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「慈悲」の「悲」 1/2

2017-04-17 10:09:23 | 本や言葉の紹介

 「慈悲」ってなんで「悲」という漢字が使われているのだろうなあと気になって調べたことがあり、悲しいという意味の他にもあわれみなどの意味もあると知ったのですが、なんかいまいち解決しないなあという思いがありました。
 仏の慈悲とは神の愛と同じというような解説を読んだこともあるのですが、なんか違う感じなんだよなあと思っていました。
 また、「愛」という言葉を振りまいている人がいます。神の愛をイメージして使っているようですが、その「愛」という言葉を、自分の欲望を相手に押しつけるために利用しているように見えるので、それは「愛」じゃないよねえと思って首をひねっていました。
 つい最近読んだ『どうせ死ぬのになぜ生きるのか  晴れやかな日々を送るための仏教学講義』(名越康文 PHP新書)に、疑問に思っていることに対して、こんなふうに考えるとわかりやすいなあと思ったところがあるので抜粋します。

●慈悲とは東洋の「愛」である
 そもそも「慈悲」とはなんでしょうか? キリスト教の「愛」に対して、仏教の「慈悲」が比較されることもあるぐらい、仏教においては大切な言葉なのですが、これは理論的には「慈」と「悲」からなる言葉です。
 「慈」というのは、「相手が人間として成長していくこと」を願う気持ちです。「相手の成長を願う」というとずいぶん偉そうな印象を受けるかもしれませんが、「慈」というのは、決して相手を下に見ることではありません。仏教ではすべての人間の中に「仏(本来の自分)」があると教えます。「成長」とは、自分の中にある仏(本来の自分)に気づくことであり、「慈」とは、それを思い浮かべて祈る、ということなのです。
 一方、「悲」というのは「相手の立場を理解する」ということです。言葉や論理のレベルで理解する、ということではなく、身体的な感応を高め、相手と同調することによって得られる共感のことです。他人の辛い気持ち、しんどさ、といったものが自然と、心の底で共鳴するように感じ取れることを「悲」と呼ぶわけです。
 「慈悲」とはこの二つを合わせたものであり、一言でまとめれば「相手の心に感応したうえで、相手の成長(仏=本当の自分に気づくこと)
を願う」ということになるでしょう。

 僕らが日常的に抱いている「愛情」と、仏教の「慈悲」というのは、ずいぶん性質の違うものだということに気づかれたのではないでしょうか。
 例えば小説や漫画、映画に現れる愛情表現を見ても、自分の恋人に対して「素敵な人に成長してね」と願う登場人物はあまり登場しません。むしろ、「ずっと私のことを愛していてね」と、相手の感情が変わらないことを「愛」として取り扱うものが非常に多いのです。
 そういった「愛」は、相手を所有し、同一化しようとする「愛」であり、それは「慈悲」とはかけはなれたものになってしまうでしょう。


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