ふるさとは誰にもある。そこには先人の足跡、伝承されたものがある。つくばには ガマの油売り口上がある。

つくば市認定地域民俗無形文化財がまの油売り口上及び筑波山地域ジオパーク構想に関連した出来事や歴史を紹介する記事です。

話術以上の話術

2016-05-02 | ガマの油口上

話術以上の話術

  話術というものがある。雄弁術を儀式的、本格的なものとすれば、話術は、着流し的であり、散歩的なものだ。いわゆる「術」の「術」たる所以を発揮しなければならぬところに、意識的な努力と効果とを計算に入れている。

 この話術というものが「語られる言葉」の美をどれほど豊富にしているか、それを今ここで取り上げる前に言っておきたいことがある。それは、この種の「技術」は、単に技術としては、極めて微々たる役割をしか、われわれの生活の中において演じていないということである。特に、この技術をもって職業とする者の中には、例えばテレビに映る芸能人然り、その技術以外のものによって、われわれをひんしゅくせしめる手合があまりにも多いということである。 

 もちろん、古今の文学的作品の中には、その芸術的価値の一半を、この話術に負うているものもあるし、教養ある人々の高い趣味に裏づけられた話術の妙は、われわれの心を奪いうっとりさせるに違いないが、これらは、何れも、その「技術」を体得して、その運用を誤らない才能の、ひそかに許された特権であるが、この「話上手」を鼻にかけて、得々と駄弁を弄する者は、正にこの「技術」の憐れむべき犠牲といえる。 

 話術とは読んで字のごとく「話をする術」である。聴き手を感動させ、面白がらせ、自分の言葉に耳を傾けさせる一種の技術であるが、「語られる言葉」の効果は書かれた言葉のそれ以上に複雑な要素を含んでいるから、「書かれた物語」の話術的構成は、必ずしも「話される物語」の話術的構成に役立たず、また、「物語り風」の話術的技巧は、「対話風」の話術的技巧と一致しないのである。

 特に、話術の「鍵」ともいうべき「聴き手の心理観察」は、この技術の複雑性を一層拡大するもので、聴き手が多い時、少ない時、特に一人きりの時、その聴き手の種類、その状態、聴き手と自分との関係、自分たちを取り巻く雰囲気、それらはみな話術の根本条件である。 

 しかしながら、この「技術」は、「技術」として遊離し、それだけが目立つような時、その効果の大部を失うものである。ある場合に成功した話術も、他の場合には成功するとは限らない。これは、既に、話術の話術としての遊離を示すもので、そういう話術は、「職業的話術家」に委せておけばよい。

 われわれの日常生活を豊富にするものは、即ちこの種の話術ではない。 「言葉」というものは不思議なもである。それを語る人間が深い信念を持っていると、訥々と話しても、言葉に魂が宿り、聴き手の感動を呼び、人々を動かす。 
 「話術」には、その人間の力量が、すべて出る。「人格」「位取り」「胆力」「演技力」「立居振舞」「仕草」「表情」「眼差し」「沈黙」「余韻」といった「言葉以外のメッセージ」で、聴き手に多くのものが伝わる。ごまかしがきかないのだ。    

        豊国作「四代目市川団蔵の毛谷村六助」

                  東京国立博物館蔵

 意識的にもせよ、無意識的にもせよ、「語られる言葉」の魅力は、人間そのものの「味」と、その自然な表現によって、最も高く発揮せられるものだ。 従って、「話術」を磨くということは、単なるスピーチのテクニック云々ではなく、「人間」を磨くということであり、そこから「話術以上の話術」が生れるのである。 

 「なんでもないことを面白く話す」のは、結局、その人間の精神的な特質が言葉の有機的作用を通して一種の心理的快感を与えるからであり、結局は才気とか、熱意とか、濃やかな情感とかいう心理的音符によって、最も正確に、最も鮮やかに、何物かを聴き手の耳に伝へ得た場合をいうのである。 従って、「話術」の秘訣は、何よりもまず、「自分を知る」ということであり、「自分の話術」は結局、そこからでなければ生れて来ない。

 話術を看板にした「話」に真の魅力がないが如く、お座なりと紋切形の口上が、いかに言葉巧みに述べられても、それは退屈以上の何物でもない。

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