北京・胡同窯変

北京。胡同歩きが楽しい。このブログは胡同のあんな事こんな事を拙文と写真で気ままに綴る胡同お散歩日記です。本日も歩きます。

第152回 北京・貢院頭条(後) 平安二字値千金 【補記】中江丑吉さんの北京の居住地など

2017-07-31 10:26:59 | 北京・胡同散策
前回の続きです。

次の写真は前回ご紹介しました貢院蜀楼の前辺りから胡同東方向を撮ったもの。



クルマもそうですが、モバイクの路上駐車の多さにも目を瞠る今日この頃。



多くなったといえば、3、4年ほど前からよく見かけるようになったのが、出前代行のお兄さんたち。
写真に写っているのは「百度外売」の方ですが、他によく見かけるのは「美団外売」。


ネット社会の必需品ケータイ片手に暑い中を出前先を探すお兄さん。出前代行業って、現在脚光を
浴びているのかどうかは分かりませんが今後需要がますます増えていくのではないでしょうか。


胡同の風物誌の一つ、グリーンの素敵なお宅がありました。


グリーンの下に置かれた椅子、何気なく立てかけられたテーブルが心憎い!!



ズバリ「食品店」と書かれた、なかなか味わいのある看板があったので、どんな商品が置かれている
のか?とその看板の周辺をうろうろしてみたのですが、肝心の「食品店」の姿がどこにも見当たりません。


機会を見つけて再度チャレンジしてみたいと思っております。

看板の隣。



この写真では小さくて見えないかもしれません。
物置の外壁に子供たちの溌剌とした落書きが描かれていました。


前にも書いたのですが、子供たちの絵にはオーラがあります。そのオーラがわたしに元気を
くれます。その元気とともに、子供たちの旺盛な好奇心や心身の柔軟性を見習って一本でも
多くの胡同を歩き、胡同の記録を一本でも多く撮っておきたいと思っています。


子供たちの落書きがある物置の前辺りには、レンガ造りの二層のアパート。
そのアパートの前にはところ狭しとクルマが置かれています。



そんなアパートの前にも、ささやかかもしれませんが菜園が造られていました。



そして、車列の前には、胡同の風物誌の一つ、椅子が仲良く並んでいました。


深読みをしますと、これら三脚の椅子は単に座るためだけにここに置かれているのではなく、
クルマが路上駐車されてしまうことへの住民たちの住民たちなりのささやかながらの抵抗で
もあるんじゃないかと思えないこともありません。


貢院頭条の東端まで、もう少し。



わたし好みの、グリーンの素敵なお宅がありました。





西洋の文物が入り始めた清朝末期から民国初期の時代を髣髴とさせる、なかなか凝った門飾り。



その下の門扉には「春聯」が貼られていたのですが、



「平安二字値千金」という文字に、ほっこりとした温かいものが心の奥からこみ上げてきました。

春聯の貼られた門扉の隣には、なんとも味わい深いタイル張りの公共トイレ。



しかもトイレの脇には、一脚の肘掛け椅子がなんとも優雅に置かれているではありませんか。



このトイレの先がこの胡同の東端です。



前にも書いたのですが、ケータイで地図を調べてみると東端は行き止まりになっています。でも、
実際には写真でおわかりのように自転車一台ぐらいでしたら、なんとか通り抜けられるのでは。
ちなみに写真を横切っているのは「貢院東条」です。



「平安二字値千金」。途方もなく大切なものを、何の変哲もない場所で、まったく予想外の
時に見つけてしまったような、とんでもなく得した気持ちで家路につきました。


【補記】中江丑吉さんの北京における居住地と神社などについて

『第149回北京・貢院二条(前)贅沢なたたずまい』の中で、「貢院」のあった場所と日本との関係で
貢院西街、当時は貢院西大街辺りに思想家中江兆民の息子さんで中国研究者の中江丑吉さんが住んで
いたこと、また、現在の社会科学院の辺りには日本占領時期に「神社」があったことを記しました。
その後、丑吉さんや神社について少し情報を得ましたので、もうすでにご存知の方も多いかとは存じ
ますが、当記事で補記として書いておきたいと思います。

〇中江さんが暮らした北京の家

中江丑吉さんが日本から北京にやってきたのは、阪谷芳直さんの『中江丑吉の肖像』によりますと、
1914年(大正3年)の7月に大学を卒業してまもなく。その丑吉さんが下の写真の「貢院西大街九号」
の家に住んだのは、やはり同書の記述にもとづきますと、いわゆる「五四運動」のあった1919年5
月4日のしばらく後から肺結核のため1942年の5月に福岡の九大病院に入院するまでの二十数年間で
した。


この画像は阪谷芳直さんの『中江丑吉の肖像』から拝借したもの。写真の下には「中江旧廬(貢院西大
街九号)の前景」と書かれています。
丑吉さんには『中国古代政治思想』という著書がありますが、その本に収められている各論文は上の
写真に見られる「貢院西大街九号」のお宅で書かれました。
ちなみに、この貢院西大街とは現在の貢院西街のことで、北京地名典によれば、明、清の時代には貢
院の一部分。清の宣統の時に貢院西大街となり、その名称は民国期にも引き継がれ、1949年に貢院西
街と改名されています。

〇中江さんのお宅のすぐ近くにあった貢院跡地と跡地に造られた神社

中江さんの知人・平田小六さんの「北京の中江丑吉」(『中江丑吉の人間像』阪谷芳直、鈴木正編)に
よりますと、昭和14年(1939年)頃には「まだ廃屋に等しい試験場」が残っていたそうで、「間もなく
これをとりこわしコンクリート造りの北京神社」が建てられ、神社が出来てからは「すっかり様子が
変わってしまった」そうです。

神奈川大学の『北京神社-神奈川大学21世紀COEプログラム』には、北京神社の所在地、祭神、創立年・
鎮座年などが次のように記されていました。

神社名:北京神社
地域:旧中華民国
所在地:中華民国北京特別市布貢院東大街
祭神:天照大神、明治天皇、国魂大神
創立年・鎮座年等:
【設立許可】1940(昭和15)年6月6日

大変お手数をおかけいたしますが、詳しくお知りになりたい方は、つぎのアドレスをコピペのうえ、
アクセスよろしくお願い致します。記されている内容はほぼ同じですが、三種類の北京神社の写真
を見ることができます。
www.himoji.jp/database/db04/permalink.php?id=131
www.himoji.jp/database/db04/permalink.php?id=360
www.himoji.jp/database/db04/permalink.php?id=2385

やはり神奈川大学の『海外神社跡地のその後 中国・華北(北京、天津、済南、煙台、青島)の神社跡地』
には、この北京神社が造られた理由が次のように書かれていました。
《北京神社は、「事変後、急速に居留民が増加したので、「われ等の北京神社」「日本帝国の宗旨
としての神社」を熱望する声が、官民を通じて起った」という動きを受けて、1940(昭和15)年
6月24日に北京の貢院跡に鎮座した。(中略)神社があった場所は、地下鉄建国門駅付近の胡同や
社会科学院の敷地である。》

詳しくお知りになりたい方は、
『Title 10 海外神社跡地のその後 中国・華北(北京、天津、済 南、煙台 、青島)の神社跡地』
をコピペの上、検索してご覧ください。

なお、北京に神社が造られたのは1940年(昭和15年)でしたが、この1940年という年に北京に神社が
造られた背景として看過できないのでは?と思われる『紀元二千六百年記念行事』(Wikiwand)という
記事(出典はWikipedia)を次に掲げておきたいと思います。

《西暦1940年(昭和15年)が神武天皇の即位から2600年目に当たるとされたことから、日本政府は
1935年(昭和10年)に「紀元二千六百年祝典準備委員会」を発足させ、橿原神宮や陵墓の整備などの
記念行事を計画・推進した。1937年(昭和12年)7月7日には官民一体の「恩賜財団紀元二千六百年奉
祝会」(総裁:昭和天皇の弟宮・秩父宮雍仁親王、副総裁:内閣総理大臣・近衛文麿、会長:徳川宗家
第16代当主・徳川家達)を創設。「神国日本」の国体観念を徹底させようという動きが時節により強め
られていたため、これらの行事は押し並べて神道色の強いものであった。神祇院が設置され、橿原神宮
の整備には全国の修学旅行生を含め121万人が勤労奉仕し、外地の神社である北京神社、南洋神社(パ
ラオ)、建国神廟(満州国)などの海外神社もこの年に建立され、神道の海外進出が促進された。》

〇再び中江丑吉さんのこと

上に中江丑吉さんの北京における居住地やその近くに造られた北京神社についてご紹介いたしました。ここで
再び中江丑吉さんをめぐるエピソードを取り上げ、今回の【補記】の結びとさせていただきます。

中江丑吉さんは「みごとな歴史的洞察力」(阪谷芳直さんの言葉)の持ち主であったようで、たとえば、満州国
建国後すぐに、この国が永続しないことを説き、日華事変(日中戦争)の勃発時にはこれを世界戦争の序曲と断
定、1939年の秋にはヒットラーの没落を予言したりしたそうです。

そんな丑吉さんが、太平洋戦争勃発直後の、日本人の大多数が緒戦の勝利に酔っていた、1942年(昭和17年)の
初頭、その病床を見舞った知人小倉倉一さんに語った言葉は次の通りでした。いささか長いのですが次にご紹介
させていただきます。

“ファシズムのような人間の自由、魂の自由を専制抑圧する、こうした支配は決して長くつづくものでは
ないし、またつづくべきでもない。
 自分は人間の自由の精神とその進歩をかたく信ずる。それは人類の歴史が証明しているし、将来におい
ても必ず貫かれる。その意味において、自分はつねにオプティミズムである。
 現在のように真実が語れず、いとわしい専制が横行して、人間の自由が拘束されている政治体制が崩れ
ないということはない。もしこういうものがいつまでもつづくものなら自分は生きている張り合いもないし、
生きてもいないだろう。自分は以上のように豪語する。豪語してはばからない。(中略)
ヒットラーとファシズムが没落し、日本の軍人支配、専制が崩壊するのは、やがて万人の眼にあきらかに
なっていくであろう。”(阪谷芳直『中江丑吉の肖像』より)

中江丑吉さんが永眠したのは1942年(昭和17年)の8月3日、53歳。
かつて丑吉さんは北京を「このアカシアを巧みによそおって殆んど四季を通じてそれぞれ特色はあり乍ら柔媚
優婉の趣きを持続して居る古都北京」と表現したことがあるそうですが、そんな北京に暮らしていた中江さん
は、一人の日本人でありつつ、世界的視野の持ち主としてその生を全うした人でした。


 
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