかったら、忘れられてしまったかもしれない貴重な文化だった、ということだ。
映画のタイトル「Pretty Things」はデヴィッド・ボウイの曲にもあるなーと思っていたら、最後のタイトルバックで、それが流れた。

パーティ会場には先日久しぶりに会った中西俊夫さんがいるではないか。
「ヤッコさん、あとでDJやるよ。デヴィッド・ボウイやTレックスかけるから、残っててよ」という言葉を忠実にまもったら、午前一時過ぎてしまった。
最初は躊躇が先立って、私の貧しい英語では、なかなか話しかけられなかったリズに、時間がたつにつれて度胸がついて、ついにちょこっと話しかけた。
リズは「きゃー、うれしー、私もそう思ってつくったのよー」と抱きついてくれた。(すかさず、ツー・ショットを撮らせていただいた、公開しませんが)

トシさんが、60年代から70年代にかけて「グラニー・テイクス・ア・トリップ」などを手がけていたジーン・クレール氏と軽々と会話をかわしているをみると、まったくうらやましい限りだった。
リズは多分、20代の終わりぐらい。
この催しをプロデュースしたマイコさんは30歳。
私は彼女が5歳か6歳の頃を知っているが、ここでも、こうして時は流れていたということを知るのだった。

写真 (撮影・Yacco) 左の女性が監督のリズ・ゴールドウィン。 
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喫茶店は私にとって大切な生きる場所のひとつであり、サロン、書斎、そて愛や友情を語る場所として機能していた。
私がいたのはレオンばかりではない。
原宿に散らばっていたさまざまな喫茶店を毎日、何度も出たり入ったりしながら、その時その時の人生を綴っていた。

キディランドの隣に「カフェ・ド・ロペ」があった。
オープンカフェの走りといおうか、カフェ・ド・マーゴとか、パリのカフェを思い起こさせた。
冬になると寒さ対策で、テント地の屋根と周りをぐるっと囲む簡易ドアのようなものがついた。
レオンのように業界のひとでいっぱいというわけではなく、キディランドやオリエンタル・バザー(東洋調のものを置いた外人向けのスーベニール・ショップ)に来た外人が立ち寄ったり、表参道を目指した若者がいたり、一時はクールスのメンバーがレオンから移動してこちらを根城にしていた。
ファッションメーカーのロペが経営していたこともあって、ロペの大型看板が店の屋根の上にかかっていた。とてもファッショナブルなものだったので、原宿の景観のひとつになっていた。

明治通りをはさんで、100メートルぐらい原宿駅に近いところには、道に沿って全面ガラス張りの喫茶店「コロンバン」があった(私はガラス張りの喫茶店が好きだ)。こちらはコープ・オリンピアに隣接していたこともあって、そこの住民や地下にあるスーパーや、コインランドリー帰りのひとも立ち寄っていた。
コーポオリンピアには伊丹十三さんの小さな書斎もあり、セントラルアパートにあるレオンや浅井慎平さんのバーズスタジオばかりではなく、コロンバンで打ち合わせすることもあった。
フランス直伝のばっちりお砂糖の効いたケーキはどこかを訪ねる時お土産によく買った。

私はここの灰皿が大好きで、わけてもらったが、後に多分あまりにリクエストが多かったせいだろう、いくらかで買えるようになった。
「ヴレヴ パセ オ サロン?」(サロンにどうぞ)というようなフランス語が皿の周りに書かれていて、真ん中には赤・緑・青のエスニックっぽい服をきた男女が踊っている絵が描かれていた。 トリコロールの灰皿はなん
ともかわいらしくて、タバコは吸わないけれど家でもテーブルに飾って楽しんていた。


写真 (撮影・染吾郎) 着ているのはロウシルクのワンピース(ヨーガンレール)。
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写真は70年代のはじめのある初夏の日だろう。
若葉をいっぱい広げているけやきの枝はか細くて、まだまだ若々しかったのだ、とわかる。
フランセはセントラルアパートの隣にあった。
レオンができる前からあって、セントラルアパートの住民はここによく通った。
フランセは一階が洋菓子売り場で、二階が喫茶店になっていた。
ケーキのケースを左に見ながら右側の階段を上がって席についたものだった。
ケーキやクッキーの包装紙は、幻想的な東郷青児の絵が使われていた。

当時、お菓子屋さんの包装紙で好きなものが2つあった。
淡い紫をベースにエレガントな女性が描かれていたフランセのものと、黄色に黒で、可愛い子供達の姿が影絵になっているジャーマンベーカリー(これは六本木にあった)のもの。
フランセの壁面には包装紙に使われた東郷青児の絵が額に入って飾られていたと記憶する。

私の生涯のカフェ通いは、まず銀座のウエストからはじまったが、原宿に移ってからはこのフランセだった。
表参道の並木道の光を受け入れた明るい店内。
日常的な仕事の打ち合わせもしただろうが、覚えているのは自分たちの未来について飽きることなく語り合ったことだ。
まだ、何にもできないという不安といっしょに、自分たちがなにか素敵な世界を作っていくんじゃないかという、途方もなく楽天的な夢を語り合うために、ここでたくさんの時間を過ごした。

写真 (撮影者・不明) フランセにて。
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いつだったか、横浜港近くの由緒あるバーでロケをした。
撮影終了後、成り行きでささやかなお疲れ会となり、スタッフは仕事の緊張から解放されたひと時をバーのカウンターで過ごした。
カメラマンの十文字さんの脇には若い女性スタッフが座り、私もそばの席に連なった。


彼女は「十文字さんて、どうやって写真の修行をしたんですか?」と単刀直入な質問をした。
仕事の後のぽかっとリラックスしたい時間に、かなり真面目でシリアスになりそうな質問をして大丈夫なんだろうか、と私は密かに気をもんだ。
十文字さんは、にっこり笑って、「僕はね、実は役所に勤めていたんだよ」とことの始まりから丁寧に話し始めた。
その話は、若い女の子が独り占めにするにはもったいないことがいっぱい詰まっていて、私は聞き耳を立て続けた。
話が六本木スタジオのスタジオマンになった頃になると、女の子といっしょに相槌を打っていた。(あ、突然思い出したけど、その頃は私もやや若い女の子だったんじゃないかしら)
当時のスタジオマンには、仕事の獲得の仕方があった。
いかに一番乗りしてスタジオを掃除するか、そんなことにも必死だった。
十文字さんは遂にスタジオに寝起きして、一番を確保した。あの白くて硬いスタジオは地面より冷えたのではないだろうか。そこで一番になるのがどういうことにつながるのか、今ではその細かい話までは思いだせないが、そうやってコツコツと並外れた努力をして、何かしらのチャンスをつかんでいったのだ。
当時はスタジオの数も少なくて、私もしょっちゅう六本木スタジオに出入りしていたから、いっしょの時もあったろう。
でも残念ながらスタジオマンのときの十文字さんは記憶にない。
それから、彼はカメラマンのアシスタントになったが、優秀なアシスタントとしての伝説は何度かつたえ聞いている。

十文字さんがはじめてファッション写真を撮ったときのことは鮮明だ。
72年、ロンドンに行った時、ファッションデザイナーのザンドラローズと知り合った。


女の家でのパーティには、寛斎さんや、マガジンハウス(当時は平凡出版といった)の編集部の椎根大和さんなどと押しかけた。
そんな縁で、池袋西武でザンドラのファッションショーを開催し、アンアンでは、ザンドラの服を大々的に紹介することになった。
椎根さんが「若いカメラマンでやるよ」といって現れたのが十文字さんだった。
当日、十文字さんは相当緊張していたらしいが、私たちには全然それは感じられず、それよりも、撮影の素早さに驚いた。
あっという間に終ってしまったのだ。
椎根さんは、自分が起用した若い才能の仕事ぶりに編集者としての喜びを感じているようだった。
何しろ、十文字さんがフリーランスになって、3ヶ月目の仕事だったのだ。

それから数年間、十文字さんは、クライアントや広告代理店に見せる作品集には、ザンドラの写真が必ず入っていた。
パネルになったその写真を私がいっしょに見るときだけ「最初にすごいものに出会っちゃったんで、なかなかこの作品を引っ込められないんだ」と言って笑った。
その記念すべき時に、スタイリストとして参加できたことをラッキーだと思った。
十文字さんが、ムービーに挑戦する時がきた。
スチールフォトグラファーとムービーカメラマンの職域が分かれていた時代から、両方をトライする人たちが出てきたのだ。
多分同じ六本木スタジオだったと思う。
加藤和彦さん、ミカさんが、スタジオの床に腰を下ろして、カメラを見上げる。お菓子メーカーのコマーシャルだった。
技術的なサポートをするスタッフがさりげなく十文字さんを囲んでいる。
この撮影は、仕掛けもなく、シンプルでかっこいいものだった。
広告界には才能ある人たちをうまく引き立ててゆく体質が自然にある。
みんな好奇心が強い、新たらし物好きの集団なのだ。

ある日、私は十文字さんに、こんなことを報告した。
私は子供を生んで3年経っていた。
産後は、それ以前より何倍かの仕事が押し寄せてきた。
私はそれらの仕事に以前にも増して情熱を注いでいたし、自分の感覚もそれなりに光っていると思っていた。
その日、世界に降りそそぐ光りがいつもと違って見えた。
世界がクリアな鋭角さをもって存在していた。
それまで、見えないへその緒が私と子供のあいだにあったのだろう。
今、母性に包まれて柔らんでいた私の感覚が、そのやわらかい膜を脱いだのだ。
その瞬間は、空から降ってきたような感じで、へその緒が切れた私は、今新しい時を刻み始めたような気がする、、、と。
十文字さんは、目を輝かせて私の話を聞いてくれた。
そして「やっこさん、素晴らしいよ。よかったね」といってくれた。

写真 (撮影・十文字美信、モデル・グレタ スタイリスト・Yacco アンアン 1973年11月5日号より) 
ザンドラのドレスは、シフォンにアメーバ状の柄がったやわらかいものから、フエルト状のものまで、芸術品といっていいものばりだった。私は彼女からシフォンのドレスを一着プレゼントされた。
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表参道の交差点、ギャップのちょっと青山通りに近い所に小さなビルがある。
その前の歩道は、同潤会アパートを経て青山通りまで続く欅(けやき)の並木道だ。ビルの前の欅の下のベンチには、毎日若者の行列ができる。2階の店「ゴローズ」のオープンを待つ列であり、時には、入店の人数をコントロールするための列だ。
「ゴローズ」は、オリジナルのインデアンジュエリーと、皮製品の店。
店主のゴローさんは、この店にいたりいなかったりだが、30年以上前から、ずっとここが彼の拠点だ。
彼は、日本で初めて、アメリカインデアンのラコタ(旧称スー)族によって「イエローイーグル」という名前を与えられ、正式にインデアンになった人だ。
その名前が与えられる直前、こんなことがあった。

70年代の後半に入った頃のこと。
私に「カウボーイとインデアン」のコマーシャルの仕事がきた。
カウボーイ役は人気男性タレント、インデアンは黒人モデルだった。カウボーイハットや、服はすぐ手配がついた。インデアンの衣装は、アメリカがらみの大きな行事が入っていてどこにもなかった。
私はゴローさんに相談に行った。
「俺が持っているのはさー、このほんものの服だけだな。これを着てインデアンになる儀式をうけるんだよ。だから、これは俺の命とおんなじだ。その儀式を受けるまで、汚(けが)したくないんだ」
まったくその通りだと思った。
何か別の方法を考えよう。私はそのとおりのことをディレクターに伝えてしまった。ディレクターの目がキラリと光った。
「僕はその本物の服を使いたい。」
「もっと、ポップでキュートなほうが可愛いいよ。」とかなんとか私は言ったと思う。(それは本当だ)
だが彼が急に固執した「そこだけ本物指向」は強かった。男性タレントがチューインガムを噛み、そのわきで、インデアンが「インデアン、ウソ、ツカナイ」というコマーシャルなのだ。ゴローさんには怒鳴られそうなアイデアだ。
いやだなー、と思ったけれど私はまたゴローさんのもとに走った。
ゴローさんは私の目をまっすぐ見て、こういった。
「いいよ、貸すよ。これはヤッコじゃなかったら、貸さないよ。ヤッコに貸すんだよ」
私は、その神聖であるべき、しなやかな鹿皮革の上着を借りた。そして、極彩色のインデアンメイクをしたモデルに用心深く着せた。照明が当たって、モデルが汗をかくと、皮革に汗がしみこむのが心配だった。ほんのちょっとの瞬間も目を離せない。私は一日中、緊張しきっていた。
夕方、やっと撮影が終わった。ディレクターの「OK!」の掛け声とともに、私に電話がはいった。たった30秒離れて駆け戻った瞬間、モデルがガバッと衣装を脱いだ。
私は、悲鳴をあげた。
胸元には、グリーンやオレンジのメイクがべったりついていた。
私はことの重大さを周囲に訴えたが、そんなことは、何の解決にもならなかった。気がつくと、スタッフはいなくなっていた。

私は汚してしまった服をもって、ゴローさんのアトリエに向かった。
私が借り、私が返しにいくのだ。
アトリエは、青山3丁目から西麻布に向かってすぐのところにあるコシノジュンコさんのブティックの2階だった。
私はなんと言ったらいいのだ。
何の整理もつかないまま、私はアトリエのドアを開けた。
ゴローさんが立っていた。私は、ゴローさんが命と同じだと言っていた服を捧げもって、絶句した。
「ゴローさん」 それだけ言うと、どっと涙がでてきた。
うなだれている私に、思いがけない言葉が降りそそいだ。
「ヤッコさん、泣くなよ。俺はヤッコさんが泣くのをみたくないよ。こんなもん、どうってことないよ。これは、貫禄ついたほうがいいんだ。俺、これから、どんどん汚すよ。ふんずけて、もっとカッコよくするよ」
ゴローさんは、この間と正反対のことを、懸命にいいつづけた。

付け加えるなら、このとき、私は、ヨチヨチ歩きの息子を連れて行っていた。(仕事の領域に子連れで行くことは、きわめてまれなことだった)
ものめずらしげにアトリエをうろつく息子には、私にとってどんな時間が流れているかを、知る由もなかったろう。何故かこのときの幼い息子の姿がれられないので、ここに記しておく。
私の絶体絶命を救ってくれたのは、誰でもない被害者のゴローさん自身だった。百の言い分があったに違いないのに、一瞬のうちに人を咎めたり、責めたりしないと決めてしまえるなんて。
静かで、平和な気持ちに満たされて、家に帰れるとは予想もしていなかったことだった。

その後、ゴローズの店で、コーヒーを飲みながら、ゴローさんからイエローイーグルになるまでの、不思議なセレモニーの話を何度も聞いた。
4、5人で彼を囲むテーブルの後ろの壁にはいつも、儀式に着た鹿皮革のジャケットが掛かっていた。
私が汚してしまった胸の染みのあたりには、幾重にもインデアンジュエリーの首飾りがかかっていた。
私はその後、何度ゴローズに行っても、何年たっても、その首飾りの後ろ側を覗くことはできなかった。

写真 (本人所蔵のもの)
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1960年代のどこか(多分まんなかあたり)で、いつの間にかスタイリストになってしまった私だったが、最初は何もかもひとりでがんばっていた。
アシスタントなどという概念はほんのちょっぴりもなかった。
ある日気がついたら、大竹さんという、目がくりくりと輝いている女の子がやってきて「ヤッコさんには私が必要です」とはっきりと言って、そのままアシスタント第一号となった。
彼女はインテリアや雑貨が好きで、まもなく才能を発揮し始めた。
私はいつも彼女といっしょに行動をしていたが、私の先輩のデザイン事務所に遊びに行った時、そこにすてきな建築家がいたらしい。
彼女はあっという間に彼と結婚して、彼の赴任地である中近東へ行ってしまった。

それからしばらくひとりでがんばっていたら、メッツメ(光枝の愛称)さんという女の子が現れた。
彼女はセツモードセミナーやサンデザイン・スタイリスト科に通って自分の居場所を探している少女だった。
彼女もある日、私の前に現れてアシスタントになった。
そのころ私は寛斎さんのロンドンのショーの準備で、ロンドンに行っていることが多くて、お留守番をしているときの彼女の気持ちを考える余裕が私にあったかどうかは、疑問だ。
ロンドンのショーが成功して、東京で凱旋公演ということになり、日生劇場でショーが開催された。
東京のショーも無事成功して、観客の拍手がしばらく鳴り響いた。
ふとメッツメさんの姿をみると、カーテンの陰で、ひっそりと泣いている。
実はロンドンのショーで、スタンディング・オベーションが30分以上つづいた時、私もメッツメさんとまったく同じ場所で泣いたのだった。
置いてきぼりにしていた彼女が、私と同じ場所で同じようにすすり泣いている。
私たちはおなじ感動を共有している、ということを発見して、私はとてもうれしかった。

繊細な都会っ子の彼女は、抜群にセンスが良かったが、自分の美意識に対しては度胸があった。
ある日、彼女は色のきれいなアラン編みのセーターとカーデガンのツインニット、その頃は希少価値だった直輸入のものを、ソニービルで発見した。
(ソニービルは今でいうセレクトショップ的な役割もはたしていた)
アイルランドのアラン島でつくられるアラン編みは、北欧のフィッシャーマンと同じく立体的な模様編みの、温かいニットだ。
素朴ながらモダンな色合いのアラン編みのセーターを、その頃ポール・マッカートニーが着ている写真をみたことがある。
丸ごと一ヶ月の月給をはたいて、そのツインニットを買ったとき、彼女は「一生着るからいいんです」と、きっぱり言った。
それから30年後、恵比寿の写真美術館でメッツメさんに会った。
彼女はあの頃とちっとも変わらない快活さで、私のところにとんできた。
その時の彼女はダンガリーのシャツにチノパンだった。
それこそ、少女のメッツメさんがいつもしていたスタイルのひとつだった。
その姿をみた時、あのアランのニットもまだ元気に生きつづけているんだろう、私は確信した。

2年ほどいっしょに仕事をしたメッツメさんが去って、私はまた孤軍奮闘していた。
「服装」に掲載されている私のエッセイを読んで、分厚い手紙を、一冊の本ができるぐらい送ってくれる少女がいた。返事は書いていたけれど、本人に会うのはなんだか気恥ずかしくてなかなか「お会いしましょう」と言えなかった。
ある日、アパートの私の部屋に大勢の友達を呼んだとき、思い切って彼女にも声をかけた。
オカッパの、日本人形のような顔に、木綿の少女服を着たのんちゃんが現れた。彼女は桑沢デザイン研究所の生徒だったが、この瞬間から、一生のお付き合いが始まったのだ。
いつからともなく仕事を手伝ってもらうようになり、緊急の時は、桑沢デザインの学生ホールに呼び出しをかけたりするようになった。
ようやく彼女が卒業して、二人三脚が始まった。
私の記憶では、それまでの大竹さんや、メッツメさんも含めて、アシスタントとの関係はセンス、嗜好、いい物を探すこと、コーディネイトすること、すべてふたりの間でキャッチボール出来ることが大事だった。

私とのんちゃんは昼も夜もよくしゃべりあった。
しゃべっても、しゃべってもたりないくらい、好きな人、好きな本、好きなものについて、歩きながら、お茶を飲みながら、電話をしあいながら、しゃべった。
仕事以外でも、いっしょに洋服を見て歩いたり、アンティックの店を覗いたりした。のんちゃんの着ているもの、もっているもので何か新しいものがあると「どこで買ったの?」と問いたださずにはいられなかった。
生成りのシャツは渋谷の「文化屋雑貨店」、プードルやスコッチ・テリアのブロウチは青山の「パリ・スキャンダル」、ブリキのおもちゃは骨董通りの 「ビリケン」と言う具合に。
海外ロケに行くと、10回ぐらい店に通って最後に決心して買ったものを思わずのんちゃんにおみやげで渡してしまうことがしばしばあった。そのくらい欲しいものの趣味がいっしょだと感じていた。

ある時、撮影の小道具にトランプが必要になった。手配の途中で、のんちゃんから電話がかかってきた。「いま私、松戸にいるんですけど、、、」
気に入ったトランプがなくて遂にトランプ工場まで行ってしまったのだ。
現在のように、スタイリストご用達のリース屋さんがあるわけでなく、それぞれの才覚とセンスで物を見つけなければならない。
私と彼女は大雑把に打ち合わせをして、仕事の分担を決める。それから先は、自分で開拓してゆくのだ。こうして、私ものんちゃんも、新しいルートを開拓していった。

そんなのんちゃんも、4年後に、フリーランスとして出発する時が来た。
私が一番先に考えたのは、彼女がいなくて仕事がやっていけるだろうか、ということだった。
のんちゃんはのんちゃんで、「もうじゅうぶん一人でやっていけると思ったけど、全責任を負ってやるのと、アシスタントとしてやるのでは、まったく違うということがわかった。今はこういうとき、ヤッコさんはどう判断しただろう、と思いながらやってるの」と言った。

それから、いろんなアシスタントが現れて人生のある時期いっしょに過ごしてきている。彼女たちはひとりひとり、それぞれまったく違うタイプなのに、うまくフル回転しているときは、おもしろいことに、「ヤッコさんに似てますね」と異口同音に言われる。

写真 (撮影者・不明) 仕事中の私とのんちゃん。
私はマドモアゼル・ノンノンのBMWと刺繍がしてある紺色セーター。のんちゃんは花の刺繍がついているアイボリーのモヘアのセーターで、50年代の古着。
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ハワイでの記憶は仕事のことだけではない。
私には実父と養父とふたりいたが、ふたりとも戦争体験の話をよくした。
実父はもと最年少の共産党員だったので、徴用されたときは、南方のほぼ生きては帰れない所(パラオ諸島らしい)に送られた。
そしてあっという間に機銃掃射で、後頭部をやられ、鼓膜はすっ飛び、ある期間は記憶喪失症になったという。
それで、母には自分が死んだら、ほぼ絶滅した隊の戦友たちが眠る南方の海に骨を撒いて欲しいと常々言っていたそうだ。
私はその父の言葉をいつか実現しよう、と思っていたが、母と幼い息子を連れて、嘗ての戦地に行くのは気がひけた。
同じ海続きだから、親孝行と休養をかねて、ハワイはどうだろう。
もちろん母は大喜びで、パスポートをとった。

そんなわけで、私としては空前絶後かもしれないハワイ観光ツアーに参加したのだった。

ロケでもない、ひとり旅でもないパック旅行は、私には初体験だった。
まず空港からホテルに到着する前に、業者とタイアップしているらしいお土産屋さんに引きずり込まれた。
早くも目を輝かす母に、私は「お母さん、やめときなさい。ほかにもっといいものがあるよ」と忠告した。
(30年近く前の話です。今はこういうことはないでしょうね)

30代半ばの私は、もちろん今より若さの馬力はあっけど、常に疲れていた。
仕事はありがたいことに、いっぱいあったが、育児と生活の維持のほうもいっぱいいっぱい、だった。
がむしゃらに働き、必要とするところに、得たお金を気前よく注入していた。
ハワイは格安ツアーの季節で、湿気が多く、東京にいたときよりもずっと腰が痛かった。

(あの頃よりも、実際今のほうが、肉体的には健康だと感じている)
母と息子とアラモアナ・ショッピング・センターを歩く。母はムームーを買い、珊瑚の指輪を買う。ハワイの歴史やハワイアン・キルトが展示されているミュージアムを覗く。
そんななかで、父の遺言を果たす時が来た。

もとより家族の小さなセレモニーのために船をチャーターする、という考えはなかった。

母にとっては神聖なセレモニーだったが、私が選んだのは、オプションで付いている「サンセット・クルーズ」だった。
夕暮れ時、観光客を乗せた船はホノルルの港を出航する。バンドが入っていて、それを聴きながら食事をしたり、踊ったりの数時間にわたる海上散歩だ。
私たちはほかの観光客と同様に食事をし、バンド演奏を聴きつつ美しい夕焼けを楽しんだ。
そして、他の人たちが賑やかに踊っている船の片隅で、私たちだけのささやかなクライマックスを迎えた。
母は分骨した小さな壺と花束を持って、「お父さん、お友だちのところにお還りなさーい」と叫んだ。息子は「じーじ、バイバイ」と手を振る。
その声は即、陽気なバンドの音にかき消された。
父の骨と花束はあっという間に波間に吸い込まれていった。
母は少しのあいだハンカチで目を覆って涙を拭いた。

母ははじめての海外旅行にいたく満足したようだった。
「今度はアメリカ本土に行って、千恵子に会わなくちゃ」
母の妹はオハイオにすむ戦争花嫁だった。
私は本気でうなずいたけれど、その夢はかなえてあげられないまま、今日に至っている。


写真 (撮影・Yacco) ハワイの夕焼け
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私がスタイリストとして駆け出しの頃、 ハワイはすでにコマーシャル撮影のメッカだった。
ロケが集中するのは年末年始で、冬のあいだに春や夏の撮影をするため、青空や光を求めて撮影隊が訪れる。
常夏の島ハワイに対して、私は光きらめく夢の島的なイメージを持っていたが、この季節のハワイは雨季で、良いお天気の思い出と、頑固な曇天に悩まされた思い出と両方ある。
広告代理店のかたやプロデューサーがミーティング等を重ねるなか、
私たちは曇天や雨の時は大騒ぎせず、黙ってそれなりの時間を過ごした。
つまり、ショッピングモールなどに繰り出して、アロハやスニーカーをみつけたり、安いスーパーに出かけて、まだ日本にはないような生活雑貨を見つけたりしていたわけだ。
日本からのロケ組は、「アンバサダー」というホテルに滞在することが多かった。現地のコーディネーターのテリトリーみたいなものがあったからだろうか。
朝食の食堂、ロビーやエレベーターの中で、私たちはご近所さん同士のように、挨拶しあった。時には東京で出会うよりももっと沢山の仕事仲間とハワイで会い、会話を交わした。
ここの食堂のウエイターにはゲイのお兄さんがいて、モンローウォークで、料理を運んできた。私はこのお兄さんと仲が良かった。

ある時、ハワイで文化財クラスの、アーリー・アメリカン・スタイルの家で撮影をした。

大きな木々と広い芝生の庭の奥にその家はあった。
外観はオフホワイトのペンキが塗ってあったと思うが、各部屋は年季が入った木材がそのまま生かされており、床はこげ茶色に光っていた。
部屋の真ん中には白い綿レースの天蓋がさがり、その下に足の長い(背の高い)シンプルなシングルベッドがあった。
ベッドの脇にはちいさな階段状の椅子が置いてあってそれをトントンとのぼって、ベッドにあがるのだ。
ベッドのリネンも糊が利いた白い木綿だった。
「赤毛のアン」や「若草物語」で育った私は、その部屋の空気がオルゴールの音色のように懐かしく感じた。
その家の持ち主は、90歳近い老婦人だったが、こう話してくれた。
「あのベッドは、私が小学校の教師として、はじめてもらったお給料で買ったものなのよ。ホラ、あの電気スタンドも、筆入れも、お給料をもらうたびに揃えていったの」
そこにあるものは、彼女とともに、60年、70年と生き続けている。
買った当時は、何気ない生活用品だったのだろうが、月日が経って 別の価値も生まれていた。
何の撮影で彼女の家を借りたのかはすっかり忘れているが、その光景 だけはしっかり私の胸に刻み込まれている。

その後も、さまざまなシチュエーションで、家を借りて撮影をした。
豪華な家に備えつけられたプールで、可憐な少女が泳いでいる風景。
白壁のまえで、白いスーツの男性の撮影は、オーデションで選ばれた現地モデルで行われた。
もちろん、白い砂浜、青い海でも、さまざまな撮影があった。
砂浜を白い衣装をたなびかせて馬に乗って駆ける美女。そのあとを 素足で追いかけて衣装を直していたら、翌朝、足がバンバンに腫れてしまった、、、
人魚姫とカーニバルの子供達、、、人魚姫になった少女は、魚の下半身のまま、5時間も太陽にさらされた、、
寒い日本を遠く離れて、ある時間を太陽と潮の匂いの中で過ごす。
その撮影中、さまざまなドラマがあるの今も変わらない。

写真 (撮影・Yacco) 何のコマーシャルだったか覚えていないが、カメレオンの福田さんというクリエイティブ・ディレクターのロケだった。人魚は特殊メイクで身体と魚の部分をなじませるのに時間を要した。
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1977年ごろ、デヴィッド・ボウイとイギー・ポップは、ベルリンに滞在していた。その頃のベルリンは、アーティストたちにとって、20世紀初頭に起こった「ドイツ表現主義」が見直されていた時期だと聞いている。
この年の2月、3月、デヴィッドはベルリンのスタジオでイギーの「イディオット」のレコーディングに協力して、イギリス・ツアーにも同行した。
そして、4月22日、イギーのプロモーションのため、イギーとともに来日した。
彼らが滞在した2週間は、私にとっても、すばらしく楽しいものだった。

鋤田さんが、デヴィッドとイギーの撮影をすることになった。
前日、私はデヴィッドに電話をして、「明日の撮影の衣装はどうする?」と訊ねた。
「とにかく、黒の革のブルゾンを何着か集めておいて」
「それだけでいいの?」
「いいよ」とのことだった。
次の日、ホテルに迎えにいった私は、道順に関してちょっぴり、工夫した。
彼らが目につけそうなところを、回り道にならない程度に入れよう。
デヴィッド、イギー、そしてパーソナル・マネージャーのココさんを乗せて、ホテル(多分、ニューオータニ)を出発した。
原宿スタジオに着くちょっと前、タクシーに現在のウラハラを通ってもらった。
案の定、デヴィッドがイギーに「ここらへんて、何か風情があるね」などと話しかけ、イギーも頷いた。
その辺は、下町風の住宅街で、私が住んでいる静雲アパートもあった。ごくまれに若者の店がぽつんとあったりして、私の好きな場所でもあり、きっとふたりも好きだろうな、という空気感があった。
こんなエピソードは彼らの記憶には決して留まっていないだろうが、私にとっては、キラキラと輝き続ける小さな一粒、一粒なのだ。

スタジオではふたりともリラックスしていた。
私はおやつに有機栽培の不ぞろいな苺を篭にいれて用意していた。デヴィッドは篭ごとそれを持って、イギーに「ワイルド・ストロベリーだよ。うまいよ、これ」と勧めた。
アシスタントの中村のんがデヴィッドにサインを頼んだ。
「名前は?」
「のん」
デヴィッドは、レコード・ジャケットに咄嗟に「to Oui or Non?」とユーモラスに書いてから、サインした。


撮影が始まる前に、デヴィッドは上半身裸になり、革のブルゾンを面白い具合に、2着重ねて着た。
「ヤッコ、これどう?」
「かっこいい!」
「じゃ、これは?」
ブルゾンを素肌に後ろ前に着る。それも超かっこいい。5、6着用意したブルゾンだけで、楽しそうにいろんな着方をしてみせてくれた。
そして最後にきめてあたりまえのブルゾンをあたりまえに着て、撮影に入った。
デヴィッドは、連続していろんなポーズをとった。
そのなかの一枚が、後に有名な「ヒーローズ」のレコード・ジャケットになり、批評家の方々がそれを「ドイツ表現主義」の影響の現われ」などと評しているのを読んで、はじめてそういう意図があったのかと思った。私は何も知らなかったのだ。
イギーの番になった。
鋤田さんは、丸い穴の開いたボードを用意していた。イギーはそこから顔を出して撮影した。
これは後に「パーティ」のレコード・ジャケットになった。

それから約20年後の96年に来日した時、このスタジオの隣にある「樅の木ハウス」というレストランで食事をした。
ココさんから電話があり、「メンバーにべジタリアンが多いの」というので、ここを手配して待っていたのだった。
タクシー2台に分乗して道路を挟んだ向こう側にタクシーは止まった。
いちばん最初に元気に降りてきたのは、デヴィッドだった。
彼が来るとは聞いてなかったので、私ははしゃいだ。
「デヴィッド!ここよ!ほら、このスタジオでヒーローズを撮ったのよ!」
私はレストランに入る前に、彼にスタジオの入り口を指し示した。
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