語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【英国】EU離脱がもたらす世界危機 ~困る米国、喜ぶロシア~

2016年06月23日 | 社会
 (1)1975年6月、イギリスではEC離脱を問う国民投票が行われた。政府は、その判断材料として「イエスと投じる理由」「ノーと投じる理由」の両方の公平に添付した公報文書を作成した。当時はそれだけ政府に余裕があったわけだ。
 イギリスと大陸ヨーロッパとは複雑な関係にある。「イギリスはヨーロッパの一部である」という感覚は、一般的なイギリス人は持っていない。
 ウィンストン・チャーチルは、第二次世界大戦終結の翌1946年、「鉄のカーテン」演説とともに、もう一つ重要な演説を行った。そこで彼は、大戦で疲弊した大陸諸国に「ヨーロッパは統合して一つになりなさい。ただし、私たちは参加しません」と。つまり、
   ○ブリテン・アンド・ヨーロッパ
   ×ブリテン・イン・ヨーロッパ
 他方、イギリス人のアイデンティティの中枢を占めていたのは、米国との“特別な関係”だ。さらに身近なのは、豪州・カナダなど旧植民地を含めた白人のアングロサクソン・コミュニティだ。
 大陸ヨーロッパ側にも、イギリスのヨーロッパへの帰属意識を多分に疑問視する声があった。その筆頭は、シャルル・ド・ゴール仏大統領だ。イギリスは、1963年と67年に欧州経済共同体(EEC)への加盟申請を行ったが、2回とも拒否権を持つド・ゴールから却下されている。米ソに対抗する第三極をめざしていたド・ゴールは、「イギリスは、米国からのトロイの木馬になる」とその理由を語っている。
 イギリスのECへの加盟申請がようやく受理されたのは、パリの5月革命でド・ゴールが失脚した1969年のことだ。当時のイギリスは、経済苦境に陥っていたから、進展する統合ヨーロッパへの一日も早い参加を望んだ。しかし、それでも終始、「本当にこれでよいのか」という人びとの自問は続いた;。
 そして40年余、その積み残されてきた問いが、今回、再び行われることになった国民投票で投げかけられているのだ。

 (2)今回のEU離脱問題をめぐって、日本の報道では経済的ダメージの大きさばかりが強調されるが、現地で重視されているのは、やはりアイデンティティの問題だ。
 たしかに、国境管理を行わないEUの制度を利用して、移民やテロリストがイギリスに入ってくる。さらにEU本部のある「ブリュッセル官僚」によって、イギリスの国家主権がこれ以上制約されてよいのか、という懸念もある。
 しかし、その根底にあるのは、「我々はヨーロッパと運命をともにしてよいのか」という、あの永遠の問いなのだ。

 (3)現在、英国内で、論戦の行方はどんな構図になっているのか。
 EU残留を支持しているのは、「エスタブリッシュメント(既成の支配層)」に属する人びとや集団だ。そして、彼らがもっぱら主張しているのは、やはり離脱に伴う経済的なデメリットだ。
 その他、王室や産業界、学界を初めとする指導的な階層においては、残留派が圧倒的な多数を占めている。野党の労働党やスコットランド民族党なども「残留」を唱えている。

 (4)離脱派はどこに存在するのか。
 その象徴的な人物が、キャメロン首相と同じ保守党のボリス・ジョンソン前ロンドン市長(51)だ。先日、サディック・カーンというイスラム教徒のロンドン市長が誕生し、日本でも話題を呼んだが、その前任者が彼だ。この国民的人気の高い政治家が、現在のEU離脱論の大きな流れを生み出しているのだ。
 ジョンソンは、市長になる前に下院議員を2期務め、現在は再び国会議員に転身している。ニューヨーク生まれ(両親はイギリス国籍)の彼がユニークなのは、自身が「ワンマン・メルティング・ポット」(一人で人種のるつぼ)と形容するように多彩な出自のバックグラウンドを持っている点だ。先祖をたどると、オスマン時代にスルタンに仕えていたトルコ高官、スイス系、ユダヤ系、ロシア系、また現在のイギリス王室に連なる血まで入っている。とにかく派手好きでテレビにも出まくっているジョンソンだが、専門の学者をもうならせる知性と教養の持ち主でもある。彼の名著『チャーチル・ファクター』(最近邦訳された)は、その証だ。それも当然で、彼はイートン校からオックスフォード大学の中でも成績優秀者しか入れないベリオール・カレッジへ進学して、古典学を優等の成績で卒業している。これはイギリスの学歴序列からするとトップ中のトップだ。しかも、グラッドストーンが所属し、チャーチルも演説するなど数々の歴史的舞台となってきた弁論部「オックスフォード・ユニオン」の学生代表まで務めた。
 大学卒業後は、保守系の全国紙デイリーテレグラフに入社。1990年代、ブリュッセル特派員として、猛烈な反EU記事を次々にロンドンに送っている。ちょうどEU創立を定めたマーストリヒト条約が成立する前後のことだ。ジョンソンの記事は、保守党のユーロ・スケプティック(欧州懐疑派)議員がこぞって読み、国会質問で取り上げ、「イギリスの国家主権が制限される」「こんなに譲歩すると英国企業が不利益をこうむる」と政府を追及する材料として重宝された。ペンで身を立て、政治家の枠にとどまらない人気者なのだ。
 このジョンソンが最有力の次期首相候補とされている。「ポスト・キャメロン」のライバルと目されるオズボーン財相(45)との激しい争いが、より一層彼を駆りたてている。
 彼は今回、自腹でバスを仕立てて、イングランドの西端から全国キャラバンを始め、「EUから離脱しよう」と大キャンペーン運動を展開。その模様は、連日テレビによって放送されている。 
 そんな彼が、最近のインタビューで「EUはヒトラーと同じだ」と発言したことで世界的に注目を集めた。その発言の趣旨は、次のようなことだ。
 「ヨーロッパを一つに統合しようという儚い夢を描くのはやめよう。ローマ帝国が滅んでから、ナポレオンも、無敵艦隊を率いたスペインのフェリペ二世も、直近ではヒトラーもすべて悲劇的な結果に終わっているではないか」
 これは、イギリス人の歴史観からすると、非常に真っ当で正統的な解釈だ。伝統的なイギリス外交の勢力均衡策とは、大陸ヨーロッパが一つの強力なパワーで統一され、イギリスが孤立しないように、常に列強間の勢力をバランスさせる。これが近代イギリスの「勝ちパターン」だった。ジョンソンの主張は決して突飛なものではない。だからこそ、広範な支持を集めたのだ。

 (5)他に離脱派のスター的存在として、元保守党党首でこの3月までキャメロン内閣の労働・年金相だったイアン・ダンカン・スミス(彼の曾祖母は日本人)や、英国独立党(UKIP)の党首で演説の名手として名高いナイジェル・ファラージュがいる。

 (6)とはいえ、彼らを支持し、草の根に広がるサイレント・マジョリティとなって離脱派を形成しているのは、教育水準のあまり高くない庶民層の人びとだ。あるいは、グローバル化する経済構造において、成長から取り残された人びとと言い換えることもできる。
 今回の問題が世界的潮流の一部である所以だ。米国のトランプ旋風にも通じるものがあるのだ。事実、ジョンソンは離脱反対派から「イギリスのトランプ」と呼ばれている。
 世界的な外交専門誌「フォーリン・アフェアーズ」(3/4月号)の特集は、「反格差、反緊縮の動向にどう応えるか」というテーマだった。今やこれが、どこの国でも最大のテーマとなり、世界秩序の中心問題になってきた。当然、イギリスのEU離脱問題とも密接に関わっているのだ。

 (7)もう一つ、離脱派を支える代表的な勢力がある。それは、皮肉にも、経済格差を生み出す象徴とされるグローバル時代の申し子、ヘッジファンドに代表される「ニュー・マネー」と呼ばれるシティの新興金融機関だ。
 背景にあるのは、EU諸国で進んでいる一連の金融規制だ。リーマン・ショックを経験して、サブプライムローンに象徴される投機的な金融取引が大陸諸国とりわけ独仏で強い反発を呼び、金融取引や役員ボーナスに対する規制強化が唱えられた経緯がある。

 (8)イギリス国内で金融界の存在は大きい。そのイギリスのGDPの12%はロンドンの金融街シティで稼ぎ出されている。
 このシティの中核を占める大銀行や、イングランド銀行、そして王室に連なる富豪グループ、ファイナンシャル・タイムズやエコノミストなど経済メディアは「オールド・マネー」と呼ばれ、他の「エスタブリッシュメント」勢力と同様にEU離脱に反対している。

 (9)仮にイギリスがEUから離脱すれば何が起こるか。
  (a)短期的には、為替や株式市場は乱高下して、世界経済は嵐のようになることは間違いない。むろん、英国経済への影響も甚大だ。英財務省は「2年以内に少なくとも50万人が職を失い、ポンドの下落で物価は大幅に上昇する。労働者の収入も、2年以内に3%程度減少する」との試算を発表した。
  (b)ユーロの価値もガクンと下がる。イギリスはユーロ圏に入っていないが、イギリスとEUのつながりはユーロの基軸通貨としての価値を高めていた。ドルとの協調関係が保障されていたからだ。イギリスのEU離脱でえ、ユーロは数あるローカル通貨の一つに転落してしまう。
  (c)何より大きいのは、世界経済の「マーケットは果てしなくグローバル化し、統合されていく」という一方通行と思われてきた冷戦後の流れが逆回転し始めることだ。30年代のブロック経済化、80年代のサッチャリズムによるグローバル化など世界経済の構造転換をリードしてきたイギリスが、またも世界の先頭を切って、今度は市場をあえて狭くする方向に逆走することになる。
  (d)TPPに象徴される広域自由貿易圏、あるいはグローバルな金融市場のあり方が大きく変わる節目になる可能性もある。ヨーロッパの統合をモデルにしてきたASEAN諸国にとっても相当なインパクトだろう。世界中の国際的経済システムや様々な地域統合の枠組みに対する信頼も大きく揺らぎかねない。
  (e)経済だけでなく、世界秩序の大変動が起きる可能性もある。EU加盟国でも離脱に向けた動きが加速するだろう。そうなればEUは確実に立ち枯れしていく。そんな中、経済力を背景にEU内で発言力を高めているのがドイツだ。イギリスが抜けることで、「ドイツのためのEU」になることは間違いない。
  (f)こうした状況を歓迎しているのはロシアだ。常にEUとNATOの「東方拡大」を怖れてきたロシアは、EUが弱体化することでもっとも利益を得る。メルケルとプーチンの個人的関係もあり、ウクライナ紛争にもかかわらず、独露は近年になく親密になっている。ビスマルクがドイツを統一できたのはロシアの助けがあったからだ。ゴルバチョフのペレストロイカのおかげで東西ドイツが統一できた。第二次世界大戦の伏線になり、日本が見通しを誤る要因にもなった、あの独ソ不可侵条約も記憶の底から蘇るに違いない。この2国の結びつきが世界を大きく動かしてきた歴史があるのだ。こうした視点から見ること(中西輝政のいわゆる「歴史の土地鑑」)、こうした背景を知っておくことが現代の情勢分析でも重要だ。
  (g)大いに困るのは米国だ。イギリスを通じてヨーロッパに影響を与えていた米国は、その足場を失う。欧州大陸が米国の影響圏から離れ、ドイツの比重が大きくなり、地政学的にはロシアに引き寄せられてしまうことになる。それは、米国がもっとも怖れている事態だ。経済的にも、米国が主導するドル基軸体制や金融・貿易ルールのグローバル化に従わない、脱米的な経済圏に変質していこう。
  (h)日本にとっても、短期的には米国と同じように、日本のヨーロッパにおける「足掛かり」を失ってしまうことが大きい。日本企業がヨーロッパに進出する際はイギリスに拠点を置き、報道各社は欧州総局をロンドンに構えているのが象徴的だ。研究者の世界でも、イギリスの大学や研究機関の魅力は、いずれも大陸ヨーロッパとの地理的、政治経済的な結びつきによってイギリスの価値が高められていたのだ。

 (10)EU離脱をめぐる今回の動きによって顕在化した世界秩序の多極化傾向は、仮に国民投票で「残留」が決まったとしても、今後も国際社会を揺るがし続けるだろう。
 <例>イギリスは中国が主導するアジアインフラ投資銀行(AIIB)への参加をいち早く表明したが、これもEU離脱と背中合わせの関係にある。
 というのも、米国一極のグローバル社会では世界銀行(ADB)といった特定の機関にとかく機能が統合されていく。それに対して、中国があえて「機能がかぶってもかまわないではないか」とグローバル化の中での多極化を進める、という意思を示したのがAIIBだ。まさにポスト米国的な多極化時代の発想だ。イギリスが、その変化を敏感に感じ取ったのが、AIIBへの参加という決断だった。

□中西輝政(京都大学名誉教授)「「英国EU離脱」が世界を破滅させる 経済格差が蘇らせる“大英帝国の亡霊”」(「文藝春秋」2016年7月号)
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