gooブログはじめました!

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

広告

※このエリアは、60日間投稿が無い場合に表示されます。記事を投稿すると、表示されなくなります。

劉聰

2010-03-01 23:13:32 | 日記
劉聡(りゅう そう)は、五胡十六国時代の漢(前趙)の第3代皇帝。父・劉淵の崩御後に長兄・劉和を殺して帝位を継いだ。八王の乱と塞外民族の大移動で混乱に陥った西晋を滅ぼし(永嘉の乱)、華北に覇を唱えた。生涯皇帝に即位するまで劉聡は匈奴の指導者で、五胡十六国時代の端を開いた劉淵の四男(或いは三男とも)だった。生母は側室の光献皇后張氏。劉淵も非常に教養の高い人物だったが、彼も経典や史書などの書物に詳しく、書に巧みで詩賦に優れており、武芸にも精通していたという。彼が20歳の時に洛陽に留学し、張華・楽廣などの名門の子弟と盛んに交流したという。やがて、劉淵の下に戻って、西晋に帰順していた頃、新興太守主簿を初めとして各要職を歴任した。河間王・司馬顒が赤沙中朗将とした。成都王・司馬穎に父が殺されるのを恐れ、鄴に駆けつけ、右積弩将軍・参前鋒戦事として仕えた。劉淵が北単于となると右賢王として立てられ、劉淵が大単于を称すると鹿蠡王となった。308年(永鳳元年)に劉淵が皇帝に即位すると、楚王に封じられ、車騎大将軍になった。309年(河瑞元年)、劉淵の命令で王弥と共に洛陽の攻撃したが、東海王司馬越に阻まれた。大司徒になった。310年(河瑞2年)、劉淵の死の直前に大司馬・大単于となった。劉淵が没すると異母長兄の劉和が帝位を継いだ。劉和は指導者としての才覚はあったが暴君で猜疑心が強く、母方の叔父の呼延攸と共に、弟の劉聡、劉裕、劉隆と劉乂の武力を恐れこれを除こうとした。劉裕と劉隆は殺されたが、劉聡は先手を打ち劉和と叔父の呼延攸をまとめて殺害し、自ら帝位に就いて劉乂を皇太弟にした。しばらくして、劉聡は同母兄の劉恭を飛び越えて、即位したことに疚しさを感じて、刺客に命じて実兄の劉恭を殺害したという。西晋を滅ぼす劉聡は即位すると、元号を光興と改元した。早速、父劉淵が悲願としていた洛陽の攻略に取り掛かった。311年(光興2年)夏4月に、東海王司馬越の棺を守って山東に向う王衍の率いる晋軍十余万を羯族の将軍である石勒が壊滅させると、5月には石勒に加えて劉曜、呼延晏(呼延攸の親族)、王弥らの軍勢で洛陽を包囲、翌月にこれを陥落させた。時の西晋の皇帝である懐帝が捕虜となり伝国璽と共に平陽に連れ去られ、洛陽が略奪を受けた挙句に廃墟と化したこの事件を史書は永嘉の乱と呼ぶ。西晋の皇族の生き残りである愍帝が長安で皇帝を称したが

東西本願寺、並んで協力要請 親鸞750回遠忌法要で市長に(産経新聞)
財布の残金は数千円=木嶋容疑者が抜き取りか-連続不審死・埼玉(時事通信)
<郵便局強盗>江戸川の事件、37歳容疑者を逮捕 警視庁(毎日新聞)
飲酒で免職、最多16人=警察の09年懲戒処分(時事通信)
<掘り出しニュース>珍しい白ナマコ--かごしま水族館で展示(毎日新聞)
ジャンル:
ウェブログ
コメント   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 寺島しのぶさん 台本読んだ... | トップ | <官房機密費>「使途解明は... »

コメントを投稿


コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。

あわせて読む

トラックバック

この記事のトラックバック  Ping-URL
  • 30日以上前の記事に対するトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • 送信元の記事内容が半角英数のみのトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • このブログへのリンクがない記事からのトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • ※ブログ管理者のみ、編集画面で設定の変更が可能です。