語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【大岡昇平】澤地久枝の、「レイテ戦記」の地を訪ねて

2017年04月01日 | ●大岡昇平
 2009年夏、わたしはレイテとミンドロへ行った。この年は明治42年からちょうど百年にあたる。つまり、大岡昇平氏の生誕百年の年であった。
 世間が大岡昇平を忘れていると、わたしは肚を立てていた。毎日新聞学芸部のSさんが『レイテ戦記』について記事を書くことになり、取材に誘われて「大岡さんはレイテよりミンドロ島」といい、ふたりで両島に行くことになった。
 編集者生活約十年、ものかきになって四十五年、わたし自身が八十六歳まで生きて、実に多くの人の縁に恵まれた。美しい人は多くあるが、なかでも大岡昇平さんである。
 戦争末期の1944年に軍隊にとられ、フィリピンのミンドロ島に配属され、マラリヤをわずらい、米兵と真向かう。銃は手にしていたが、大岡さんは引き金をひかなかった。
 俘虜にされてレイテ島に送られ、戦後に復員。家庭には妻と二人の子どもがあり、三十代半ばだった。その体験が『俘虜記』になった。
 そして「死んだ兵士たちに」の献辞がある『レイテ戦記』は、戦争を知らない子どもや孫の世代のために書かれている。
 大岡さんは東京生まれで京都大学に学び、フランス語の家庭教師が小林秀雄だったという人である。男性に美貌という言葉は似合わないが、痩身の美しい人であった。
 編集者として大岡さんの北海道への講演旅行のお供をしたとき、わたしは推理小説の「樽(キャスク)」を読んでいた。二十代の終わり頃で、手軽な本という知恵はなく、読みかけていた本をもって行った。移動の列車の中でそれに気づいた大岡さんは、三冊の推理小説を教えてくれ「面白いよ」と言われた。
 旅行中の寝台車で(上下二段の二等寝台だった)、一夜、一睡もできなかった。下の寝台で大岡さんが眠っていると思うだけで本も読めず、眠れなかったのだ。
 1971年に『レイテ戦記』が出版され、その翌年にわたしの『妻たちの二・二六事件』が同じ中央公論社から本になった。
 大岡さんが「この著者はどういう人?」と編集者に問われたと聞いた。わたしは1963年2月の中央公論社退社以前に離婚して旧姓にもどっており、誰にも知られない著者としての出版だった。以後、亡くなる直前まで御縁があった。
 大岡さんは父の世代というべく、若い日のことを知らない。中年以後、年齢をかさねるほど大岡さんはいい顔になられた。
 それは、時代が逆行して、二度とくりかえさないはずの戦争へ、日本が変わってゆくことへの異議申し立ての明白さとつながるものであったと思う。どんな美男子であっても、時代と闘う意志がなくては、「美」とは言えまい。
 『俘虜記』は人間が最低の状態におかれたときの予想外のことをつぶさに書いている。若い米兵と向き合って射たなかったのは、「私がこのとき独りであったから」と書かれている。僚友が一人でも隣にいたら猶予なく射っていただろうとある。兵士は一人の人間になれば、人殺しはできないということだ。
 記憶がとぎれる何秒かがあり、大岡さんは米兵にとらえられる。1945年1月25日である。
 「顔見知りの山地人が通りかかった。私はこれほど憐憫にあふれた顔を見たことはない。つまり生涯でこの時ほど私が憐れむべき状態にあったことはないわけである。それは一人の若い男であったが・・・・その顔を私は美しいと思った」(『俘虜記』)
 大岡さんは『レイテ戦記』の雑誌連載の途中、取材のためフィリピンに行っている。慰霊団に加わり、戦争末期の激戦地のひとつレイテ島に行き、そのあとミンドロ島に行った。1967年3月のことで、ミンドロ島は編集者との二人で足を運んだ。まだ対日感情の悪い時期で、大岡さんは部隊にかかわる場所に行こうとしてさえぎられている(『ミンドロ島ふたたび』)。
 2009年の旅行では、日本軍兵士としての大岡さんが果たせなかった場所に行こうと考えていたが、町はさびれていて、『俘虜記』の場所は特定できなかった。
 サンホセで市長に会い、ネックレスを贈られた。レースで左右に分かれて「MINDORO SAN JOSE」の文字が白地に赤で編まれている。女性が家事の片手間に作ると思われるが、根気と時間を必要とする品で、素朴で美しかった。
 兵士を語る大岡さんの、大粒の涙を思い出す。人の美しさは言葉にせよ、メロディーにせよ、表現すると消えていくものではないだろうか。
 大岡さんは遺稿で「一党独裁三十三年の結果たる腐敗は、政財界の隅々まで行きわたっている」「もう昭和的政治はやめてもらいたい」と書いた(『昭和末』)。1988年12月、79歳で逝かれた。

□澤地久枝「大岡昇平/「レイテ戦記」の地を訪ねて ~「明治百五十年」美しき日本人~」(「文藝春秋」 2017年4月号)を引用
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