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2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【佐藤優】2000年の時を経て今なお変わらないインテリジェンスの「真髄」 ~孫子~

2017年12月30日 | ●佐藤優
★(金谷治・訳)『新訂 孫子』(岩波文庫、2000)

 (1)紀元前500年頃に活動した孫武が作者と伝えられる『孫子』(全13編)は、今日でも軍事理論の古典として読み継がれている。
 それだけでなく、企業マネジメントの参考書として経営者の間で評判がいい。確かに、本書は企業や役所の仕事に役立つ内容が多く含まれている。
 孫子が優れているのは、戦闘の技法に通暁しているのみならず、戦争と経済との関係をよく理解しているところにある。
 <孫子はいう。およそ戦争の原則としては、戦車千台、輜重車千台、武具をつけた兵士十万で、千里の外に食糧を運搬するという場合には、内外の経費、外交上の費用、〈にかわ〉や〈うるし〉などの[武具の]材料、戦車や甲冑の供給などで、一日に千金をも費やしてはじめて十万の軍隊を動かせるものである。[従って、]そうした戦いをして長びくということでは、軍を疲弊させて鋭気をくじくことにもなる。[それで]敵の城に攻めかけることになれば戦力も尽きて無くなり、[だからといって]長いあいだ軍隊を露営させておけば国家の経済が窮乏する>【注:〈〉内は原文では傍点。】
 孫子は、ここでロジスティクス(輜重)の重要性を説いている。
 これに対して、旧大日本帝国陸軍は、ロジスティクスを軽視していた。占領地まで食料を運搬することを考えずに、軍票(軍隊が発行する札)によって物資を強制的に買い付けた。占領地の住民からすれば、略奪とほぼ同じ行為だ。ロジスティクスを軽視したが故に、旧陸軍は占領地の反感を過剰に買うことになってしまった。

 (2)孫子は、インテリジェンス(諜報)を重視する。特にヒュミント(人間を通じて入手する情報)について詳細な説明を加えている。
 <孫子はいう。およそ十万の軍隊を起こして千里の外に出征することになれば、民衆の経費や公家(おかみ)の出費も一日に千金をも費やすことになり、国の内外ともに大騒ぎで農事にもはげめないものが七十万家もできることになる。そして数年間も対峙したうえで一日の決戦を争うのである。[戦争とはこのように重大なことである。]それにもかかわらず、爵位や俸禄や百金を与えることを惜しんで、敵情を知ろうとしないのは、不仁(ふじん)--民衆を愛しあわれまないこと--の実に甚だしいものである。[それでは]人民を率いる将軍といえず、君主の補佐ともいえず、勝利の主ともいえない。
 だから、聡明な君主やすぐれた将軍が行動を起こして敵に勝ち、人なみはずれた成功を収めることができるのは、あらかじめ敵情を知ることによってである。あらかじめ知ることは、鬼神のおかげで--祈ったり
占ったりする神秘的な方法で--できるのではなく、過去のでき事によって類推できるのでもなく、自然界の規律によってためしはかれるものでもない。必ず人--特別な間諜--に頼ってこそ敵の情況が知れるのである>

 (3)実際に戦闘を行うよりも、インテリジェンス活動によって、敵国の弱点をつかみ、戦わずして勝つことが上策だ。戦闘になっても正確な情報を持っているか否かが勝敗に影響する場合が多い。あるいは戦力としては、当方が敵国を圧倒し、勝利が確実な場合でも、インテリジェンス活動を十分に行っていれば、味方の犠牲を最小にすることができる。今日でも、米国のように軍事力が圧倒的に強い国がインテリジェンス活動を重視するのも、自国の被害を極小にするためだ。
 孫子は、スパイ(間諜)の種類を五つに分ける。
 <間諜を働かせるのには五とおりがある。①郷間(きょうかん)--村里の間諜--があり、②内間--敵方からの内通の間諜--があり、③反間--こちらのために働く敵の間諜があり、④死間--死ぬ間諜--があり、⑤生間--生きて帰る間諜--がある。この五とおりの間諜がともに活動していてその働きぶりが人に知られないというのが、神紀(しんき)すなわちすぐれた用い方といわれることで、人君の珍重すべきことである。
 ①郷間というのは敵の村里の人びとを利用して働かせるのである。②内間というのは敵の役人を利用して働かせるのである。③反間というのは敵の間諜を利用して働かせるのである。④死間というのは偽り事をそとにあらわして身方の間諜にそれを知らせ[て本当と思いこませ、]敵方に告げさせるのである。⑤生間というのは[そのつど]帰って来て報告するのである>【注:①~⑤は引用者が挿入した。】
 ①郷間を獲得することは、敵国が圧政を行っている場合には比較的容易だ。政権に対する恨みを動機とした敵国に協力する者が出てくるからだ。
 ②内間というのは、現代でいうポジティブインテリジェンス(積極諜報)に従事するスパイのことだ。敵国が隠している情報を、敵国に知られないようにして入手するポジティブ・インテリジェンスは諜報の王道だ。敵国政府内の不満分子を見つけることが内間を成功させるコツだ。
 ④死間とは、露見したら殺されることを覚悟して行うディスインフォーメーション(情報操作)工作だ。「イスラム国」(IS)やアルカイダのような国際テロ組織が頻繁に用いる技法だ。
 ⑤生間とは、敵国の内部に入り込んで、その貞応を当方に伝えるスパイだ。現在では、暗号をかけた報告書をインターネットや無線などの通信手段で報告すうrことが大部分を占めるが、通信傍受を警戒して、機微に触れる情報については、スパイが口頭で伝達することもある。

 (4)『孫子』は、2,500年前の書物であるにもかかわらず、そこに書かれているインテリジェンスの技法は、現在でも有効である。

□佐藤優「2000年の時を経て今なお変わらないインテリジェンスの「真髄」/『孫子』 ~名著、再び ビジネスパーソンの教養講座 第40回~」(「週刊現代」2017年6月17日号)
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