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2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【尖閣】諸島「領有化」の歴史と法理 ~琉球の実効支配~

2012年10月17日 | 歴史
【尖閣】諸島「領有化」の歴史と法理 ~琉球の実効支配~

(1)「固有の領土」の言説と脱歴史性
 (a)<尖閣諸島は、1885年以降政府が沖縄県当局を通ずる等の方法により再三にわたり現地調査を行ない,単にこれが無人島であるのみならず,清国の支配が及んでいる痕跡がないことを慎重確認の上,1895年1月14日に現地に標杭を建設する旨の閣議決定を行なって正式にわが国の領土に編入することとしたものです。>【外務省ホームページ「尖閣諸島の領有権についての基本的見解」】
 (b)(a)は歴史性を欠く。言及すべきなのに全く触れられていない問題が2点存在する。
  ①領土編入までになぜ10年(1885~1895年)も費やしたか。これが漏れているため、沖縄県が行った「標杭」設置の要請が、中央政府に却下された経緯が見えてこない。
  ②清朝政府が、沖縄の帰属問題について当時再三抗議を行っていた。
 (c)(b)-①について、「標杭」設置が中央政府内部で最初に議論されたのは、1885年ではない(要注意)。実は、1885年9月22日、西村捨三・沖縄県令が山県有朋・内務卿に対して行った上申において、「国標などの件につきご指示をお願い致します」と伺いを立てたのが初見だ。そして、政府部内で山県と井上馨・外務卿との間で議論された結果、同年12月5日、却下する旨通達された。「日本固有の領土であることは歴史的にも明らか」【外務省】であるはずの尖閣諸島の領有化がなぜ却下されたのか。
 (d)【参考】1885年10月21日付け書簡、発:井上馨、受:山県有朋・・・・井上は、ここで尖閣諸島が「清国の国境にも接近」しており、各島の中国語名もあることなどを根拠に、「国標を設置して開拓などに着手するのはまたの機会に譲」るべきと述べる。尖閣諸島の領有化が清朝を刺激することを外務省は強く警戒していた。これは日清戦争開戦まで始終日本側が気にしていたことだった。

(2)伝統中国における版図観
 (a)1871年に締結された日清修好条規の相互不可侵条項(第1条)にいわく、「両国に属したる封土も、各(おのおの)礼を以て相待ち、聊も侵越する事なく永久安全を得せしむべし」。
 (b)(a)は何を意味するか。1875年に当時紛糾中の挑戦問題のために渡清した森有礼と李鴻章が行った会見に遡らねばならない。
  ①森有礼は、朝鮮はインドと同様、中国の属国ではない、と主張する。朝鮮は朝貢を行い冊封を受けているだけにすぎず、中国は朝鮮から税を徴収せず、その政治に関与しないため、属国とは見なせない、云々。
  ②これに対し、李鴻章は次のように主張する。朝鮮は中国に属すること数千年、これを知らぬ者はいない。「属したる封土」(日清修好条規第1条)の「土」という字は中国の各省を指し、これは内地であり、内属している以上、徴税し、政治に関与する。一方、「封」という字は、朝鮮などの国々を指し、これは外藩であり、外属している以上、税や政治はこれまでその国に運営を任せてきた。森のいうように日本の臣民が「属したる封土」には朝鮮を含まれていないと考えているならならば、「将来、条約を改正した時に、“属したる封土”の部分の下に“18省及び高麗、琉球”という文言を書き添えるべき」だ。
 (c)清朝は、「封土」=国土であり属国も「外藩」として「中国」の一部を構成する、と解釈していた。こうした観点に立てば、琉球もまた清朝の「外藩」だった。故に、尖閣諸島への標杭建設は琉球問題へと拡大しやすく、井上馨はそれを恐れていたのだ。
 (d)日本の主流の沖縄認識に沿って考えると、
  ①1872年 第一次琉球処分・・・・琉球王国という国家が琉球藩(外藩)になった。明治政府の沖縄関連業務は、外務省から内務省へと移管された。
  ②1979年 第二次琉球処分・・・・廃藩置県が断行された(琉球藩→沖縄県)。
  ③1872年以後も尚泰・琉球藩主は清朝に対して、朝貢・冊封・正朔の「3つの手続き」を依然受け入れたため、清朝にとって琉球の変化は深刻なものとは映らなかった。むろん、薩摩藩侵攻(1609年)以降、琉球王国が実質的には薩摩藩の強い影響下にあったことは広く知られているが、このことは「3つの手続き」を踏む限り属国に干渉しない清朝政府の対琉球関係と鋭く矛盾することはなかった。「琉球=属国」という名分がまだ動揺する段階ではなかった。

(3)「日本人」と「琉球人」 ~台湾出兵における官人の対応~
 (a)「琉球=属国」という名分が最初に動揺したのは、台湾出兵事件のときだ。
 (b)事の発端は、琉球漂流民殺害事件(1871年)だ。宮古島官民合計69名が、暴風のため台湾南端に漂着。うち54名が、地湾現地の先住民に殺害された。1874年、領民保護と先住民への報復を理由に、明治政府は現地に派兵し、先住民地域を攻撃占領した。
 (c)1871年と1874年の間に、第一次琉球処分があったことは示唆的で、少なくとも日本国内では、琉球藩設置によって琉球藩民=日本国民とする出兵正当化のロジックが構築されていた。
 (d)その一方、日本政府は、攻撃対象の先住民地域を「無住の地」と見なし、「中国」と関連がない、とする立場に立った。清朝中央政府に対する十分な協議を重ねることなしに軍事行動を展開したのだ。
 (e)こうした「不意打ち」は、清朝中央政府を強く刺激した。柳原前光・全権公使が李鴻章と面会した際、李は柳原を詰問した。李は要するに、1871年に殺害されたのは琉球民であり、しかも琉球は清の属国である以上、日本が介入する理由はない、というのだ。
 (f)出兵を「義挙」と認める和睦条約を北京で調印した後、大久保利通は三条実美・太政大臣に宛てた報告で、沖縄の帰属問題が始終敏感な問題であったことを示唆する。「これによって、いくらかは琉球が我が国の版図である形跡を表しました。しかしながら、いまだはっきりとした結論を得るには難しく、琉球の帰属をめぐり、各国から異論が持ち出されることが無いだろうとまでは言いきれません」・・・・列強の介入を懸念しつつも、排他的主権を沖縄に確立しようとする意志が表れている。
 (g)台湾出兵の翌年(1975年)5月、明治政府は琉球藩に対し、清朝との朝貢-冊封関係の廃止と、明治年号の使用を命令した。・・・・琉球の属国としての地位は、朝貢・冊封・元号(=正朔)の「3つの手続き」が核心だったから、日本側のこうした動きに対して何如璋・駐日公使は激しい非難を浴びせた。何公使には、清朝が仮に琉球を放棄すれば次は台湾と朝鮮が狙われる、という安全保障上の危機感があった。
 (h)日本政府の意図的な遷延戦略のため何公使の怒りは空回りし続け、日清間交渉は時日を空費した。日本政府の「決める政治」は功を奏し、1979年3月、琉球の廃藩、沖縄の置県が強行された。かくて、沖縄への排他的主権を正当化するための実効統治の実績が積み重ねられていった。

 (続く)

 以上、羽根次郎「尖閣問題に内在する法理的矛盾 ~「固有の領土」論の克服のために」(「世界」2012年11月号)に拠る。
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1 コメント

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根本的史實から始めて下さい (いしゐのぞむ)
2014-03-28 17:40:56
今日は。長崎純心大學教員いしゐのぞむより投稿します。

「領土編入までになぜ10年も費やしたか」
それは隣國の動きを警戒したからでせう。
隣國との間の無主地を領有する場合、警戒して愼重になるのは當然です。

「傳統中國における版圖觀」については、
要するに琉球國の領有權の問題であって、尖閣單獨の領有權の問題ではありませんね。問題のすりかへです。
尖閣が明國清國の領土線外に存在したことは、大明一統志・大清一統志・歴代琉球册封録などに明瞭に記載されてゐます。外務省は研究不足のやうですが、だからと言って歴史事實は變はりません。
もちろん尖閣は琉球國の西端の外に存在した記録も多數あります。チャイナと琉球との中間の無主地だったわけです。末梢的な話よりも、まづは史實から出發して下さい。當方のlivedoorブログ「尖閣480年史」を檢索の上ご覽下さい。

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