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日本のスタイリストの草分け的存在。現在も、広告、CMなど第一線で活躍中。71年、ロンドンで山本寛斎氏とファッションショーを成功させ、その後、「ジギー・スターダスト」期のデヴィッド・ボウイの衣装を担当。鋤田正義氏によるデヴィッド・ボウイやT・レックスの撮影をアレンジしたことでも知られる。エッセイ『家族の回転扉』(『小さな小さなあなたを産んで』読売新聞社所収)で第19回読売「ヒューマン・ドキュメンタリー」大賞を受賞。
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2004年12月
2004年11月
2004年10月
3月24日 ローリング・ストーンズのファッションチェック
3月19日 ことの始まり
3月6日 読売新聞「本よみうり堂」著者来店に
2月12日 フラワートラベリングバンド
2月11日 表参道ヒルズ
1月22日 「表参道のヤッコさん」
1月11日 ホームレス
12月12日 原宿表参道エコ・パーティ、そして、、、
12月18日 雪の名古屋へ
12月16日 Pretty Things
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高橋靖子の「千駄ヶ谷スタイリスト日記」
Hotwired / Blog / 高橋靖子の「千駄ヶ谷スタイリスト日記」
秋の美しい日、こくれひでこさんのお宅にうかがった。
70年代表参道のイラストマップを描いていただくため。
今度出る私の本に、「若い読者のために、その頃のマップをつけたら?」と、大学でファッションを教えている先生にいわれて、「そうしよー」と即座に決心した次第。
そしたら、ひでこさんのお顔がこれまた即座に浮かんで、お願いにあがったのだ。
こぐれさんちは、新築になってからは初めて。
本やテレビで拝見していたけど、うかがいたいなと密かに思ってから、もう7年半も経っていた。
秋の陽射しがなくなるまで打ち合わせをして、あわてて撮ったけど、おっ、雑誌の取材には決して映らない洗濯物なども後方にあるぞ。
帰りには、下のスタジオで撮影中のこ小暮徹さんにご挨拶をし、高所恐怖症も忘れて、スケスケの階段を降りた。
季節が部屋の内外にゆったりと流れるように存在している家。
住んでいる人に大切な事は健康でいることだけど、その健康を家が運んでくれている。

都会でそういう生活が成立してるのがうらやましいな。

そこで、我が家のはなしですが、うちも都会にはめずらしく、季節と共存しているけど、共存の仕方が、時々しんどい事態となる。
そろそろ老齢に達してきた我が家は雨が続いたとき、事務所側の部屋が、ものすごい雨漏りで、停電の繰り返し。
これは大家さんが修繕してくれた。
今は住居側のバスタブに蟻の集団が出現する。地下の水道管がどこかずれていて、蟻の住宅と接しているらしい。
最初は数匹だったので、見つけるとつまんで、そっと庭に放していた。
次第に数が増えてきて、地面に返す作業も、大変になってきて、ある日ついに百匹、二百匹近い蟻が続々と現れた。
お風呂が使えないので、申し訳ないけどその時はシャワーで流しました。
私って、やさしいのか、残酷なのか、、、
昨日、お風呂場に近い庭の一角に蟻塚を発見。
蟻さん、私みたいにいつまでも働いてないで、早く冬眠しておくれ。

写真 (撮影・貝瀬裕一)
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40年間一匹(♀)狼でスタイリストをしてきて、どこに所属するわけでもなく、どこの洋服のクレジットを紹介するわけでもない(大抵は広告やCMのしごとなので)のに、コレクションのシーズンになると招待状をいただいたりする。
新しいシーズンのためのクリエーションを観ることが出来るのは、すっごく楽しいし、ありがたいことです。
今年は絵画館前に大きな仮設の会場ができて、これには国からも援助があったときく。


今日はショーのあと、スタイリストの中村のんちゃんと、青山の川上庵へ。
秋になって、自分の家でもずいぶんお蕎麦をつくって食べてるし、外でもちょくちょく新そばを食べる。
もともとのんちゃんとはおしゃべりの周波数があうので、気がついたら11時近い。出し巻き玉子と鴨煮込み蕎麦で、時間も忘れてしゃべりあった。
それから閉店前のスーパー、ピーッコックにとびこんだ。私の「デパ地下」癖、「スーパー」癖は、いかなる時でも、発揮される。

絵画館前ばかりではなく、時には麹町の庭園のあるレストランや、青山のパティオのあるお店などのこともある。
写真は青山、ラスチカスでおこなわれた「ネ・ネット」という新しいブランドの風景。

日常的な若者の服がちょっと過剰なスタイリングとメイクでこんなメキシコになる。眉が繋がったフリーダカーロ・メイクで、花やラグを織る時みたいなリボンがびっしりと密集した帽子がすごくかわいい。
ショーが終って、出口のガラスのところに、モデルさんたちがデパートのショーウインドウのマネキン風に並んでいるところ。みんな立ち止まって写真を撮っていた。私もこうして。

写真 (撮影・Yacco)「Ne・net」のデザイナーはタカシマカズアキさん。1973年生まれ。
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10時と10時20分に、アシスタントの悠子ちゃんが下見していた服を渋谷と青山で大急ぎでチェックして、11時前に六本木ヒルズへ。
東京国際映画祭にさそわれて、「ドジョウも魚である」という中国映画を観るためだ。

11時20分の上映時間までちょっとだけ時間があったので、バージン・シネマの前にあるロブションのコーヒーとクロワッサンを買って、お腹を整える。

映画の舞台は現在、オリンピック開催国などのため、北京の街中で行われている大規模な工事現場に集まった出稼ぎ農民たちの話。紫禁城を再建するための現場での砂埃と泥んこの毎日。そのなかに厳然と光る命の尊さと儚さ。
「人間てみんなこうやって生きているんだよね」と思わず自分に言い聞かせてしまう映画だった。
映画のあと、主演男優とのティーチインがあった。
映画の熱演とうって変わって、小声で静かな話しぶりが心に響く。
中国語を通訳のかたが日本語に直し、司会者が日本語と英語で解説する。3ヶ国語がうまくチェーンのように繋がって、まさに国際的。

そうそうこの空気、味わったことがある。
3年前、本橋成一監督の「アレクセイと泉」 で映画のスタッフ10人ぐらいとベルリン映画祭に行ったとき、上映4回目がうわさを呼んで集まった観客で超満員になった。
スタンディング・オベーションのあと、本橋監督を囲んでティーチインがあったのだった。
ベルリンでは最初、自分達で、会場のいちばんいい場所を探してポスターを貼って歩いた。
上映するごとに観客が増えて、4回目には立ち見がでるほどの大盛況となり、賞もふたつもらった。
小さなホテルでは、アジアの若い監督たちと仲良くなったけど、彼らの映画をみる時間がないまま、私たちはエコノミーのチケットで帰ってきた。
あの時の高揚感を思い出した。

映画をいっしょに観た俳優さんたちと「堀井」で新そばをいただいた。
先週まで北京にいたという男優さんは北京の風景があまりにもリアルで余計胸にきたという。
そんな興奮と感動を反芻しながら、そのあと夕方までひとり銀座、馬喰町、神田と生地捜しに歩く。
神田の出版社で別の打ち合わせをして、深夜生地見本をみつつさらに衣装制作の打ち合わせ。
いろんな緊張と興奮で、頭の中はパンパンだし、足は棒のようになった。
明日はゲルマニウム温浴(足湯)に行こうっと。

写真 (撮影・Yacco)「ドジョウも魚である」の会場で、主演男優のニー・ターホン。映画は何という賞か忘れたけど、賞をもらったそうで、よかった、よかった。
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浅井慎平さんの小説、「セントラルアパート物語」を読み終わる。
10年ぐらい前に読んだものだけど、私自身が「表参道のヤッコさん」でセントラルアパートのことを書いているので、久々に取り出して読み直した。
まるで新しく読むような新鮮さと切なさを感じた。
私自身が存じ上げている方々がつぎつぎと出てくるので、あまり客観的になれないことが多少はあったかもしれない。
文章の進行とともに、私の中にある原宿や青山のマップをとぼとぼととたどる。
主人公とともに、スーパーマーケットの「ユアーズ」あたりから、交差点を右に曲がり、同潤会アパートを通りすぎて、冷たい雪のなかを、セントラルアパートに戻る、、、それらは、みんな消えてしまった風景なのだけど、雪で真っ白に覆われたあの風景、あの時間がページのなかから痛いほどくっきりと立ち上がり、広がった。
あの時代、あの場所で繰り広げられた人生が、本の中でいきいきと呼吸している。

私が以前住んでいたマンションが取り壊され目下工事中だ。
近所なので、時々通る。
私は一階に住んでいたので、引っ越した当時、伊勢丹の屋上で千円ぐらいの杏の苗木を買ってきて、部屋の裏側にある小さな庭に植えた。
数年後、か細い枝に数十個の実をつけ、その後、杏の数は年々増えていった。
夏はその広くない裏庭にテーブルを置いて、家族で日曜のブランチを食べたこともあった。
引越しの時、杏の木を引き抜くことがはばかれて残してきた。
時々、寄り道してどんどん大きくなる杏の木を見上げて、話をした。
言葉にすると照れくさいけど、木は私の友だちだ。私は中国の星占いで、「樹の星」の生まれなのだ。
工事が始まって、杏の木が心配だったけど、無事生き残っていた。
春、工事の囲いの中で、今までにみたこともないぐらい見事なピンクの花が満開になった。
きっと枝もたわわに杏の実がなるだろう。「すっごくきれいだよ」と私は話しかけた。

それからしばらくして現場を通ると、囲いスレスレにあった木々は一本を残して、みんな消えていた。
きっと工事に支障が生じたのだろう。
あの満開の杏の花は、ずっと前にそれを察していて、ありったけの命を ピンク色に燃やしたのかなー、と思った。
でもあんまり感傷的になっちゃいけない、街は刻々と変わってゆくのだ。
写真 (撮影・Yacco)
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私の家にはイギリスの農家からやってきた大きなテーブルがある。
26年ぐらい前、サザビーで購入したもので、サザビーの社長さんである鈴木さんが直接もってきてくださった。いくら26年前とはいえ、私はびっくりして大いに恐縮したものだった。
イギリスの田舎で、何百年か生きつづけた農家具は、ここ数十年なんて時間はなんのその、がっちりした4本の足で、どんと居間の中央に存在している。

このテーブルでたくさんの「みんなでご飯」があった。
15年前、神宮前から千駄ヶ谷に引越してきて、ある夜6、7人のご飯に作家の宮内勝典さんご夫妻がいらした。
宮内さんは部屋に入るなり、このテーブルに歓声をあげた。それから壁にあるアフリカのカマンテのクレヨンで描いた象の絵に再び歓声をあげた。(宮内さんは声の大きいかたなので、ご本人はそういう意識はなかったかもしれないが)
人生で、このふたつのセレクションをしたということで、私を尊敬すると、たいそうほめてくださった。
ご本人はもうお忘れかもしれないが、私はすごく嬉しかったので忘れられない。
私にとっても、今でも、きっとこれからも、テーブルと象の絵は人生で最良の道連れに違いないものだ。
この大きなテーブルで、毎朝いっしょに朝ごはんを食べる人(連れ合い)がいなくなってからも、私の周りにはさりげなく私を心配してくれる人たちで溢れた。
誕生日などには、このテーブルひとつでは足りなくて、ピクニック用のテーブルを組み立てて繋ぎ合わせて賑やかに食事をした。

今、テーブルはパソコン台と隣あわせになっていて、放っておくとプリンターや紙で本来の食事やお茶のスペースをどんどん犯してゆく。
最初は、「おじゃまします」だった文房具がいっぱいで、ご飯スペースの方が小さくなっている。世の中、個食の時代というが、私は私なりに、いや応なしに個食なわけだ。
土曜日、東大久保のポレポレ坐で、収穫祭のバザーがあるというので、事務所をシェアしているきよみさんと出かけた。
お米、リンゴ、チーズ、野菜、とふたつの袋いっぱいに担いで帰ってきてさっそく台所に立つ。
キャベツが山盛りに入ったスープ。(昔パリでかった少女趣味なピンクのホウロウ鍋で)

あとは紅玉一個をハチミツとキッチンワインで煮たジャム。
キャベツや大根を煮てつくるココの餌。
この頃は、長いこと使ったアムウエイのステンレスの(ナサで開発されたという)鍋類はやめにして、土鍋とホウロウの小鍋を使っている。
スープは土、日、と2回いただいてから、3回目は秘密のご飯。
冷ご飯を入れてオジヤランチに。(リゾットという言い逃れもできるが、、)
バザーで買った300円の生わさびは、丁寧にすって、普通にかまぼこやお茶漬けでいただいてたけど、このオジヤにのせていただく「わさびオジヤ」も超おいしかった。
個食では、こういうやんちゃな秘密のご飯が、実はとってもおいしい。

写真 (撮影・Yacco) 左下のホウロウ鍋はもやっとしたアンテイックなピンクで
パリのプランタンで、20年ぐらい前に)
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日曜日の快楽のひとつに、午前8時から始まる「週間ブックレビュー」がある。
「すべてを失くして」(内藤ルネ)と「夏の家、その後」(ユーティット・ヘルマン)

を買いに行かねば、と思う。
でも、この3連休は、「東京タワー」と「楽園のシッポ」(村上由佳)と「細野晴臣インタビュー」(細野晴臣・北中正和)を抱えてるし、前に紹介された「告白」(町田康)、「ポーの話」(石井しんじ)もまだ読んでないし、、、

ベッドサイドには「楽園のシッポ」と「インタビュー」、居間には「東京タワー」を設置する。
まず、「東京タワー」の追憶の時間に飛び込む。
リリー・フランキーと、オカンとオトン、家族の物語。
人は誰でも、自分の人生という一大小説のテーマを抱えているというが、彼の生い立ちの話にどんどん引き込まれてゆく。
彼の幼少の頃の九州、筑豊の炭鉱町の話は、ピンクドラゴンのヤマちゃんが育った北海道、赤平炭鉱の話を彷彿とさせる。
端々に現れる生きてゆくうえでの価値観にも共鳴した。
たとえば「ポケットの中に納められた百円は貧しくないが、ローンで買ったルイ・ヴィトンの札入れにある千円の全財産は悲しいほどに貧しい」

後半の後半、オカンがガンの末期になったあたりを読みながら、私はしばしば、ソファーに本をガバッとうち捨てた。
どうしても、自分の介護体験とだぶり、息が苦しくなって読み進むことができなくなる。

10分ぐらいしてから、また本を取り上げ、そこにある世界に入ってゆく。
私なんてさ、どれだけの肉親と長い過程の別れ、そして予期せぬ突然の別れがあったことか。
その時その時の光りを放ちながらも、ジワジワと消えていったた命も、いっしょに生きてきたのに、あれよっというまに目の前から消えていった生きている人間同志の絆の脆さもふくめて、さ。
読んでいて、うなずいたり、チクチクしたけど、号泣はしなかった。
そして読み終わったら、なんだかさっぱりした。
最後のほうに渋谷のスクランブル交差点をみる著者の心境の記述があった。

私もまったく同様のことを、こんなふうに日記に記したことがある。
渋谷のスクランブル交差点を、人々がかき回されながら渡る。
その中の一人である私は、たったひとり、大きな苦悩を背負った糞ころがしのようだ。そう感じると、明るい陽射しのなかで、突然どっと涙が出てきた。
でも、ここにいる人たち、実はみんな何かを背負った糞ころがしなのだ。
誰でもいつか経験することなのだ。

写真 (撮影・ガリバー) ヤマちゃんたちの故郷、赤平炭鉱で。71年。
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1日 突発的に映画「メゾンドヒミコ」を友だちと観に行く。
土曜日の第一回目だから、座れないことはないだろうと思ったら、甘かった。整理券が出ていて、最終ぐらいだったので、辛うじて前から2番目の席が空いていた。
「ジョゼと虎と魚たち」の監督で、あの時同様、臭覚を効かせた人たちで、混んでいるのかしら。
オダギリジョーと柴崎コウはすごく魅力的だった。

でもちょっと冷静になると、あの物語の中のゲイの方々はどうなんだろう。
たとえば、反射的に思い起こすのは、オーストラリアの映画で、ゲイのロードムービー「プリシラ」。
ファッションが素敵で、いつも画面の中に、お祭り騒ぎがあった。あの度外れの賑やかさと、ゲイとして生きることの悲しさ、そしてオーストラリアの雄大な自然。
いろんな要素がてんこ盛りの中に、毅然とした品格があった。
今回の田中ミンさんは、「蜘蛛女のキス」のモリーナや「プリシラ」の誇り高いゲイを連想させたけど、、、うーん、、、、
ダンスシーンでは、友だちも私も泣いてしまった。あの踊りのなかには、CMでいっしょになるカオルコさんのお弟子さんがいっぱいいたはず。
ともあれ、これからも千円の快楽(シルバーなので)を忘れないようにしようと思った。

このあと伊勢丹会館の「あえん」で、自然食の定食を食べ、ゲルマニウム温浴(足湯)に行き、残っていた風邪を吹き飛ばした。

4日
劇団新感線の「吉原御免状」を観た。
堤真一、松雪泰子ともに素晴らしかった。
特に松雪さん、実は九の一で、花魁(おいらん)の身とあっては壮絶な死は約束されたようなもの。この世にこんな色っぽいひとがいるのだろうか、というぐらい美しかった。
数年前、テレビで昔の女流作家を演じたとき、「あれ、こんなに地味な役なのにステキ」と驚いたけど、彼女って才能ある。

6日
東京駅南口のドームのなかにある「精養軒」で、約40十年ぶりに編集者の椎根和(やまと)さんと会う。
実は書き終わった「表参道のヤッコさん」に椎根さんのことを書かせてもらったし、60年代、70年代をいろいろチェックしていただくため。
あらかじめ送っておいた原稿を、たんねんに読んでいただいていたことに、恐縮する。

それとあの時代の写真で、撮影者不明としていたもの、主にロンドンの写真には、椎根さんに撮ってもらったものが多いことが判明。
そのあと、私の原稿からはみだしたいろんなことを教えていただいた。
たとえば、写真家の十文字美信さんの六本木スタジオのアシスタント時代のこと(ブログ8月28日「六本木スタジオで」を参照して)は、平凡パンチに「六本木スタジオのブリリアントなアシスタントたち」というタイトルで見開きで特集したことがあるとか、、、お宝のエピソードを いっぱい聴いて興奮した。(椎根さん、いつか、書かせてね)

椎根さん自身は、平凡パンチ時代に担当していた三島由紀夫に関して執筆中とのこと。
世間にあまた出ている三島由紀夫論があまりに椎根さんが接していた三島由紀夫とかけ離れているためだそうだ。椎根さんは紅いシャツを着て、短髪で、若々しかった。
私は40年前と同じように、目をきらめかせながら、椎根さんの話を聴いていたことだろう。

写真 (撮影・椎根 和) 71年ロンドン。椎根さんもいっしょに滞在していたイレブン・カドガン・ガーデンという、実はかなり格の高いプライベート・ホテルの前で。「KANSAI IN LONDON」の準備中の寛斎さん、ヘアメイクの鈴木輝雄さん、私。ここはキングスロードにも近かった。
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青山に菊池武夫さんのお店「forty carats and five hundred twenty five」が誕生した。
最高の素材をカジュアルなデザインに仕立て、大人の着崩しの醍醐味をさりげなく提案する、というのがコンセプト。
これからは、50代、60代の人たちが底力をみせて、かっこいいことする時代だと思っているので、菊池さんがまた新しい提案をしてくれたのは、うれしい!

彼のお弟子さんである横森美奈子さん、編集者の寺田邦子さんといろんな話をする。
横森さんが尊敬と親愛の情をこめて菊池さんをタケ先生!と呼ぶので、人を先生と呼ぶことにけっこう抵抗感を持つ私も、いっしょになってタケ先生と呼んでしまった。
そういえば、故景山民夫さんも、撮影のとき、
「僕の服はタケ先生のものから選んでね」とおっしゃったっけ。
大久保篤志さんをはじめとする今やベテランの男性スタイリストやミーハーなことをいえば、村上ファンドの村上さんもいらしてにぎやかななか、横森さん、寺田さんと介護の話に熱中する。
3人とも介護の経験者なのだ。
横森さんは10年にわたってご両親の介護をして、今度本を出版するそうだ。
「今までおしゃれに関する本は出版社の求めに応じて出したけど、介護の本は絶対に出したいと使命感を持ったの」とのこと。
ファッションと介護が混在する日々、、、私は血縁関係だけじゃなく、NHKの番組「ご近所の底力」的な介護が、地域社会で行われたらいいと思う。
こういうご近所付き合いは、ちょっと前までは、日本中どこにでもあったのだから。

写真 (撮影・会場のどなたか) この夜、タケ先生の足元は、もちろんスニーカーです!
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去年の今頃、「カフェとらばーゆ」をやった紀伊国屋跡地でブルース・ウェーバー展をやっている。
こじんまりした展覧会と感じたけど、それは以前ロケでロスなどに行った折、カルバンクラインのアンダーウエアの巨大な看板などを眼にしてきたせいかもしれない。
ブルース・ウェーバー自身が、展示した写真のわきや、空白のスペースに、いろんなことを落書きっぽく書き込んでいる。
それが、昔、ユージン・スミスさんが部屋の壁にいろんなことを書き込んでいたのと類似していて、面白い。
(このブログの1月12日 「ユージンスミスさんの落書き」をご覧ください)

ブルース・ウェーバーの壁の言葉のひとつを私流に訳してみた。
「みんな僕に『あなたの写真やフィルムってたとえば、何みたい?』って聞くけど、えーと、それはこんなもんですよ。
ニーナ・シモンがいつか、僕に『ステージに立っているとき、聴衆は立ち上がったり、わーっと叫んでくれたりする。でも家に帰ったら、着てたものをぜーんぶぬいで、たったひとりでベッドにもぐりこむのよ』といっていた」
アーティストの、いや、人間の孤独感をかたっているのか、名声というものについて語っているのか、、、

片方の建物は関連商品を売っていて、ポール・スミスとコラボの3万円のTシャツなどもあったけど、買えませんでした。
ドッグランにもなっている中庭で、ラタトーユ系の野菜の温かいサンドイッチとコーヒーのランチをアシスタントの悠子ちゃんと。
良いひとときだった。

写真 (撮影・飯島悠子) 会場には銀色のバス型厨房があって、軽い食事と飲み物がとれる。はやめのお昼に食べたサンドイッチはハーブの香りがした。(食べ物に関しては、いつもくどい説明になってしまいます、、)
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 今朝、ココの受け渡しのために現れた坂上みきさんが、まーなんといったらいいか、70年代のロック歌手、あるいはロック歌手の恋人みたいなスタイルで現れた。
 おへそスレスレの白いTシャツ、ジーンズにブーツ、大きなバックルのついたベルト、フェイクの毛皮の黄色いベスト、、、「昔の、キース・エマーソンの奥さんみたいだよー」といって、FM東京に向かう彼女を送り出したあと、写真を取り出して確認したんですけど、雰囲気は合ってました。

  ここのところの70年代の流れが、こんなふうなところにも、と確認しつつ、お知らせです。
 ブログに書いていた70年代の部分をピックアップした本が出版されることになりました。オマケも必要かな、ということで、30個ぐらいは新しいお話が付いています。このオマケの部分を書くのに労力を費やしてしまい、肝心のブログがまばらになってしまいました。これからまた気を入れて書きますので、お許しください。
 本のタイトルは「表参道のヤッコさん」(仮題)。単刀直入でしょう?詳しいことは、またね。

 写真 (撮影・鋤田正義) 後楽園球場でのELP(エマーソン・レイク・アンド・パ w[マー)日本公演の楽屋にて。寛斎さんとキース・エマーソンの奥さん、そして私。72年?
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喫茶店は私にとって大切な生きる場所のひとつであり、サロン、書斎、そて愛や友情を語る場所として機能していた。
私がいたのはレオンばかりではない。
原宿に散らばっていたさまざまな喫茶店を毎日、何度も出たり入ったりしながら、その時その時の人生を綴っていた。

キディランドの隣に「カフェ・ド・ロペ」があった。
オープンカフェの走りといおうか、カフェ・ド・マーゴとか、パリのカフェを思い起こさせた。
冬になると寒さ対策で、テント地の屋根と周りをぐるっと囲む簡易ドアのようなものがついた。
レオンのように業界のひとでいっぱいというわけではなく、キディランドやオリエンタル・バザー(東洋調のものを置いた外人向けのスーベニール・ショップ)に来た外人が立ち寄ったり、表参道を目指した若者がいたり、一時はクールスのメンバーがレオンから移動してこちらを根城にしていた。
ファッションメーカーのロペが経営していたこともあって、ロペの大型看板が店の屋根の上にかかっていた。とてもファッショナブルなものだったので、原宿の景観のひとつになっていた。

明治通りをはさんで、100メートルぐらい原宿駅に近いところには、道に沿って全面ガラス張りの喫茶店「コロンバン」があった(私はガラス張りの喫茶店が好きだ)。こちらはコープ・オリンピアに隣接していたこともあって、そこの住民や地下にあるスーパーや、コインランドリー帰りのひとも立ち寄っていた。
コーポオリンピアには伊丹十三さんの小さな書斎もあり、セントラルアパートにあるレオンや浅井慎平さんのバーズスタジオばかりではなく、コロンバンで打ち合わせすることもあった。
フランス直伝のばっちりお砂糖の効いたケーキはどこかを訪ねる時お土産によく買った。

私はここの灰皿が大好きで、わけてもらったが、後に多分あまりにリクエストが多かったせいだろう、いくらかで買えるようになった。
「ヴレヴ パセ オ サロン?」(サロンにどうぞ)というようなフランス語が皿の周りに書かれていて、真ん中には赤・緑・青のエスニックっぽい服をきた男女が踊っている絵が描かれていた。 トリコロールの灰皿はなん
ともかわいらしくて、タバコは吸わないけれど家でもテーブルに飾って楽しんていた。


写真 (撮影・染吾郎) 着ているのはロウシルクのワンピース(ヨーガンレール)。
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写真は70年代のはじめのある初夏の日だろう。
若葉をいっぱい広げているけやきの枝はか細くて、まだまだ若々しかったのだ、とわかる。
フランセはセントラルアパートの隣にあった。
レオンができる前からあって、セントラルアパートの住民はここによく通った。
フランセは一階が洋菓子売り場で、二階が喫茶店になっていた。
ケーキのケースを左に見ながら右側の階段を上がって席についたものだった。
ケーキやクッキーの包装紙は、幻想的な東郷青児の絵が使われていた。

当時、お菓子屋さんの包装紙で好きなものが2つあった。
淡い紫をベースにエレガントな女性が描かれていたフランセのものと、黄色に黒で、可愛い子供達の姿が影絵になっているジャーマンベーカリー(これは六本木にあった)のもの。
フランセの壁面には包装紙に使われた東郷青児の絵が額に入って飾られていたと記憶する。

私の生涯のカフェ通いは、まず銀座のウエストからはじまったが、原宿に移ってからはこのフランセだった。
表参道の並木道の光を受け入れた明るい店内。
日常的な仕事の打ち合わせもしただろうが、覚えているのは自分たちの未来について飽きることなく語り合ったことだ。
まだ、何にもできないという不安といっしょに、自分たちがなにか素敵な世界を作っていくんじゃないかという、途方もなく楽天的な夢を語り合うために、ここでたくさんの時間を過ごした。

写真 (撮影者・不明) フランセにて。
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この2日間、千駄ヶ谷付近は朝から夜まで、いつもと違った熱気に溢れていた。
国立競技場でスマップのコンサートがあったのだ。
サッカーの歓声のように要所、要所でワーッと来るんじゃなくて、
3時間半ずっと歌と6万人の歓声に溢れた超お祭り騒ぎ。
デビュー当時からすべてのコンサートに行っている知り合いがいて、スマップのコンサートを目撃し続けることが、人生の確認事項のひとつになっている。彼女はこの日も、高揚して帰ってきた。坩堝(るつぼ)にいると、そうなるんでしょうね。
私も、ピンクレディーのコンサートで騒いだ方だから、その気持ちもわかる。

でも私はこの2日間、6万人の六百分の一(100人)の集まりを噛みしめていた。

3日
青山のマンダラで、ある女優さんのマネージャーをしていた人のCDデビューのコンサートがあった。
たぶん40歳近いデビュー。歌も素敵だったけど、その志に、ジンときた。
ピアノ、チェロ、マリンバ、ギター、、バックについたミュージシャンたちが本格派揃いで、うまくて、あったかくて、いい音がライブハウスを丸く包んでいた。
人生のどんな段階の、どんなところにも、出発がある。
私もがんばろう、と素直に誓った。

4日
フリーランスのアナウンサー、今泉清保さんが企画した「正直者はバカを見ない」というイベントで、東中野のポレポレ坐に行った。
内容を高く評価され、沢山の賞を総なめにしながら、テレビ局の系列の事情で、東京では放送されないドキュメンタリー番組「小さな町の大きな挑戦、ダイオキシンと向き合った川辺町の6年」を紹介するというものだった。
こういうテーマの番組というと、どーんと重くなりそうだけど、なんかほのぼのとしていて、小さな町の正直な人たちが、みんなで努力することで、必然的に奇跡の連鎖が起きてゆく、その素直な、粘り強い記録なのだ。
上映後のトークで、MBC(南日本放送)キャスター・ディレクターの山縣由美子さんが、集まった100人のお客さんに向かって、
「東京で、しかもこんなに沢山の人たちにこの番組を観ていただいて夢のようです」と語った。
私など「よっしゃー、もっともっとたくさんの人に、観てもらいましょうね」と思わずにはいられなかった。
川辺町からも、ダイオキシン問題の解決に関わった方々がいらしていて、めずらしいくらい笑いの絶えない中で、大きな公害問題に関して語り合ったのだった。

写真 (撮影・Yacco) 国立競技場近く。スマップのコンサートが終ったとたん、嵐が到来した。
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清志郎さんの自転車がなくなったニュースが流れたと思っていたら、ほどなく新宿の街に忽然と現れた。
清志郎さんの「返してください」というメッセージに応えるように、ふたたび地球上に出現し、彼の「ありがとう」というメッセージが流れた。
あー、よかった、よかった。
これでハワイの自転車レース「Century Ride」に間に合いますね。
私、どっちかというと、清志郎さんの追っかけです。
それで、うれしさのあまり、秘蔵のスナップを公開することをお許しください。

ひとそれぞれ、自分にとって大切なものがある。
それは日常当たり前みたいに思ってるけど、大切なものって、失った時、その存在の大きかったこと、深かったことに、気付くのよね。(意味深デス)
そんなわけで、日常のほんの片隅で、密かに息づいていたものが、迷子になった時のことを、唐突に思い出したので、、、

息子が生まれたとき、沢山の誕生祝いをいただいた。
そのなかのひとつに、木の枠のなかに紐でちっぽけな木の小鳥たちがぶら下がっている額があった。
それはその後、いつも玄関の横の目立たない壁面を飾っていたが、ある時、撮影の小道具としてスタジオに持っていった。
撮影後、その小鳥たちが戻ってないことに気がついたとき、それがいかに大切なものであったか思い知った。
スタジオマンに探してもらったり、プロダクションの制作の若者に、後片付けをしたときの様子を聞いたりしたけど、みつからなかった。
あきらめかけた時、その若者が、もしかしたら、、、ということで、会社からちょっと遠方にある倉庫に探しに行ってくれた。
果たして、山のような機材や撮影後の衣装のなかに、小鳥達は埋もれていたのだった。

私はその若者の親切に深く感謝した。
それから2度ほど引越しをしているけれど、今の家でも、小鳥たちは玄関でひっそり生きている。

写真 (撮影・飯島悠子) 初夏の頃、羽田飛行場で。
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いつだったか、横浜港近くの由緒あるバーでロケをした。
撮影終了後、成り行きでささやかなお疲れ会となり、スタッフは仕事の緊張から解放されたひと時をバーのカウンターで過ごした。
カメラマンの十文字さんの脇には若い女性スタッフが座り、私もそばの席に連なった。


彼女は「十文字さんて、どうやって写真の修行をしたんですか?」と単刀直入な質問をした。
仕事の後のぽかっとリラックスしたい時間に、かなり真面目でシリアスになりそうな質問をして大丈夫なんだろうか、と私は密かに気をもんだ。
十文字さんは、にっこり笑って、「僕はね、実は役所に勤めていたんだよ」とことの始まりから丁寧に話し始めた。
その話は、若い女の子が独り占めにするにはもったいないことがいっぱい詰まっていて、私は聞き耳を立て続けた。
話が六本木スタジオのスタジオマンになった頃になると、女の子といっしょに相槌を打っていた。(あ、突然思い出したけど、その頃は私もやや若い女の子だったんじゃないかしら)
当時のスタジオマンには、仕事の獲得の仕方があった。
いかに一番乗りしてスタジオを掃除するか、そんなことにも必死だった。
十文字さんは遂にスタジオに寝起きして、一番を確保した。あの白くて硬いスタジオは地面より冷えたのではないだろうか。そこで一番になるのがどういうことにつながるのか、今ではその細かい話までは思いだせないが、そうやってコツコツと並外れた努力をして、何かしらのチャンスをつかんでいったのだ。
当時はスタジオの数も少なくて、私もしょっちゅう六本木スタジオに出入りしていたから、いっしょの時もあったろう。
でも残念ながらスタジオマンのときの十文字さんは記憶にない。
それから、彼はカメラマンのアシスタントになったが、優秀なアシスタントとしての伝説は何度かつたえ聞いている。

十文字さんがはじめてファッション写真を撮ったときのことは鮮明だ。
72年、ロンドンに行った時、ファッションデザイナーのザンドラローズと知り合った。


女の家でのパーティには、寛斎さんや、マガジンハウス(当時は平凡出版といった)の編集部の椎根大和さんなどと押しかけた。
そんな縁で、池袋西武でザンドラのファッションショーを開催し、アンアンでは、ザンドラの服を大々的に紹介することになった。
椎根さんが「若いカメラマンでやるよ」といって現れたのが十文字さんだった。
当日、十文字さんは相当緊張していたらしいが、私たちには全然それは感じられず、それよりも、撮影の素早さに驚いた。
あっという間に終ってしまったのだ。
椎根さんは、自分が起用した若い才能の仕事ぶりに編集者としての喜びを感じているようだった。
何しろ、十文字さんがフリーランスになって、3ヶ月目の仕事だったのだ。

それから数年間、十文字さんは、クライアントや広告代理店に見せる作品集には、ザンドラの写真が必ず入っていた。
パネルになったその写真を私がいっしょに見るときだけ「最初にすごいものに出会っちゃったんで、なかなかこの作品を引っ込められないんだ」と言って笑った。
その記念すべき時に、スタイリストとして参加できたことをラッキーだと思った。
十文字さんが、ムービーに挑戦する時がきた。
スチールフォトグラファーとムービーカメラマンの職域が分かれていた時代から、両方をトライする人たちが出てきたのだ。
多分同じ六本木スタジオだったと思う。
加藤和彦さん、ミカさんが、スタジオの床に腰を下ろして、カメラを見上げる。お菓子メーカーのコマーシャルだった。
技術的なサポートをするスタッフがさりげなく十文字さんを囲んでいる。
この撮影は、仕掛けもなく、シンプルでかっこいいものだった。
広告界には才能ある人たちをうまく引き立ててゆく体質が自然にある。
みんな好奇心が強い、新たらし物好きの集団なのだ。

ある日、私は十文字さんに、こんなことを報告した。
私は子供を生んで3年経っていた。
産後は、それ以前より何倍かの仕事が押し寄せてきた。
私はそれらの仕事に以前にも増して情熱を注いでいたし、自分の感覚もそれなりに光っていると思っていた。
その日、世界に降りそそぐ光りがいつもと違って見えた。
世界がクリアな鋭角さをもって存在していた。
それまで、見えないへその緒が私と子供のあいだにあったのだろう。
今、母性に包まれて柔らんでいた私の感覚が、そのやわらかい膜を脱いだのだ。
その瞬間は、空から降ってきたような感じで、へその緒が切れた私は、今新しい時を刻み始めたような気がする、、、と。
十文字さんは、目を輝かせて私の話を聞いてくれた。
そして「やっこさん、素晴らしいよ。よかったね」といってくれた。

写真 (撮影・十文字美信、モデル・グレタ スタイリスト・Yacco アンアン 1973年11月5日号より) 
ザンドラのドレスは、シフォンにアメーバ状の柄がったやわらかいものから、フエルト状のものまで、芸術品といっていいものばりだった。私は彼女からシフォンのドレスを一着プレゼントされた。
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