ばばちゃんのおっちゃんの日本語の先生への道

日本語の先生になろうと一念発起いたしました。

その4 言葉の定義

2016-10-01 06:13:02 | 1.日本語・外国語
言葉の定義

 ネットで集めた資料等を整理したり、見直したりしていまして、長崎大学の宮原先生の論文に目を通してみました。

 我々日本人が使っています漢字は、必ずしも中国、台湾、韓国の漢字とは語順が違ったり、別の漢字をあてたり、また定義が一致しなかったりは、それらを勉強した時に、既に、認識していますし、ベトナム語の漢越語もそうだろう認識していて、ベトナム語を勉強するなら、似たようなやりたかたでしなければならないと考えています。ただ、東京義塾の項で述べましたように、明治時代頃に作られた和製漢語は、まだ100年ばかり前のことなので、それらは、余り定義は異ならないと考えます。

 しかし、先生の話に依りますと、ベトナム在住のベトナム人に、日本語を教える場合、もっと別のことを考えなければならないそうです。
先生がお纏めになって、先方に提供された例文集が、かえって、彼らを混乱させているのではないかと心配されています。

 日本語を教える場合、日本在住のベトナム人を想定して、物事を考えますが、現地で教える場合、日本に有るものをそのまま現地へ、持って行って適用しても、同じ効果が得られるかと言えば、問題があるということのようです。
 すなわち、社会環境や社会的背景、更に、考え方、言語習慣が異なりますので、例え、我々には、言わんとすることがピンと来ましても、彼らには「何のことや?」という現象が起こっているようです。活用の言い回しがどうの、発音がどうのという技術的なものとレベルが違うように思います。

 極端なことを言いますと、それに当るベトナム語の語彙がないとか、有っても行き渡っていないとか。別の漢語を使っているとか。
同じ概念であっても、程度が異なりますと、別の言葉を使う場合もあるそうで、その使い分けがきちっとしていませんと、ベトナム人にとりましては、何か、宙ぶらりんで、明確なイメージを描けないようです。見方によっては、ある意味、ベトナム語は、その程度まで分かるように正確に、分かり易く表現しようとしているのかもしれません。(あたかも、日本語の語尾には、自分の感情が入っていたり、相手に、気を使ったりの表現が入っているように・・・)
 日本語で、軽重、どちらも包含してしまうような一語で、表現されますと、ベトナム人はどんなイメージを描くのでしょうか。
 レトリックを用いて同じ現象を、別の言葉を使って表現したりする日本語を使われますと、それこそ、何を言っているのか、良く分からないでしょうね。

 もしかしますと、日本人が編集した、日本語教本は、彼らにとっては、意味不明の教本かもしれません。正しい日本語で書いてあるから、正しい教本だとは限らないということでしょうか。以前から、スリーエーネットワーク社の出版物には、ベトナム版が、やたら、沢山出ていますのは、そのあたりの穴を埋めするためのものなのでしょうか。

 日本語教室の経験では、いくら丁寧に説明しても、彼らが「ポカン」としているケースに何度も出くわしていますが、聞き取り難い。発想しにくい。言語習慣が異なる等々、可成り悪条件が重なっていたのですね。


日本語文例理解の困難点 : ベトナム在住ベトナム人学習者の場合
http://naosite.lb.nagasaki-u.ac.jp/dspace/bitstream/10069/5571/1/KJ00000040216.pdf

 現在、私は、海外で日本語教師をやるのなら、ベトナムはどうだろうと考えていますので、そろそろ真剣に取り組まなければならない課題です。
 こういう観察は、非常に有り難いですね。アマチュアの私が、たとえ、時間を掛けても、恐らく、上記のような観察にたどり着けないでしょう。しかし、このようなインフォメーションが有りますと、説明に使う私の言葉も、慎重にならざるをえませんし、学習者に「キョトン」とされますと、「これは何か有るな」と注意を喚起させてくれるでしょう。

 私が経験した中で、よく似た例を挙げますと、韓国人に、「新聞」の「ん」の発音は、[n]ですか、[m]ですか、それとも[ng]ですかと聞かれたことが有りましたが、その時は、どの発音でも、日本人には、「ん」に聞こえるから大丈夫と、可成りいい加減に答えましたが、彼にとりましては、話すときも、聞くときも、いちいち頭で考え判断しなければならないでしょうから、とまどいもあり、会話においては、随分エネルギーを消耗したでしょうね。
 一度、日本語がペラペラの韓国人に、そのあたりをどう処理しているのか質問しましたが、残念ながら明確な回答を得ることが出来ませんでしたので、いまだにペンディングの状態です。

レトリック
 比喩・レトリックは、単純に、「たとえ」と捉え、今まで狭い範囲でしか考えていませんでしたが、どうも、いわゆる多義語もその範疇に入るような気がします。まるで、言葉の遊びのように使われますと、なかなか頭の方がついてまいりません。
 例えば、直ぐ使いそうな「気が走る」とか「理解が進む」とかの「走る」、「進む」は、気が「走る」訳でもありませんし、理解が「進む」訳でもありません。一種のレトリックですが、ほとんどレトリック・比喩とは意識することなく使っています。
 しかし、これが高度に発達しますと、理解しにくいでしょうし、言語習慣が異なれば、更に難しくなるでしょうね。ところが、これが有りませんと、シャレ・ダジャレの「言葉遊び」さえ成り立ちません。

「日本語のレトリック」-文章表現の技法- 瀬戸賢一著という本が有ります。





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