うそつき村があったとさ。

村できたえられながら、発見と遊びの日々。

金環日食・後日談

2012年05月24日 | 大体メモ帳
昼食に豆腐・モヤシ・人参のみそ汁


のどの具合がわるいだけだったのが、昨日夜になって熱が出たようでふわふわしはじめた。

そこで早めに休み、今日も大半(たいはん)寝てすごした。

これだけ眠るとずいぶん調子がよくなった気がする。

いつもおたずねしているいなかっこさんのブログに、今さらですが(金環日食)という記事があった。

いなかっこさんの義理の弟さんが撮影された金環日食のときの木漏れ日の写真が掲載されていた。

義理の弟さんのお宅のデッキやガラス窓に無数の三日月形の木漏れ日が。

金環日食の前日、新聞の投書欄で「日食では木漏れ日も楽しんで」という記事を読んだ。

地面に映った日食の際の木漏れ日を見てみたかったが、当日朝、北九州は雨だった。

木漏れ日の日食がみられなかったのを残念におもっていた。

いなかっこさんのところでいい写真を拝見できてうれしいかぎり。


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2012年04月25日 | 大体メモ帳
わが家にやってきた楽茶碗(拙作)


天気予報が当たって雨となった。

銀行へ用事があり、歩いて行き、帰りにドトールへ。

備えつけの新聞を読み、持参した本を読みして3時間以上ドトールで過ごした。

はじめオレンジジュースとサンドイッチをお願いし、あとで注文したアメリカンコーヒーがとても濃かった。

アメリカンというと薄いコーヒーだと思っていたが、私の勘ちがいだったか。

アメリカン・コーヒー

ひどくなった雨のなか、歩いてもどってきた。

歩きながら、山登りを再開することをまた考えていた。

先日、昔に山登りをされていた女性が仕事場に見えた。

その方の山の話をお聞きするうち、今度はカメラを持って北アルプスへ行こうと思った。

20年以上前の4年間、1週間の夏休みをとっては北アルプスの山々をめぐった。当時、東京に住んでいた妹の家に寄って、松本行きの夜行列車に立川駅から乗りこむのが恒例だった。

ひとりで山に登るというと大概驚かれるが、小屋泊まりの夏山であり、ひとりのほうが自分のペースで歩けて疲れないのである。

行き先は北アルプスにこだわらない。

夏あいだに近辺を歩き、秋から福智山に登ってすこしずつ鍛錬するというのはどうかとわが身にたずねてみる。


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2012年04月08日 | 大体メモ帳
   

   


仕事場で花を生けなおした。

下にあるユリのつぼみはもうひらかない。上のほうの開いたユリをみじかくして小さな花瓶に移した。

はじめ、生花店の作った花束のなかにあったユリはつぼみが2つ、開きだした花が2つ、開いた花がひとつだった。開いた花のおしべの花粉があらかじめ生花店によって取り除かれていた。

花粉を取られたユリの花を生けていると、かなしくなる。

花粉を取られた花を落とし、開きだした花を正面にして花瓶に入れた。

そのあと、Hさんの知り合いの女性たちが仕事場にみえてHさんにひと言なく、咲いたばかりのふたつの花の花粉をささっと取り除いたそうである。

このユリには濃い色の花粉のついたままのほうが私にとっては自然だった。

先日、カオルさんにこの話をした。

花粉で服が汚れるからというなら、そうならないよう気をつければいいというんですけれどね、とカオルさんが言った。

カオルさんのことばにホッとした。


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2012年03月23日 | 大体メモ帳


朝から夜までずっと雨が降りつづいた。

名古屋の妹と電話でゆっくり話すことができた。

亡くなった夫・Rさんとこの3年のあいだに少しずつすこしずつ別れをしてきたのであろう、妹はじつに淡々としていた。

またこれからの生活についても、自分たちでどうにかやってゆけそうだと言い、兄ちゃん(=弟)も同じことを心配してきたというのであった。

そのうち落ち着いた頃合いをみてたずねていく約束をする。

本日のみそ汁の実はニンジン、タマネギ、お豆腐揚げ、シイタケ。薬味に長ネギ。

雨で冷え込んでいる。

川も増水していることだろう。


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2012年03月17日 | 大体メモ帳


昨日、仕事日。雨が降っていた。

早めに家を出て蒲生橋まで歩く。カメラは持たなかった。

昨日の蒲生橋周辺、アオサギ1羽、コサギ2羽、オオバン5羽、バン2羽、カルガモ3羽、カイツブリ3羽。

カイツブリは2代目ペア2羽と下流3羽組G。

仕事に出る前に名古屋の妹に電話。夫・Rさんがこの10日、東京の入院先で亡くなったことを知る。

Rさんは病気知らずだった。それが3年前、むずかしい病気にかかった。

生きたいという本人の意志がつよいから、もしかしたら生きられるかもしれないという気もするの、と妹がそんなふうに話すのを何度か聞いた。

名古屋市内の大学病院にずっとお世話になり、年明けに東京の病院へ移ったばかりだった。

Rさんと妹、ふたりの長女・和子が2月はじめに2番目の子ども(女の子)出産。

授かった命もあった。


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修理

2012年02月25日 | 大体メモ帳


急須が届きましたとのメールがカオルさんから届き、サチコさんの店へ。

昨年暮れになって、なぜか急須が漏(も)りだした。急須の胴回りに一周するようなヒビが入っていた。

注ぎ口の切れがよく、私の手に合った急須である。

カオルさんが正月明けに京都に行くついでに修理に持っていってみましょうというのでお願いしたのだった。

カオルさんによると、(これは落としたりなどしてできたヒビではなく)このようなヒビははじめてだとやきものの直しをする方もいわれたそうである。

内側からも外側からも接着しなければならない。

順番待ちで1年以上かかるだろうといわれていたのにこんなに早く直ってきてありがたい。

いちにち曇り時々小雨。

すこし冷えるといっても1℃とか2℃のときの寒さは去った(と思う)。


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更新

2012年01月15日 | 大体メモ帳


いちにち曇り。川に行かず、家で過ごす。

今日は1月15日、かつての成人の日。(1999年まで1月15日が成人の日だった。)

私の成人式の年はまっ白に雪が積もっていた。会場は今はない、小倉市民会館。普段着で出席した。もしくはワンピースをあつらえてもらったのだったか。

大学の同期50人のうち女子5人。県外からの2人の友に母がささやかなお祝いの弁当を作り、それを持参した。

おお、42年前のことである。

12月にみそ汁の実にするニンジンを刻もうとして、左手の人差し指の爪をぐさりと切った。爪だけですんだ。

先週、その切ったところが先端ちかくまできて浮いたので爪切りでカット。

こまったことに、更新中。


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生家あと。

2011年12月01日 | 大体メモ帳


22時すぎ、名古屋の妹よりメールが届いた。

このあいだ東京へ転院した夫Rさんのことと、こちらから送った父の納骨のときの写真と小倉炭鉱の本が届いたことを知らせるものだった。

K叔父が父にあまり似ているので妹もうれしかったといい、また、私の説明を読む前に小倉炭鉱の本を開いて、寿山小学校や昔住んでいた家をみつけたそうである。

じつは納骨の6日前に墓掃除に村へ行った日、Iさんの迎えがくるまでほんの少し時間があったので私たちが住んでいた場所に行ってみた。写真を2枚撮ったが、もっと天気のよい日に来て撮りなおすこともあるだろうと妹に送らずにおいた。

50数年前、小倉へ引っ越してくることになったとき、家は建てて間がなかったので買い取ってくださる方があり、よそへ移築されたと母から聞かされた。家のあとは畑になった。昔も畑だった道沿いの畑にタカノツメがたくさん植わっていた。家はこの向こう側にあった。

墓参りはながいあいだ、両親がおこなってきた。そしてふたりが東京に移り、父がまだ帰郷できていた1999年まで毎夏いっしょに私もやってきたが、いつもタクシーで山側の道を通るためにここへきたことはなかった。

私や弟や妹が生を受けた家のあとである。

この写真も妹に送ればよかった。

いよいよ12月に入った。

いちにち曇り、家で過ごした。

村の特産物センターで買ってきたユズでユズ茶をつくった。


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上赤分校

2011年11月27日 | 大体メモ帳
    上赤分校

    今川

    光明八幡神社 

    大きなムカゴ


朝9時にIさんから電話があり、11時に待ち合わせて赤村へ行くことになった。

12時前に赤村の特産物センターへ到着、また休憩所で食べ放題の赤村カレーをいただいた。まだ昼前というのにご飯もカレーもちょうど釜が空になって次の釜がくるまでちょっと待つほどだった。

2週間前にはじめてきたときは白菜漬けだったが、今日はダイコンの甘漬け、ラディッシュの甘酢漬けがついていて、おいしかった。

食事のあと、物産センターで白菜漬け、大粒のムカゴ、コマツナなどを購入。

それから、物産センターから4〜5分のところにある分校までまわっていただいた。正式名称は赤村立赤小学校上赤分校。私たちの小さいころは分教場(ぶんきょうじょう)と呼んでいたような気がする。

赤村は下赤と上赤のふたつの地区からなり、下赤に村役場、小学校、中学校、へいせい筑豊鉄道・油須原(ゆすばる)駅があって村の中心部である。上赤から下赤にある赤小学校(本校)までは遠いので、上赤に住む1〜2年生の児童は分校へ通うことになっていた。私も1〜2年生をこの分校に通い、3年生の1学期だけ本校に通った。

50数年前のことだから、覚えていることはわずかである。校舎は木造で、左側に先生の宿舎があり、つぎに小さな職員室、小さな教室がふたつ、右が講堂だった。写真の分校の右側がメーンストリート、向こうが油須原。昔は講堂の横からも出入りすることができたが、いまはフェンスになっている。

分校の左側に今川が流れていて、今は牛馬を飼う家がないために川のなかに草が茂っている。

右側には光明八幡神社。うつくしい幟(のぼり)でかざられた山車(だし)が神社から御旅所(おたびしょ)へ練りあるく春の神幸祭は村の最大のお祭りだった。分校が御旅所だった。分校の講堂で真剣を持って舞う踊りが神さまに奉納され、夜店も出た。

上赤分校は2011年5月現在、1年生4名、2年生9名が在籍とのことである。


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今川のカイツブリ

2011年11月19日 | 大体メモ帳


昨夜、雨が大降りになったとき、どうしたものかと思ったが、今日は雨があがった。

父がちいさな木箱におさまって弟夫婦といっしょに東京から帰ってきた。JR小倉駅で合流して日豊線をくだって行橋(ゆくはし)駅で下りると、改札口でS叔父が待ってくれていた。

S叔父の運転する車で16時すぎて暗くなった今川沿いに走った。S叔父によると、昨夜130ミリの雨が降ったらしい。川が増水していた。

増水した川にバンが何羽もいた。カイツブリも2羽見かけた。

S叔父も花を用意してくれたのでいっぱいになった花をまわりにある墓にも供えた。

父を無事に墓におさめた。S叔父、弟、弟の妻Rさん、私の4人がそれぞれのスタイルで父にあいさつした。

じいさん、さようならと弟が言った。

となり村の犀川(さいがわ)にあるK叔父の家に向かった。叔母二人が作ってくれた刺身、サトイモとニンジンと油揚げの煮物、自家製の味噌漬け、仕出しの鉢盛、吸い物、茶碗蒸し、心尽くしのごちそうが待っていた。

車の中でも、K叔父の家でも笑いが絶えなかった。

このごろ大病のつづいたK叔父は12月で満80歳。S叔父が69歳。

K叔父とS叔父の独特の言い回しに、小さかった私たちにきちご(きっちょむ)さんの話をしてくれた祖母のことを思い出した。昔はそう似ていなかった叔父たちが姿も仕草も言葉も父とそっくりだった。弟や妹、私もまた、叔父たちと兄弟だった父経由で祖父や祖母からどこかしら似たものを受け継いでいる。

昨夜遅くに仕事先のインドネシアから帰ってきた弟が酔っぱらってK叔父の家に泊まることになった。

弟の妻Rさんはお母さんの待つ小倉の実家に里帰りする。いっしょに帰りの電車に乗った。こんなに笑ったのは久しぶりだとRさんが言った。

父の四十九日。よい供養をしていただいた。


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