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団塊の世代日記(世の中にもの申す!・自分にもの申す!)

「現代詩のむつかしさ(『詩とはなにか』吉本隆明)を読んで

2009年01月10日 14時59分02秒 | 雑記
<現代詩は、むつかしいとごく普通の読み手がいう。また、おなじように批評家もしばしば、現代詩は難解であるといっている。

批評家のばあいは、普通の読み手のいうむつかしいという意味のほかに、末梢的であり、技術的な芸にとらわれすぎるというような意味をふくめて難解だといっているようにおもわれる。

たしかに、現代詩もまた、かなり、高度なところまでコトバの技術が専門化しているから、そこからやむをえない難しさがでてくるということがありうるはずだ。

 しかし、コトバの技術上の難しさは、詩を享受する読み手にとっては、ほとんどかかわりないといってもよい。

コトバの技術を予備知識としてもっていなければ、わからないような詩作品は、芸術としての条件にかけているとかんがえたほうがいいとおもう。

これを前提にして、批評家や、読者大衆から、漠然とあがっている現代詩はむつかしい、という与論を、疑ってみなければならない。

 わたしが、じぶんの体験でいえば、現代詩がむつかしいいとおもったことは、一度もないといってよい。

それにもかかわらず、読んでもわからない現代詩の作品に出合ったことは、きわめてたくさんある。

そかも、読んでわからない詩の作品をまえにして、その作品のわからない個処を、わかろうと努力させるほどの魅力ある作品に出会ったことは、ほとんどなかった。

 大抵のばあい、わたしは、よんでもうまくわかったと感じられない作品をまえにすると、わかったと感じられる個処をつなぎあわせて作品全体の秩序が受感できれば、その作品の鑑賞をおしまいにするのである。

じぶんを普通の読み手として現代詩の鑑賞をかんがえるばあい、わたしはこれだけで満足している。

この満足は、じぶんだけのものではなく、普遍化できるものだ、というのが現代詩の書き手として、またそれを批評するものとしてのわたしの立場である。

 現代詩の難解さというものはほんとうは、ふたつのばあいにしかおこりえない。

ひとつは、現代詩人のもっている思想が(詩の表現以前の)、難解であるばあい。

もうひとつは、現代詩人が、孤独な精神世界をもっているばあいである。

しかし、わたしたちは、この点については安心していい理由をもっている。

日本の現代詩人で、思想的に難解であるような詩人、孤独な他人につじそうもない精神世界をそだてているような詩人は、まったくいないとかんがえていいとおもう。

マス・コミの高度に発達した現代の日本では、詩人のこころの世界も、平準化され、風とおしがよくなっているのである。

むしろ、現代詩をよむばあいに、たとえば、近代詩人島崎藤村の詩は易しいが、現代詩人の詩はむつかしいというような固定観念を、ひっくりかえしたほうがいいとおもう。

現代詩に難しさがあるとすれば、コトバの技術上のむつかしさであり、これは、詩の本質にはかかわりなく、詩を表現する手段の複雑さにほかならない。

だからこそ、わたしたちは、わからない詩に出会ったなら、わかるだけの読み方で鑑賞していい理由があるのである。

 コトバの技術上の複雑さ、難解さ、というものは、個々の詩人が、自分の独創的な技術であるとかんがえているといなとにかかわらず、近代詩以来の歴史的な蓄積から成り立っている。

だから、読み手は、なれるにつれて、無意識のうちにコトバの技術の約束をのみこむことができるから、自然に難解でなくなってくる。

しかし、思想の難解さ、孤独さということは、なれるにつれてわかるというわけにいかないので、それが解るためには、読者のこころは、その詩と格闘しなければならない。

 わたしが、普通の読み手に目安をおいて、現代詩を鑑賞する原則をのべるとすればふたつに要約できる。

第一は、読んでも皆目わからない詩に出会ったら、その詩人がどんな著名な詩人であっても、その作品は芸術としてゼロであると考えること。

第二に、読んで漠然としかわからない詩に出会ったら、それで充分鑑賞できたとかんがえること。

 ところで、詩にかぎらないわけだが、芸術の鑑賞には、奥行きがある。

鑑賞もある段階までくると、対象である作品をはなれて、それ自体がひとつの創造行為として独立することができる。

この段階では、コトバの技術上の約束をのみこむことは必須の条件であり、それとともに受け身であった鑑賞を積極的な鑑賞、いいかえれば分析力をともなった鑑賞にしなければならない。

分析力をともなった鑑賞は、やがて、読み手を作品から離して、自分のこころの世界の形成へとつれだしてゆく。>

 この文章の出ている新書本は、昨年度末読み終えて、付箋紙を付けておいた所を、ひっくり返し、ひっくり返し読みなおしている。

吉本が、詩に関してこれまでに書いた文章を選び出してまとめたものだ。

 私は詩は書かないが、腰折れ俳句は作る。

俳句も「無季俳句」などになると意味のわからないものに出会うことが多い。

有季定型のいわゆる「俳句」でも散文のように意味がとおらないものはもちろんある。

俳句は省略が不可避だから、省略というか、言外に表現したいことというか、そういうことが見出しにくいものがある。

 俳句人口は詩人よりはるかに多いが、さて、何人がここに引用したようなところで句作しているかというと、あやしいものである。

昨年末、「俳句年鑑(2007・10~2008・9)」を買った。

俳句雑誌などいつも買っていないので、ここ1年間の俳壇動向や結社などを知ろうとしたからだ。

巻頭に「2008年100句選」というのがあったが、俳壇の勢力図が分かるように、結社の主宰者(等)の句が一人一句、例外なく並べられていた。

本当に俳句作品を選んだようには思われなかった。「詩-俳句のむつかしさ」もへったくれもない、という感じだ。無季俳句は除外されていた。

 結社の方は、主宰者のないところ、無季俳句肯定の結社も出ていたので、ちょっと救われたが、大半は結社主義であった。

10年ほど前、ちょっと俳句に凝ったときとほとんど変わっていなかった。

 やはり、詩歌を鑑賞したり、腰折れを作るということの根本は、吉本風にいうと「自己幻想」にある。

 まあ、俳句作家-俳人のあらかたは、現代詩にも現代短歌にも無縁なところにいるのだから、仕方ないが。

 ついでに一言添えておくが、高浜虚子が「選(句)は創作だ」と言ったのは、吉本がここで「分析力をともなった鑑賞」はまったく異なる。

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